安室奈美恵というフォークロア


安室奈美恵のニューアルバム『SWEET19BLUES』のセールスは、五〇〇万枚を突破しそうな勢いという。五〇〇万枚。見当すらつかないが、ひとまず豪気な話だ。
だが、商品音楽の市場がこういうとんでもない広がりを獲得し始めたのは何も今始まったことでもない。松任谷由実のアルバムの二〇〇万枚というオーダーに眼が点になったのは、確か五、六年前のこと。CD市場の八割ほどがティーンエイジャーによって支えられている、という話を耳にしたのもその同じ頃だった。それがそのまま右肩上がりに成長したとしたら、これくらいのオーダーを獲得する商品が出ることは別に不思議でもない。
それに、眼を転じれば今や出版市場でさえも数十万部という単位でのヒット商品が平然と出現し始めている。去年評判になった『ソフィーの選択』などはなんと百四十万部とか。
 その一方で、それ以外の多くの単行本は基本的に初刷数千部という状態から動いていないし、個々のセールスはどんどん落ちてもいる。ということは、売れるものと売れないものとの間がゆるやかなグラデーションでなく、画然とした不連続を伴って存在するようになってきたらしいのだ。そして、これら本やレコードやCDやビデオや、そのような言わば情報商品の市場の構造変化は、CD市場が先駆けて経験してきたことに他ならない。
必然的に、それだけ多くの人間に選ばれて買われ、聴かれ、あるいは読まれているということの手ざわりが、たとえば今世紀の半ばあたりまでとは変わってきている。それは、たとえばインターネットのホームページが何万回、何十万回というヒット回数を誇っても手ざわりとしてはどこか空虚なのとよく似ている。あるいは学問の世界でも、ある論文がどれだけ他に研究者の論文に引用されたかをカウントする仕掛けがあって、その引用された回数によって研究者の評価が決まってくるようになっている。それはまた、テレビのオーダーがもたらす現実の頼りなさとも近いのかも知れない。テレビの世界では視聴率1%が百万人というのが常識と聞くけれども、その常識がどれだけ神話に等しいものかは、視聴率の勧進元である広告代理店が一番良く知ってやがるはずだ。

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というわけで、手もとにある安室奈美恵のアルバムはまさにその五〇〇万分の一。ロットナンバーこそついていないけれども、そのことは厳然とした事実としてある。
もちろん、僕たちの身の回りにある“もの”たちは全てそのような複製化の現実の中にある。わかってらい。机の上にある鉛筆もはさみもホッチキスも、皿も箸も、全て数万分の一、数千分の一、数百分の一の具体としてそこにある。彼らはいつかどこかの工場で作り出され、製品として出荷され、いつかどこかの店を経由してここにやってきている。
けれども、本やレコードや、そういった情報商品に対しては、たとえそれが大量生産されたものであることがわかっていても、僕たちはどこかでそれをかけがえのない一個、切実な唯一の“もの”として扱ってきていた。自分だけの一枚、自分だけの一冊、という物語の中で、それらを読み、聞き、扱ってきた。安ければ売れる、という単純な市場原理がこれら情報商品に対しては成り立ちにくかったのもそういう事情があるからだった。
だが、今やそれは、たかだか五〇〇万分の一、というあきらめの中に呑み込まれてある。
 鉛筆や万年筆といった筆記用具が、紙が、そしてカセットテープやビデオテープが、いつでもどこでも安価に手に入るようになってゆくことで順次そのような思い入れから離陸していったように、マンガもまた大量生産と大量消費のサイクルに組み込まれていったように、本でさえもそのような思い入れをすり抜けてゆくような「量」の現実の中で存在するしかないようになり始めているように。
それは“かけがえのないたったひとつ”についての神話がゆっくり崩れてゆく過程である。と同時に、そのような“たったひとつ”に同伴する〈いま・ここ〉の確かさの溶解にそれぞれがたったひとりで向かいあうことでもある。
だから、安室奈美恵のCDはどこにでもある。テープに、MDに、複製して持ち歩き、編集さえできる。五〇〇万枚は容易に数千万枚、数億枚になる。増殖してゆく現実。覆い尽くしてゆく暴力。けれども、同じ「量」でもそれはかつての「量」のような熱っぽい手ざわりや圧倒する質感をどうやら持っていない。デジタル複製時代のリアリティとは、その本質として歴史と時間を無化してゆくものでもあるらしい。
ならば、なぜそれが他の誰でもない、安室奈美恵だったのか。これまでのように自明のものとして保証されなくなっているらしい“かけがえのないたったひとつ”という〈いま・ここ〉にまつわる神話を、この五〇〇万部という「量」の暴力の吹きさらしの中で、商品としての安室奈美恵の、それこそ誰が名づけたのか“アムラー”と呼ばれるようなあの若い小さな消費者たちはなお、どのように手もとで支えようとしているのか。


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安室が署名運動をやろうとしたらしいよ、という話が今、まことしやかにささやかれている。沖縄の米兵による少女強姦殺人事件。あの被害者はひとつ間違えたら自分だったかも知れないという同世代の痛みを感じたから安室は動いた――噂はそう説明している。
この話、単なる音楽業界のフォークロアというだけでなく、どうやら彼女のファンの主力と言われる十代の女の子たちの間でも同様に語られているらしい。話のオチは、彼女はそのような行動を起こそうとしたのだけれども、事務所に止められてできなかったんだ、ということになっている。
もちろん、謎はいくらでも出てくる。まず、安室が本当に署名運動を行なおうとした、という「事実」がどのような証拠によって語られているのか。たとえば、彼女の名前で呼びかけられた署名簿のような物証があるのか、それとも、そのように呼びかけられた人間が確かにいるのか、あるいは、彼女の口からそのようなことが語られたのか、話へと成長する「事実」を支える証拠が語りの中に気配としても存在しない。なのに、「実は……」というもの言いだけはまことしやかに流通している。
この話を支えているのは、安室ってそういう風に“社会の問題”にも関心を持つような子なんだよ、という消費者の側の勝手な信頼感だ。そこには、ああいう見てくれと違ってさ、という前提もつく。安室のような見てくれで大人たちからはひとくくりに判断されがちな今どきの若い娘であるあたしたちだって、今やその程度に“社会の問題”に関心だってあるもんね、でも、そのへんって大人はわかんないのよね、という気分の共有。
私たち五〇〇万分の一の消費者が見ている彼女は本当に歌いたいものを歌ってるわけでもないし、ありのままの生身でもないに決まってる、という感覚。ある種のジャーナリズムが図式として持ち出すような、ヒット商品としての安室奈美恵の背後にあるプロデューサー小室哲哉の戦略云々などはこの語りの磁場では実はほとんど意味がない。そういう商品を作り出すシステムにうまく乗っていながら、それでもそういうシステムからどこかで身を遠ざけている「自分」の気配に対する信頼感こそが商品としての安室奈美恵を支えている。そこで感じとられているような「身近さ」や「親しさ」というのは、彼女が歌っていることや彼女が演じてみせる身振りなどの中にそのまま宿っているものではなくて、それら商品としての現われがぶあつく堆積すればするほどよりくっきりと、その現われとの距離感の中に宿ってくるようなものだと思う。安室奈美恵は商品として完璧に演出されればされるほど、そのシステムの向う側に別の等身大をよりリアルに透視するような、そんな今のこの国の若い小さな消費者たちのメディアの仕掛けに対する眼力に呼応するイメージを獲得してゆく。
敢えて強引に言ってしまえば、このような安室のイメージ喚起力はかつての小泉今日子のあの空虚さの末裔かも知れない。何も考えない。何も思わない。生身の意志としての「自分」をひとまずシステムの速度に同調させることで消去し、抵抗を除去して、その結果市場に宿るであろう増幅された「自分」の確かさの方に先回りして身を委ねる。彼女自身が、そして彼女のまわりの商売人たちがそのように自覚しているかどうかとは別に、うっかり獲得した五〇〇万という「量」の中で彼女がなお揺るぎない自己イメージを消費者との関係の中で平然と保っていられる理由というのは、そのような古典的な“玄人”のからくりが作動しているからだと言わざるを得ない。何のことはない、こりゃ角兵衛獅子だ。
他でもない、彼女自身が図らずもこう言っている。

「歌詞については、何も考えずに歌ってます。(…)そういうことを考えてると、全然ダンス・ミュージックにならないと思ってました。」