「個人の自由」の現在

 先日、いわゆる麻薬の使用について若い衆を対象にアンケートをとったところ、予想以上に多くの高校生が「そんなものは個人の自由」と答えた、という報道があった。

 もちろん、わざわざ記事にされているその文脈というのは、例によって「こんな結果が出るとは驚きだ」であり、「良識ある大人の“困ったもんだ”気分」てなものをかき立てるものになっていた。

 でも、どうなんだろう、別に今どきの若い衆のカタを持つわけじゃないけど、これってどう解釈するか、結構難しいと思うんですよね。

 そういう不特定多数の世間の気分の察知と風向きの計測とを稼業の一部にしている民俗学者としての感覚から言わせてもらえば、その「個人の自由」と答えた高校生たちの意識のありようってのは、「個人の自由だからやりたい奴がやるのはそりゃしょうがないっていうか、俺がどうのこうの言うこっちゃないと思うよ。でも、だからって俺がバンバンそんなクスリをやるかっていうとそれはまた別だけどさ」てなところなんじゃないかいな、と。つまり、単に「やりたい奴はやればあ」ということなんで、別に「個人の自由なんだからクスリをやるのは全く正しい」とまなじり決して大上段に主張している、そんな確固とした態度表明なんかじゃないだろうと思うんすよ、俺は。

 他人のやること言うことに関わりたくない、関わるのは礼儀に反する、何かそういう感覚をあらかじめ前面に出して自分自身の判断を示さずにすむための仕掛けとしてこの「個人の自由」ってもの言いは使い回される。だから、援助交際もそうだけど、このクスリの問題も、確かに最近ハマってる若い衆が増えてはいるんだろうけど、でも、それがどのように語られ報道されているのかも含めて考えた場合、それらのもの言いと正味の実態とのズレはかなり慎重に計測しようとしておいた方がいいと思うんでありますよ。 もちろん、それはいいこっちゃないわけで、前も言ったけど、例の神戸の酒鬼薔薇の一件で、クラスのひとりが猫の足ちょん切ったりしているのをあらかじめ知っていて、でも、それはそいつがやりたくてやっていることなんだろうから別に俺がどうこう言うことでもないだろうし、と見て見ないふりをしていた、そんな同級生たちの気分と基本的に同じものなんすけどね。

 そう言えば、あの神戸の事件はなんか某左翼セクト発の「冤罪」説で盛り上がってて、そういう主張を臆面もなく垂れ流したブックレットも書店に出回ってるみたいだけど、いやはや、出るもんが出たか、という感じでアホとしか言いようがない。毎日新聞の福岡支局がその件をちょこっと書いたら何かまたからまれたとかで結局は謝罪したらしいけど、でも、今の時点で素朴に考えりゃそんな「冤罪」説なんかオウムの被害妄想並みに荒唐無稽な代物であることは必定。いくら相手にするのが面倒だからってそんなもの、こっちから頭下げることなんか全然ありゃしませんっての!

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*1:サンデー毎日』「ちょこざいなり!」連載原稿