住専問題、の教訓

 もはや食傷気味の住専問題である。こちとらが何をどう感じてようが、そんなものとはまるで関係ないところで政治ってのは動いてやがる。

 あんたらのそういうやり口は確かにあんたらの位置から見える現実には有効なんだろうし、なるほど、かなりの程度間違いないことなのだろう。でも、その間違いないやり口が今やここまでこちとらの感じてることとズレちまってるのはなぜか、その理由をあんたら本気で考えようとしたことはあるんかい?

 国民が怒らない、と言われて久しい。どんな大問題も時間がたてば忘れてしまうから政治家も官僚も大企業もみんなタカをくくっているのだ、だから立ち上がらねば、というアジり方もまたすでに古典芸能となっているけれども、しかし、その「立ち上がる」ってのも具体的には一体なんなんだ、よくわからねえぞ、俺あ、というこちとらの真実もあるわけで、かくてほとんどの国民は誰も具体的な行動になど出ない。

 不特定多数の人間が、それこそ国会前とか日比谷公園とか、あるひとつの場所に具体的に終結して何か気勢をあげる、という「立ち上がる」形もまたすでにひとつの歴史なのだ。そういう意思表示のスタイルだけが「立ち上がる」ことの全てだという思い込みに立てば、そりゃ今どきの国民の大多数などは大ボケの群れにしか見えない。「衆愚」なんてもの言いも「だからこの国はダメなんだ」的な悲憤慷慨もラクにできるし、また逆にそこに「声なき多数」なんて妙な信頼を勝手に押しつけてきたのが戦後の保守政治の伝統だったりもする。でも、これってどっちも同じことの裏表。これまでと違う「立ち上がる」が起こり始めているかも知れない兆候についての鈍感さについては、全く同じなんじゃないの?

 言うよ。少しずつ、ゆっくりと事態は変わり始めている。あんたらの位置から見えにくい死角で、あんたらの常識を超えた「立ち上がる」が静かに芽吹く準備を始めている。

 ごく近い将来、総選挙が行なわれるのだろう。その時、投票率はこれまでになく低いものになるかも知れない。しかし、菅直人は彼や彼のまわりが考えている程度をはるかに超えた歴史的な圧勝をするだろうし、社民党の古手議員などは当人たちの甘い予測をずっと通り越した無残な討ち死にを軒並みするだろう。党や政策の善し悪しではない。どこの党であれ、未だ名前の知られていない比較的若い世代の候補者たちが予想以上に堅実な得票をするだろう。それはごくささやかな兆しでしかないけれども、歴史はきっとそうやって変わってゆく。そう、気分だってすでにひとつの現実。それを“力”にしてゆく度量のない痩せた民主主義などもう糞食らえ、だ。