メディアに顔を出す、ということ

 地下鉄に乗ったら、『サンデー毎日』の車内吊り広告に自分の顔写真が載っているのを発見。あちゃ、しまった、と思ったがもう遅い。いたたまれない。いや、そんなの自意識過剰で実際は誰も気になんかしていないというのは百も承知しているんですけどね。面目ない、やっぱり赤面してしまう。きっと指名手配写真なんか出回っている犯罪者なんて、まずその過程で意識が変わってくるんだろう。えーい、こっぱずかしい、ってんで、次の駅でそそくさと降りてちまったい。

 かねがね思っているのだが、テレビのCMや新聞・雑誌の広告に顔を出す人ってのは、芸能人であれ何であれ、つくづく強靱な精神の持ち主だと思う。考えてもごらんあれ、街角のビルの広告看板にタテ10メートルぐらいに拡大されちまった自分の顔が歯むき出してにっこり笑ってる、なんて状態を。あああ、考えただけで恐ろしい、恥ずかしい。

 そんなこと言うけど、大月さんはテレビに出て平気なんですか、と尋ねられることがある。どういたしまして、平気なもんかい。カメラの前では未だにどこをどう意識すればいいのか、身構え方にとまどっちまう。ただ、それでも慣れってのはあって、ささやかながらも場数を踏んでゆくうちにそのへんはいくらか厚かましくなった。とは言え、何ともしらじらしい感想やコメントをもっともらしくシレッと言ってのける、あのテレビのコメンテーターや評論家特有の“芸”だけは未だにとても真似できない。きっと僕には永遠にできないことと、これはもうとっくにあきらめている。

 ただ、活字ならば、署名原稿でものを言うのにはそれなりの緊張や身構え方がある。“芸”にもできないただ偉そうなだけの意見や難しいだけの主張なんざ犬にでも食われちまえ、と言われないように精進したいものではありますが、なかなか難しいものではあります。



 さて、先々週、連載の口開けで書いた柳美里サンのサイン会中止の一件の原稿が、なんと柳美里ご本人から文句つけられた。詳細は省くけど、小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言』でやはりあのサイン会の一件に言及されたことに文句つけるついでにこっちも、みたいな内容の抗議文が送られてきたらしい。てめえのことなのに「らしい」ってのも無責任なようだが、小林氏の連載が載ってる『SAPIO』(小学館)の編集部に資料付きの抗議文が届いてて、こっちには何も来てないんだもの。つまりはまるで付録扱い。いくらこちとら駆け出しの鉛筆無宿とは言え、こりゃ情けない。

 あの、こんな時にわがまま言って何ですが、せっかく今が旬の芥川賞作家じきじきに文句つけていただけるってんですから、喧嘩を売るならここは一発、付録じゃなく名指しで正面からきっちりやらかしていただけないでしょうか。アタシが嫌いなら嫌いとはっきり言って。そういうの、もう慣れっこだから平気よ。どうせアタシ付録だし。てなわけで、カモン、柳美里