とり・みき インタヴュー

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――こういうインタヴューとか対談といった仕事はこれまでもされてたんですか。

とり いや、初めてですね。最初は、別にマンガ家に限らないで自分が興味を持った人のところに行って話を聞くというシリーズだったんです。編集部としてはマンガを描いて欲しかったらしいんですが、そういう時間がないんで企画ものならいいよ、ということになったんで、ミュージシャンやアニメ関係の人なども含めて話を聞きに行きました。永井豪さんの回はその時のものなんです。で、何回かやってるうちに、他のジャンルの人たちよりもマンガ家さんに話を聞いているときの方がやっぱりおもしろい、ということになったんです。それに、媒体が少年誌ですから、マンガ家以外の人は読者の食いつきが悪いとい
うこともあったみたいですね。

――ということは、人選にはとりさんの意志が当然入ってると考えていいわけですね。

とり ええ。ただ、少年誌なんで自分の好きなマンガ家さんを選べるかというと必ずしもそうじゃないわけで、たとえば『ガロ』系の人とかは難しいし、徳間書店で全然仕事をしたことのない青年誌専門の人とか、あるいは『ジャンプ』の作家さんとか、そういう人もまたできない。それに、この『少年キャプテン』というのは少年誌であると共に、アニメ寄りというかおたく度の強いマニアックな読者が多い雑誌なんで、あまり自分の趣味に走らない方がいいと思いましたしね。だから、ここに収められている中ではしりあがり寿さんなんか異質な方ですよね。僕なんかにしたら自然なチョイスだったんだけど、しりあが
り寿って誰、っていう問い合わせが読者からあったくらいで(笑)。

――これはマンガ家だけじゃないかも知れないけど、そうやって同業者にインタヴューされるのっていやがるケースが多いじゃないですか。とりさんにインタヴューされるのは勘弁してくれ、って人はいませんでしたか。

とり みんないやだったんじゃないですかね(笑)。ただ、僕みたいに自分で話を考えて
自分で描いている人を選んだわけですから、どちらかというとギャグ寄りになりますよね。

――断わられたケースは?

とり なかったですね。

――それは、同業者というのがむしろ安心させる要因として働いたのかな。

とり それはあると思いますね。自分の印象では、雑誌のインタヴューで編集者が来て話を聞くよりも、割とみんな本音でしゃべってくれたと思います。

――その掲載誌だった『少年キャプテン』はどれくらい出ているんですか。

とり よく知らないけど、十万部はいってないんじゃないかなあ。アニメ世代の高校生以上の読者を狙ったこういう少年月刊誌というのは三つくらいあって、この『キャプテン』と『月刊少年サンデー』と九〇年代になって出た角川の『月刊少年エース』なんです。あと他にもいくつかあったんですけど、結局生き残ったのはこの三つですね。まあ、『少年エース』は例の「エヴァンゲリオン」という大ヒットを出したんで最近はもっと出てるんでしょうけど、基本的には後で単行本にするための受け皿とか、アニメとのタイアップを図るとかでやってるところが多いはずです。

――ということは、読者層はいわゆる少年誌よりも上になりませんか。

とり なりますね。誌名は「少年」ってついてるけど、実際には高校生・大学生から三十歳手前くらいが一番多いんじゃないか、って編集長も言ってましたね。

――それはいわゆる「アニメ世代」と言っていいと思いますが、その「アニメ世代」というのはとりさんの感覚では上下どれくらいの年齢幅があると感じてますか。

とり うーん、僕が今三十八歳ですけど、上がだいたい僕ぐらいの年齢ですかね。二十代以下の人、たとえば今の高校生なんかはもう違いますよね。アニメを好きだという人はいても、作り方とか声優がどうのとかいうところまでガチャガチャ言いながら見るという人は、二十五、六歳あたりから上になるんじゃないですかね。

――その世代を規定する要素って、敢えて言えば何なんでしょうね。

とり そうだなあ、生まれた時がアニメの黎明期で、それと共に歩んできたことがひとつありますよね。だから、アニメというメディアの成長と共に自分も成長してきている。たとえば、僕なんかだったら中学生の頃に宮崎駿さんのやった『ルパン三世』があって、中学の終わりくらいに『海のトリトン』があって、高校になったら『宇宙戦艦ヤマト』があって、という風にその時代その時代でアニメの作品と自分の成長とが重なっている。ただ、僕は高校出てから三年間ぐらいテレビのない生活をしてたんで、アニメ体験が『ヤマト』で止まってるんですよ。そのことは結果的にはとてもよかったと思ってるんですけど、そ
の間に一般のアニメファンは完全に『機動戦士ガンダム』に移行してましたからね。なのに、僕はガンダムをリアルタイムで経験していない。今の劇場アニメでもエヴァでも根っこはガンダムですから、僕はそのへん感覚としてあんまりよくわからないところもあるんですよ。

 実を言うと今、劇場アニメの企画に関わっているんですけど、それで痛感するのは、マンガはやっぱり個人で作るものだってことなんですよね。アニメや映画はそうでなくて団体での制作になる。まあ、最終的には監督の独裁ですけど、でも、その違いは大きいです
ね。


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――すると、とりさんの今の主たる仕事はマンガ以外の方が多くなってるんですか。

とり いや、マンガが多いですよ、やっぱり。今、ちょうどいろんな連載が終わろうとしている時なんでちょっと微妙なんですけど、自分が一番力量を発揮できるマンガというのは最低でも十六枚くらいのページ数があってギャグをてんこ盛りにしながらストーリーが進んで行くという形だと思うんですよ。でも、最近ではギャグものとストーリーものとは作り方がはっきりわかれてて、ストーリーものは二十ページくらいでさっき言ったアニメや映画の作り方と近いものになってる。つまり、あらかじめ編集部で企画を立てて実質編集者が話を作って、ゴーストライターもいて資料も集めて、最終的にマンガ家にアンカーとし
て描かせるという作品が青年誌や少年誌の場合はメインになってますよね。で、僕はそういうやり方はとてもできない。

――できないんですか、それともいやなんですか。

とり  (少し考えて)……いやです(笑)。できるとは思いますけど。で、それに対してギャグマンガというのは個人のパーソナリティに頼った作り方を今でもしてるんだけど、ページ数がとても少ない。長くても八ページだとか。ほとんどが四コマですよね。七〇年代半ばから八〇年代の初めくらいにメインだった十六ページでギャグも入って、って形のマンガが、今は青年誌にも少年誌にもないんですよ。ないないと言って嘆いていてもしょうがないんですが、どうも今のギャグマンガの形は僕の本領ではない。ほんとはやっぱりさっき言ったような形のマンガを描きたいし、そういう場所がないかと一生懸命探しているんですけどね。

――マンガの生産工程がそういう風に編集部主導になっていったのは、いつ頃からなんですか。

とり いつ頃からなんだろうなあ。たとえば、一見描き手の個性が強いように見える『ナニワ金融道』みたいな作品にしても、ストーリーの六割七割くらいは編集部で実質作ってるはずですよ。結局、そっちの方が商業的に間違いなく数字がとれるということなんでしょうね。ここ二年くらいで言うと、少年誌で一番ヒットした作品は『金田一少年の事件簿』だと思いますけど、あれはまさにそういうスタッフワークで作った典型ですよね。

――作者の名前なんか誰も覚えてないよね。

とり 覚えていない。掲載誌が確か『マガジン』だったよね、ぐらいで(笑)。でも、やっぱり最近一番売れたマンガなんですよ。

編集O氏 マンガ史的に言うと、『少年マガジン』の内田編集長が原作というシステムを考えだした時にそういう編集者主導が始まった、ということに一応なってますね。

とり でも、その頃はまだ原作者の名前が出ていたじゃないですか。梶原一騎とか。今ははっきり言ってほとんどゴーストが書いているような場合でも原作の名前が出ないことがあるし、八割くらい編集者がストーリー考えて場合によっては具体的なコマ割りまで作ることだってあるようですから。

――それはある意味では、作者の力量が編集サイドから信用されなくなっているということですか。

とり そういうことでしょうね。もちろん、作者にそれだけの力量があって人気もとれるという人は任されてるんですけど、でも、だからと言って編集者の名前はクレジットされたりしない。そのマンガ家の名前で出る。

――で、とりさんはそういうのはイヤだ、と。

とり イヤですねえ。まあ、ギャグマンガというのはいつかは枯れ果てるしかないのが宿命らしいんですが(笑)。僕はギャグじゃないマンガも全体の二割くらいは描くんですけど、ギャグはひとつの作品が四ページくらいなのにストーリーものは一回三十ページくらいだったりするんですよ。すると、物理的な時間はストーリーマンガにかなり時間をとられるんですよね。それがやっぱりストレスを感じてるところですね。

――アシスタントは使うんですか。

とり ストーリーマンガの場合は使います。ギャグの場合は四ページくらいだったらひとりでできちゃいますし、十ページくらいまでならひとりでひと晩で描けるかな。



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――これまで一番売れた作品は何ですか。

とり やっぱり『少年チャンピオン』に連載していた『クルクルくりん』じゃないですかね。マンガってのは八〇年代半ばくらいから店で売られる単行本は“ビニ本”になっちゃいましたから、立ち読みして買うってことができないわけですよね。ということは、最初に掲載した雑誌の声の大きいところ、発行部数の多いところがそのまま単行本の実売部数にほとんどの場合つながってゆく。そういう意味で『くりん』も売れたんだと思います。

――それは一番気に入った作品でもあるわけですか。

とり うーん……難しい質問ですよね(苦笑)。まだ描き始めてまもない頃でしたからね。その頃編集が言ったことで反発してたことでも今になってわかることもありますし、逆に今でも頑なに「そんなことないぞ」と思ってるところもありますけど、どっちにしてもそういう経験を一度しないといけないとは思います。

 ただ、僕って『チャンピオン』でデビューしたにも関わらず『ガロ』にも描いてるヘンなマンガ家なんですよね(笑)。そんな人は他にいないんじゃないかと思いますけど。

――単行本は青林堂から出したりね(笑)。

とり そう。で、青林堂から出した次の単行本は小学館から出したりとか。あるいは全然マンガの出版社じゃないところから出したり。

――それは、例によって『ガロ』に思い入れがあったんですか。

とり いや、そうでもない。僕は読者としてはどちらかというと『COM』派なんですよ。でも、『ガロ』に載ってる作家の人のものも好きでしたし。ただ、どうも『ガロ』の人たちの話を聞いたり読んだりしてると「メジャーはダメだ」みたいなところが見えるし、逆にメジャーの人は「あんなものに描くようになったらおしまいだ」みたいなところがあるし、そういうのは僕は読者の時代からイヤだったんで、両方に描くのがいたっていいんじゃないか、と思ってましたから声がかかった時には意識的にお引き受けしたんですよ。

――最近の『ガロ』は原稿料は出るんですか。

とり 出ません(笑)。ただ、これはちょっとずるいかも知れないんですけど、今メジャーの出版社は短編集の単行本はほとんど出さないんですよね。よほど連載の単行本が売れている人ならば別ですけど、それでも単発の短編集は連載のものほど売れないのが普通ですし、マンガっていうのはやはり作者名でなく作品名で買うものですからね。ところが、僕はいろんなジャンルの雑誌に短いものをいっぱい描いている。でも、いざそれをまとめて短編集として出してくれるところがあるかというとどこもない。それこそ宝島やマガジンハウスで描いたものなんか出してくれるところなんてない。だから、こういう言い方し
たら青林堂さんに申し訳ないけど、そういうどこにも出してくれない短編を集めて、もちろんそのままじゃバラバラな印象がするんでちょっと描き足したり手直ししたりして一冊にして出してもらう、という形で、僕としては割り切ってやらせてもらっています。



――さて、生い立ちを聞かせて下さい。

とり 生まれ育ったところが田舎でね。熊本の人吉というところだったんですが。

 家は開業医だったんです。田舎なんだけど開業医の家っていうのは親がそれなりに本をたくさん買って持ってて、都会の情報が入るようなコネクションもあるんです。でも、まわりはやっぱり全然田舎なわけですよね。その落差がすごい。だから、マンガ家ではないにしろ、テレビでも映画でも文章の仕事でも開業医にならないんだったらそういう仕事につくためには東京に出てゆくしかなかったんです。

――ご兄弟は?

とり 妹がひとりいます。

――ということは、長男ですよね。家を継げとは言われなかったんですか。

とり 親はそういうことは言わなかったですね。ただ、田舎ですから親は言わなくてもまわりの人、近所の人や先生や同級生は当然家を継ぐものだと決めてかかってるわけですよ。そういう中で育ってると、親は言わないけどどうも継がなくてはいけないものらしい、と思うようになってしまう。だから、高校まで国立理系の進学クラスにいたんですよね。

――グレなかったんですか。

とり だから、高三になってグレたんですけど(笑)。高三の時にいよいよ一年後には大学受験だからはっきりさせなきゃいけないと思って、もしかしたら家を継がなくてもいいのか、って父親に聞いたんですよ。そしたら、別に継がなくてもいい、って言ったんで、せっかく理系のクラスに入ったんだけど何の意味もなくなった。さっきも言ったように東京に出ることをまず考えてたんですけど、東京で国立って言ったら東大か一ツ橋か外大くらいしかない。そんなところに入れるわけもないんで、それから私立文系の勉強しかしなくなった。もっと早く言ってくれてたら考えようもあったのに、と(笑)。ただ、オヤジ自身も酒屋の長男なのに酒屋を継がないで医者になってるんですよ。だから息子にも強制しなかったのかも知れない。

――どっちにしてもそこそこカネとヒマのある血統ですね。酒屋とか医者とか。

とり そうですね。道楽に走れる。田舎なのに(笑)。父親も開業しながら地元の新聞に随筆書いたりしてたんですよ。典型的ないやな地方文化人(笑)。

――いやいや、そういう方々がニッポンの文化を下から支えてきたんです。民俗学なんてのもまさにそういう人たちが中核でね。自分の診察室をサロンにして同じ趣味の仲間を集めたり、そのうち同人誌もやってみたり。

とり 画人とかがやってくると逗留させたり(笑)。映画監督の大林宣彦さんの家もそういう感じだったらしいですね。お父さんがお医者さんで、知らない間に偉い作家が家に泊まってったりね。

――で、子供がたいてい道楽一本に走って家がメチャクチャになる(笑)。

とり うちのオヤジもその頃の田舎の人にしては、僕がマンガを読んでても怒らなかったですね。なにしろ父親自身自分でマンガ描いたりしてましたから。もちろん遊びですけど、四コママンガ描いたり、小児科だったんで診察室に自分の描いた当時の有名なマンガを模写したものを張ったりしてましたよ。

――それはまたかなり特異な環境で生まれ育ったと言っていいですねえ。

とり そうですねえ。育ってる最中はわからなかったですけど、魔窟のようなところで育ってたんだなあ、と(笑)。人吉って盆地なもので、そこから出ていくということがほとんどない社会なんですよ。だからものの考え方が盆地内で自閉してるというか。たまに帰っても会話とか非常に辛いものがありますね。

――じゃあ、東京に出てきた時は解放感があったでしょ。

とり ありましたね。ただ、ありがちなことですけど過度な期待に反するしっぺがえしもありましたね。当たり前ですけど。

――出てきたのはいつ?

とり 熊本で浪人を一年やってからですから、七七年の春ですか。

――ああ、じゃあ俺と一緒だ。あの頃、地方から出てきた人間にとって辛かったですねえ、東京は(笑)。

とり 暗かったですねえ。

――これが五年遅れてたらもっといい目をしてたんじゃないかと思うんですけど。

とり ああ、それはほんとにそう思いますよ、すごく。



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――確か、大学では落研に入ってたんですよね。もともと落語は好きだったんですか。

とり 好きでしたね。オヤジがそういう落語のレコードを買って持ってたもので、しかもレコードと一緒に速記本もあったから漢字が読めるようになった小学校の三、四年頃から活字とレコードの両方で落語に接してた。だもんで、五、六年になるともうソラで十話ぐらいは暗記して友だちに話してましたね。

――バカな小学生だね、それは(笑)。

とり 学校の行き帰りに友だちに話して聞かすという、『寝床』よりもひどい状態。でも、今のこぶ平よりネタ数は多いんじゃないかと(笑)。

――オヤジさんはそのこと知ってたんですか。

とり ええ。オヤジ自身が宴会とかで自分で語ってましたからね。そういう落語の教養ってあるじゃないですか。それは東京にいる人なら昭和三十年代くらいまでは当たり前にみんな持ってたようなものなんだろうけど、田舎ではまだ珍しいものだった。

――白状しますと、僕も実は小学校から中学にかけて落語のエアチェックテープを数百本作ってずっと聞いてたという実にクラい過去がありまして(笑)。育ったのが関西だったもんで上方落語なんですけど、すでに立派な落語マニア、芸能おたくだった。だから、そのへんの感じは皮膚感覚としてよくわかりますね。そういう落語とか、いわゆる“語りもの”系の芸能で耳から作られる教養って、確かにあるんですよ。

とり ありますね。これは中学くらいまでに聞いてないと絶対にわからないと思いますよ。だから、大学に入って何かサークル入ろうかって時にも、自然に落研に入っちゃったんですね。

――漫研じゃなかった。

とり ええ。マンガはそういう風にみんなでどうこうするもんじゃない、って気持ちが強かったんで。まあ、明治の漫研は人材を輩出してるんですけどね。

――いしかわじゅんさんとか、山田詠美(双葉)さんとか。

とり あ、山田さんは英文の同級生なんです。でも、別に教室で会ったりしませんでしたから覚えがない。こっちも授業にほとんど出てませんでしたからね。

――まあ、そういう経歴があるからとりさんのギャグには芸能ネタがよく出てくるんだ。それもかなり“濃い”のが(笑)。

とり そうなんですよねえ。だから古いネタとか多いんですよ。さすがに今は「ああ、これって古いんだな」って自覚するようになりましたけど、最初マンガに出し始めた頃はそういう意識はないんですよ。自分が成長してく過程で自然に得たものでしたから、まわりの人間がそれ聞いてわからないっていうのがわからなかった。

――落研の人にもわからなかったんじゃないですか。

とり そうですね。自慢じゃなくて、大学に入った時点で落研の中の人でも僕ほど落語に詳しい人いませんでしたもの。だから三、四年生の先輩たちのウケがいいんで、同級生なんかにはちょっといじめられてました。僕が一年生の時のその四年生の中に「コント赤信号」の渡辺さんと小宮さんがいましたけど(笑)。明治の落研ってのは、プロも何人か出してたりするんですごく厳しいんですよ。芸界の妙なタテ社会をそのままサークルに移行してるみたいな悪しき部分があって、全然体育会ノリなんです。いかに人前で恥ずかしいことやるか、とか、フリチンでパンストはかされて路上でピンクレディーをやりながら
客引きするとか、そういうことをやらされるわけです。それが最初はすごくイヤでね。ただ、マンガ家としてのデビューが大学三年だったんで大学自体中退しちゃいましたから、ちゃんとした落語家の名前をもらってない。プロの落語家と一緒で、新入生は前座みたいなもので先輩たちがいい加減な名前をつける。僕の場合はそれしかないんですよ。和泉家シーチキンって名前でしたが(笑)。



○●
――それで、マンガで食おうという意志が芽生えたのはいつ頃からなんですか。

とり マンガの絵自体は幼稚園から描いてたんですよ。ほら、クラスで一番絵がうまい奴、っているじゃないですか。そういう奴だったんですね。

――じゃあ、いわゆる人気者だった?

とり いや、違いますね。いつも一歩引いた位置から騒ぎを眺めているというタイプでした。

――でしょうね(笑)。

とり ただ、絵が描けるもんで重宝がられはしたんですよね。たぶんその絵の特技におかげでいじめにも会いませんでしたし。でも、ずっとマンガ家になるつもりはなかったんですよ。なのになんで『チャンピオン』の新人賞に応募したのかなあ……大学もなんかつまんなかったですけどね。

――そうね。われわれの頃の大学はつまらなかったよね。

とり つまんなかったですよ。ほんっとにつまんなかった。楽しかった奴なんているんですかねえ、僕らの世代で。だから、家を継ぐというかなり大きな使命を犠牲にしたんですかね。

――でも、継がなくていいってはっきり言われてたんでしょ。

とり いやあ、継がなくていいよってことは、その代わりに他のところでちゃんとしろよってことですから。好きなことやりたいからって東京出てきたのにあまりにつまらないし、それに、当時田舎から東京出てきた人間にとってはやっぱり大学の授業よりは映画とか演劇とかの方が断然面白いじゃないですか。だからそっちに行っちゃったんですけど、でも、そういうことを続けているうちに、このままで俺は一体何になるんだろう、と思ったんですよ。うまく大学出たって文学部ですしね。

――当時は就職状況もよくなかったしね。

とり そう。でも、そういうことしながらSFのファン活動なんかもしてたんですけどね。これは高校ぐらいからやってたんですけど、さっき言ったように人吉っていうのは郡にSF雑誌が二冊しか入ってこないようなところで、その一冊を買ってる読者だった(笑)。もう片方の一冊を買ってのが同じ高校の同級生だったんですけど、そいつは今は生物学者になってますね。

――落語、SF、マンガ、映画、芝居……やっぱりまともになりませんね、そりゃ(笑)。

とり だから真面目に考えちゃったんですよ。自分は子供の頃から何になりたかったんだろう、と。それで、幼稚園の頃から現在まで一貫して続けてるものは何だろうと考えたら、マンガだった。でも、作品として原稿化したものは描いたことがなかったんですけど、当時いろんな雑誌が新人賞をたくさん作り出してたんでやってみようと思ったんです。で、描いたら描けたんですよね。最初は選外佳作になって手が入って掲載されてトントントンとことが運んで、何回か載ったら「じゃあ、次は連載いこうか」って言われて、それっきりマンガ家になっちゃったって感じですね。 そうやって短い連載がふたつくらいやった後、『るんるんカンパニー』ってのが一年くらい続いたんですけど、その間に身体こわしちゃったんですよ。自分じゃ一番面白いと思ってるギャグをてんこもりにしてやってたんですけど、編集者は「なんでこんな古いギャグ持ってくるの、今の読者にわからないよ」って言う。編集者がいいと言う回と自分が面白いと思う回の違いが当時はわからないんですよ。でも、アンケートの結果が毎週出るわけで、どうもこちらが面白いと思って描いた回の方がアンケートの返りが悪い(笑)。けれども、ギャグマンガってのは自分が面白いということを基準に描くわけじゃないですか。アンケート的にはこっちの方がいいけど自分が面白くないことは描けないんですよ。

――それを「仕事だから」って割り切ってやってゆく気持ちはなかったですか。

とり なかったですね、その頃は。今でもないですけど(笑)。

――もしもそうやって割り切ってたら、今よりもう少しカネ儲けできてましたかね。

とり どうだろうなあ、わかんないなあ。『くるくるくりん』とかはある程度妥協したんですよ。そしたら案の定アンケートは良かったんですね。でも、そうやって自分の面白いことを譲ってやってみても、満足よりもストレスの方が断然大きいんですよ。*2

――ストレスはどういう形で出ます?

とり まず、電話に出なくなりますね(笑)。やっぱり編集者とコミュニケーションしたくなくなりますからね。実際にその頃、心因性自律神経失調症みたいになっちゃったんですよ。電話の最中に動悸が激しくなって倒れちゃった。で、救急車で運ばれていろいろ調べてもらったんだけど、心臓に何も問題はない。ということは、これはストレスがたまってるんじゃないか、と逆算して考えていったんです。とりあえずアルコールとタバコとコーヒーはやめろと医者に言われて、アルコールとコーヒーはその後復活しましたけど、タバコはそのままやめちゃいましたね。

――じゃあ、いわゆるメジャー誌の連載というのは、もうやらないんですか。

とり いや、そんなことはないですよ。こちらは何も拒んでないんですけど(笑)。でも、編集もやっぱりそういう作家はそういう作家として尊重してるところもあるみたいだし、今は少年誌や青年誌以外にもマンガの仕事は増えてますからね。バカ売れはしなくても仕事としてペイできるくらいの雑誌の数ができてますから、編集としてもある程度コントロールできる人の方を使うでしょう。僕自身はさっきも言ったような、自分が本領だと思うギャグマンガが描ける場があればどこでも描いてみたいと思いますよ。

*1:とり・みき、のマンガ家インタヴュー本の巻末につく著者インタヴュー、だったとおもう。担当編集者のO氏と他の仕事で一緒になったのが縁で、確かまわってきた仕事だったはず。『無茶修行』などでも経験したような、仕事を介した同世代&同時代の知性との良き邂逅のひとコマ、ではあった。

*2:もちろんこの後、20年ほどたってからのヤマザキマリとの『プリニウス』などで少しはマシな「カネ儲け」はできたんだろうとおも。