マック鈴木の苦戦

マック鈴木が苦戦している。現実にももちろんだが、メディアの舞台での語られ方としてもかなり苦しい。

海外で「成功」することというのは、明治維新このかた、日本人の精神史の中である輝かしさと共に語り継がれてきた重要な物語のひとつだ。

とりわけ、アメリカで「成功」することは、戦後それまでより大きな意味を持つようになった。ビジネスや科学技術などはもちろん、芸能やスポーツといった分野でも、アメリカでの「成功」伝説の系譜は脈々としてある。それは「日本」という、われわれが存在する上で逃れようのない条件をわれわれ自身がどう意識してきたのかについての歴史であり伝統でもある。

けれども、最近その伝統の風向きがこれまでと少し違うものになり始めている。

たとえば、野茂だ。あまり日本人日本人と言ってそんなに「日本」を背負わせるな、野茂はもうすでにひとりのアメリカ人なのだ、というもの言いがそれなりの共感を得ている。「日本」を過剰に背負って「成功」を語ることのカッコ悪さというのはオリンピックなどにもすでに現われていて、それは構造としては「郷土」を背負った高校野球の語られ方のズレ加減とも共通する。スポーツという土俵はそんな国や出身地といっためんどくさくもかったるい、しかし人が存在する上での逃れられない条件を超えたところにあるのだ、という考え方を背後にしたこのもの言いは若い世代を中心に支持され始めていて、最近の海外旅行や留学などに見る「国際化」の雰囲気を大きく規定している要素にもなっている。

けれども、そのような一見国際派っぽく、またリベラルにも聞こえるものわかりの良さというのは、実は「日本」に対する屈託の別の表現という面もあるように思える。

少し前、あれは確かスポーツ新聞のコラムだったと思う。プロレスラーの大仁田厚が、野茂の「成功」についていろんな意見があるけれども自分はやっぱり日本人としてうれしい、といった意味のことを素朴に書いていた。文字通り裸一貫でアメリカに渡り、差別などいろんな困難に耐えて巡業して回った経験がある彼にとっては、そのような「違い」を乗り越えざるを得ない「よそ者」という意味での「日本」をいきなりなかったことにして野茂の「成功」を語ることはできないのだろう。その感覚は、僕にはごくまっとうなものに思える。

野茂をいきなりアメリカ人扱いしてもてはやしたがる今どきの「日本」のそんな視線が、逆にマック鈴木を必要以上に苦しめてはいないだろうか。まっとうに「日本」を背負えなくなった不自由は、逃れようのない「違い」を直視しない、できない無責任な観客の横暴にもつながっている。