「郵政大臣官房総務課課長補佐」中村伊知哉さん 前編 

 もらった名刺の肩書が「郵政大臣官房総務課課長補佐」。おお、こりゃバリバリの若手官僚であるぞ。
 「官僚」というと何か無条件で悪いヤツというイメージになっちまってる昨今だが、しかしその実体はなかなか見えてこない。とりわけ、三十代以下の若い世代がわからない。でもこんなご時世のこと、同じように「豊かさ」を享受してきた世代のはず。案の定、眼の前に現われた中村伊知哉さんは、かの「電説」の神足祐司センセイばりに蝶ネクタイをしめ、しゃれたメガネをかけた伊達男。広告代理店勤務と言われた方がよほどしっくりくる。アスキーから『インターネット、自由を我等に』という本も出しているこの今どきの郵政省課長補佐のお話を、今回はひとつうかがってみることにした。

――失礼ですけど、いつもそういう格好で勤務されてるんですか。
中村 いや、役所に入った頃はもっと派手だったんです。就職試験に黄色のスーツ着ていったりして。
――具体的にはどういうお仕事を。
中村 メディア関係の法令を担当してるんですが、法律を作ることもするし規制緩和もするし、よろず承りですね。
――今年でもう何年くらいお勤めで。
中村 昭和五九年入省ですから十二年目ですか。
――このままいくとこの先、どういうコースをたどるんですか。
中村 いろいろあるんですけどね。地方の局長とか審議官とか。行きつくとこまで行くと事務次官ですけど、まあ、そこまでいくかどうか。
――どうして郵政省だったんですか。
中村 (あっけらかんと)テレビが好きだったんですよ。マンガも好きだし。真面目な話、七〇年代の『パーマン』とか『ハクション大魔王』とかを今見ると、当時ものすごい才能が注ぎ込まれてたんやなあ、と思いますね。
――そういう話は省内で通じますか?
中村 (即答)通じません。
――同年代でも?
中村 同年代でもダメですね。たまに埋もれた“おたく”はいるんですけどそれを探すのが難しい。
――いずれにしても、まわりからは浮いてるわけですね。
中村 どうなんですかねえ。学生時代はバンドやってたんですが、当時はパンクが日本に入ってきた頃で、しかも大学が京都で結構過激だった上に、悪いことにそのムチャクチャの真ん中にいたりしたもんで。
――京都で、その七〇年代末から八〇年代初めのムチャクチャな場所というと……ひょっとして西部講堂とか。
中村 はい、西部講堂です。もう、まわりはモヒカンの奴とかシンナーで鼻飛び出た奴とかばっかり。そんなんがまわりで乱闘してる時にモギリやりながら公務員試験の勉強してたわけですから、あいつはもうほっとけ、と(笑)。まわりにそういう連中ばっかりだと、連中の持ってる業とかクリエイティビティの深さとかよく見えるわけですよ。で、どうやら自分にはそういうクリエイティビティというのがないらしいと気づいて、ああ、自分はそういう場所にいちゃいかんなあ、と。
――でも、面白かったでしょ。
中村 面白かったですよ。毎日必ず何か事件が起きてましたからね。大学入った頃に西部講堂の前で寝っころがって朝から晩までずっとラッパ吹いてるオッサンがおったんですけど、、ある日いなくなって、あれ、死んだんかなあ、と思てたらテレビに出てきて、それが近藤等則だったという(笑)。
――ああ、しみじみええ話や(笑)。
中村 解散したボ・ガンボスのどんとなんか二級下になるんですけど、食堂で日経新聞読んだりして真面目な奴でしたね。とにかく何でもありだな、ということだけはよくわかりましたね。
――もともと役人になろうという希望はあったんですか。
中村 それはないです。公務員試験にうかった時もなんか別の生き物みたいな眼で見られましたね。西部講堂にいて国家の手先になるとは何ごとや、と。
――コンピューターとの出会いは?
中村 役所入って二、三年目やったと思いますよ。それまでは使ってなかった。仕事で必要なんで使っただけで、特にハマったりということはないですね。だから、今のところは必要により使うという道具のレベルですね。ただ、仕事柄文字とか論理を扱ってるもんでその限りでは僕もハマらざるを得ませんが、映像とかそういう表現のレベルではまだ機械の方が進化してくれてないなあ、と。だから、はよここまでこんかい、という感じですね。

 事前に資料として読んだ著書の文体が本当になつかしくも気恥ずかしい感じで、ああ、こんなところにもいやがったか、八〇年代トンガリキッズの生き残りめ、と悪態ついていたのだが、いざ会ってみるとご本人には思ったほど臭味はなかった。メディアがらみの法令を扱う書類が眼の前を通り過ぎてゆく政策の現場で彼の見ているものは……次回、続きを刮目してお待ちあれ。