柳美里、このけったいな勘違い

f:id:king-biscuit:20190804183833j:plain*1 6月11日、東京・神楽坂にある日本出版クラブ会館で、柳美里トーク&サイン会が開かれた。主催は、角川書店講談社。去る2月20日、21日の両日、東京と横浜の大手書店四店で予定されていた彼女のサイン会が「右翼」を名乗る男からの脅迫電話などがもとで中止のやむなきに至った、その言わば「敗者復活戦」だった。
彼女が利害を共有する角川と講談社という版元を巻き込んで何とかサイン会をやらせた、そのことはひとまず評価できる。費用その他も含めていろいろと軋轢があっただろうことも推測がつくし、その限りではあっぱれと言ってもいい。
 だが、すでに新聞報道などでご存じの方も多いだろうが、警察も含めた滑稽なほどものものしい警備振りで、飛行機の搭乗口よろしく入り口で手荷物を全部開けさせられたり、会場は全館貸し切りで一度外へ出たら戻れない仕組みになっていたり、その場の雰囲気全てがやはり異様だった。何より、雛壇の上でひとり勝手に悲壮感を漂わせている柳美里自身、その何ともけったいな勘違いがむき出しになったまま痛々しくもそこに放り出されたありさまが、その場の異様な雰囲気の全てが収斂して憑依したようだった。それは、「おいおい、こうなっちまう前に誰かたしなめてやる奴はまわりにおらんかったんかい」と言いたくなるような、見ているこっちがどうにもいたたまれなくなって眼をそむけてしまうような、そんな種類の実に心萎える光景だった。



 2月の事件当初から、それが本当に「右翼」の脅迫かどうか、疑問の声はあがっていた。野坂昭如が『週刊文春』で、鈴木邦男が『SPA!』と『週刊ポスト』で、それぞれ「右翼」という記号を考えなしにまき散らしてまがまがしいイメージをあおる報道の手癖に異議を唱えていた。他でもない、僕もそう言った。

 電話で、多分、「右翼団体に所属する者だが」と名乗ったから、マスコミは『自称右翼』と記事に書いた。だが、この人物、「右翼のようなもの」ですらない。(…)右翼が、この卑怯な、風上にもおけぬ自称「右翼」のこの遣り口に、抗議しないのは不思議。このままでは、竹島問題にからめ、右翼が在日韓国人小説家を弾圧したことになってしまう。
――野坂昭如週刊文春』3月6日号

 もって行き場のない怒りを感じた。もちろん、「新右翼」を名乗って脅迫電話をする人間は許せない。と同時に、こんなことに簡単に屈してしまう出版社、書店、著者もあまりに腑甲斐ないと思った。こんな「いたずら」や「嫌がらせ」に負けず毅然と闘ってほしかった。そんな弱腰が「言論の自由」を危うくしているのだ。
――鈴木邦男『SPA!』3月19日号

 はっきりいって、これは右翼の犯行ではないと僕は思う。右翼は「予告」しないで、いきなり襲う。そのあとで襲撃理由を表明する。(…)こんな愉快犯的なマニアや、人の幸せに嫉妬して嫌がらせの電話をしたり手紙を出す人間はいつの時代にもいる。そして、たいがいは「あっ、いたずらか」と無視する。ところが、「右翼」を騙った途端に大騒ぎになった。
――鈴木邦男週刊ポスト』3月21日号

 ご本人は「私は断固闘う」と言っている。結構。ならばしゃあない、ここは版元も書店もいずれ稼業上の一味同心、腹くくってサイン会をきっちり開催するのがスジだと僕は思う。(…)あんなチンケないやがらせ一発であそこまで大騒ぎして正義の被害者ぶりっこをやらかすなんざ、そうさせるまわりの雰囲気ややけに盛り上がってた報道現場の一部も含めて、まさに「ちょこざいなり!」であります。運動会がイヤで「自殺します」てな電話をしてくる子どもにいきなり腰砕けになって運動会を中止する、あの学校側と同じような情けなさを感じたのは、さて、小生だけでありましょうか。
――大月隆寛サンデー毎日』3月23日号

 多少のニュアンスの違いはあれ、 この犯人は本当に右翼だろうか、という疑問と、それを考えなしに「右翼」と決めつけたマスコミはずさんだ、という批判、さらに、だからこそ「言論の自由」を言うのならサイン会を開いて欲しかった、ということ、この三点において、期せずしてこの三者の問題認識は共通している。
 この間、柳美里は事件直後に「『家族シネマ』と『水辺のゆりかご』の「サイン会中止」事件に対する見解」というプレスリリースを出し、その後、『週刊朝日』でも、「仮に愉快犯だとしても、書店が一般客へ危害が及ぶ可能性を考慮し、サイン会を強硬できないのは無理からぬことだった。」「このような脅迫が出版社や私個人に向けられたのなら、断乎として撥ね除けることができたろう。しかし犯人は一般客を巻き込むと脅迫してきたのだから、手も足も出ないというのが現状である」と、サイン会中止についての自分の立場を説明した。

 これは民族への差別を越えて、言論及び表現の自由を奪う行為です。もしこのような行為を看過すれば、つぎは「柳美里の本を書店から引き上げろ」などと要求がエスカレートする可能性も十分に考えられ、私のみならず気に入らない作家の本を書店から追放するという、書物に対するテロ行為となり、言論及び表現の自由は圧殺されます。(…)このような脅威から、言論及び表現の自由を守る為に、言論に係わる皆様の力をお借りして断乎として闘う覚悟でおります。
――2月21日付 プレスリリース

 ここまではまだよかった。そんなあんた、たかだかサイン会の中止ぐらいでいきなり「言論の自由」を持ち出して気張らんでも、と思ったけれども、なにせブンガクの人だし、芥川賞をとった後でいろいろ舞い上がることもあるんだろうし、といった程度に事情を慮ることもできなくはなかった。
だが、この後、小林よしのりが「新・ゴーマニズム宣言」でこの問題に触れたあたりから、事態は冒頭の痛々しくもけったいな勘違いへ向けて一気に動き始める。



 小林は柳美里のこの事件を中心に描いたわけではない。すでに広く知られるようになった櫻井よしこに対する神奈川県人権センターの「抗議」による講演会中止事件と引き較べながら『朝日新聞』に典型的な「良心的」メディアでの報道のあり方を問題にする、そういう文脈で言及したに過ぎない。
 とは言え、事件に対するスタンスは先の三者と基本的に変わりはなかった。マンガを活字の文脈で引用するほど間抜けなことはないが、証拠を示すためには仕方がない、敢えてやってみよう。

 柳美里のサイン会が右翼の脅迫で取りやめになったって?/やったーっ、櫻井よしこの講演会を人権センターがつぶした一件をこれで相殺できるーっ

 朝日も毎日も大はしゃぎで連日これを取り上げ宣伝しまくった/櫻井よしこには勇気ある人と言わなかったくせに/柳美里には勇気ある人と絶賛した/朝日は社説にまで書いた ごていねいに「従軍慰安婦問題」とからめつつ/読者の声の欄も同じ手で……/おお いやらしい

 しかし考えてもみなさい/右翼が言論人でもない物語を作るだけの作家の柳美里のサイン会つぶして何の得がある?/単なる差別感情だけでそんなバカげたことわざわざ右翼がするかね?

 柳美里にはわしは何の悪意もなくむしろ興味を持っていたが/言論弾圧と戦う?/商売で言ってんならOKだが本気なら笑っちゃうね/だって戦うんだったらサイン会くらい決行すりゃいいんだから「逃げてて戦う」と言ってる者を英雄のように持ち上げるのはなぜか?/「在日だから」である/差別である/しかも昨今の従軍慰安婦問題にからめるために利用したのである/相当タチが悪い/差別とはこの様なカタチで現れることに何故気づかん?(…)愉快犯かもしれん/脅迫など気にしてられんよ/そんなもんでビビって言論やってられっか
――小林よしのり『新・ゴーマニズム宣言』第38章 『SAPIO』3月26日号

 このようなメディアの構造については、その後、八木秀次が「柳美里を守り、櫻井よしこを無視する「朝日」の言論感覚」(『諸君!』5月号)で明快に整理してみせている。ここでは、この事件に関して日本文藝家協会日本ペンクラブ出版労連がそれぞれ出した声明にも触れられているが、このうち、日本文藝家協会が3月7日に出した声明は、小林や八木のスタンスと同じ、櫻井よしこの事件と柳美里の事件を引き較べ「これらの事件に通底する現代日本の硬直した風潮に対して、深刻な憂慮を表明するもの」だった。この段、もちろん僕自身も全く同感だ。
 この小林の38章が掲載された『SAPIO』が発売された翌日3月13日の早朝4時過ぎ、『SAPIO』編集部に柳美里本人からファックスで「〈小林よしのりゴーマニズム宣言』第38章〉、私のサイン会中止に関する小林さんの発言に関して、事実を歪めていると思われるので、反論させていただきます」というタイトルの文書と関連記事などの資料がいきなり山ほど送られてきた。編集者は眼が点になった。
  彼女はまず、先に紹介した野坂、鈴木両氏の記事にたっぷりと共感を示しつつ、私も犯人を「右翼」だとは思っていないと言う。そして、自分はサイン会を絶対行なうべきだと言い続け、さまざまな代案も提出したのだが書店と版元に押し切られたのだ、と綿々と説明し、小林がメディアの報道の偏りを問題にし、櫻井よしこの事件と引き比べて自分の事件を語ったことに憤る。自分の事件の方が大きく報道されたというのは事実誤認だ、「私は小林さんは常識のひとであり、公平のひとであると信じているので、櫻井さんの事件に対する報道と私の〈サイン会中止事件〉は櫻井さんの事件の方が、扱いが大きかったということをひとまず認めていただきたい」と訴える。さらに、 小林のマンガのネーム(セリフ)を引用しながらいちいちからんでゆく。たとえば、こんな具合だ。

 物語を作る作家が、その物語ゆえに攻撃された例は、むしろ言論人よりも多いのではないでしょうか? 私などとは較べるもない大作家ですが、大江健三郎氏の『セブンティーン』、深沢七郎氏の『風流夢譚』が代表的な例です。大江氏の小説は、確か今でも絶版のままだし、深沢氏の場合は、殺人まで行われ、氏は数年間潜伏生活を余儀なくされました。私ごとき物語作家だから、「サイン会中止」ぐらいで済んだのではないでしょうか。
 私は小林さんの『ゴーマニズム宣言』を、私たちが棲んでいる国への、欺瞞に対する異議申し立てとして心から評価しておりました。しかし私には朝日新聞のある種の報道と『ゴーマニズム宣言』がよく似ているように思えるのです。自分の意見を通すためには、当然するべき取材を怠り、一方的に書くという意味において。
 もしきちんとしたケジメをつけていただけなければ、私は、あなたを殴りに行く覚悟でおります。

 どっちが脅迫だかわからない。
 この「殴りに行く」なんてもの言いは、「女」である「わたし」が「殴る」という、一般的な感覚としてはなじまない言葉を敢えて操作することの意味までどこか計算した上でのものだ。しかも、その相手は今や「良心的」な方面では「父権主義者」として悪名高い小林よしのりだ。多少の理不尽があっても世間はわたしの味方をしてくれるだろう。まかり間違って相手が殴り返してきたとしても、わたしのような「弱者」に対する対処としては正しくないと言えるどっちにしてもマイナスにはならない。「父親」に殴りかかる「娘」。そうまでして何かを訴えたい、という意味に必ず解釈されるはずの無垢の「娘」。
 でも、こういうのこそ「甘え」ってんじゃないですか。おとっつあんに認めてもらいたい娘がおとっつあんにからんでみせる、ってのとどこが違う。そんなもの、おとっつあんとしては対処に困る。まさか娘に手をあげるわけにもいかないから、甘えながら殴りかかる娘に黙って殴らせる、それしかないだろう。少なくとも、日本のおとっつあんたちというのはそういう対処の仕方しかできなかったし、今もおおむねできないと思う。その意味で、この抗議文に対して困惑しながらも「殴るのならば、犯す」と応答してみせた小林よしのりはほとんど馬鹿丸出しだけれども、ことが公になってしまった状況でのエンターテイナーとしては少なくとも誠実だと思う。
 あんた、それに甘えてる。その誠実さに甘えてる。意識してるかどうかは知らないけど、徹底的に甘えてる。その甘えを甘えとして指摘できない、いや、それどころか逆にベタベタに許容して「毅然とした抗議振り」などと欲情しながらすり寄ってさえゆく日本の「良心的」知識人や文化人、ジャーナリストなどの意識の構造まで含めて、あんたの今回の一件はきれいに暴いて見せてくれている。制度としての「文学」なんてのも、もはや実はそういう構造の上に成り立っているものに過ぎないらしい、ってことまで含めてもいい。
 彼女の抗議の内容を敢えてまとめれば、「あたしだってあんなのが右翼だなんて思ってやしないわよ、それにあたしは断固サイン会やりたかったのに書店や版元に押し切られたんだから仕方ないじゃないの、なのに、それでも小林さんはあたしが悪いっていうの? あたしは小林さんのことは尊敬していたし好きだったのに」といったところだろう。
 その後の彼女とのやりとりで、編集部はこの抗議文を全文掲載することになる。その過程で彼女は表現に手を加え、良く言えば穏当な、悪く言えば「いい子ぶりっこ」なものに変えてきた。だから、掲載されたものはもとのものに比べてかなり印象の違うものになったのだが、そのことはここでは詳しく触れない。ただ、このためにこの抗議文に対する「新・ゴーマニズム宣言」第 章(『SAPIO』 月 日号)での小林の応答は、「殴るのならば、犯す」というタンカも含めて読者に違う印象を与えかねないことになった。
その数日後、再び、今『新潮45』の原稿を書いているので、先日送った抗議文について何か意見や反論があれば直接ファックスして欲しい、何も連絡がなければ反論はないものと判断する、という一方的な内容の文書がファックスされてきた。小林は、抗議文に対する反論や自分の意見については『新・ゴーマニズム宣言』の中で意を尽くしたいし、何よりすでに公になっている論争についてこのように水面下で個人的にやりとりするのは読者に対してもフェアじゃないと考え、『SAPIO』編集部を介してその旨、彼女に返答したという。けれども、『新潮45』に掲載された原稿「仮面の国」には、「私が小林氏に渡してくれるよう書き添えて『SAPIO』編集部に送った手紙に対する返事は未だに無いのである」と書かれ、「言論の倫理に反する」とまで一方的に批判されていた。


 抗議文の末尾には「追伸」として、先の『サンデー毎日』の記事を引用しながら、こんなことまで書き加えてあった。ここに至って僕も人ごとではなく眼が点になった。

 この大月という人の、人品卑しき言論に関しては、問題にする気が起こりません。(…)仮に今回の脅迫が「チンケないやがらせ」だったとしても、それが言論への大きなテロに発展する可能性を孕んでいることに気づかないノーテンキなひとには反論をする気が起こりません。もしかしたら小林さんのお仲間のひとりで、事前に議論されているのではないかと思い、(あまりにも失礼ですか)一応、資料としてお送りいたします。

 その通り。失礼だよ、あんた。まず小林よしのりに対して。そしてもちろん俺に対して。
 これ以前に柳美里に恨まれるようなことを言ったり書いたりした覚えもないし、何より顔を合わせたことすらない。なのに、野坂、鈴木両氏の記事にはすり寄りながら、同じスタンスのこっちにだけつっかかってきた。わけがわからない。
 ただ、うっとうしいけれども仕方ない、ここまで失礼なやり方でおおっぴらに売られた喧嘩はほっとけない、というわけで、「こんな付録扱いのまんまじゃ格好がつかねえ。こんな時にわがまま言って何ですけど、せっかく今が旬の芥川賞作家じきじきに因縁つけていただけるってんですから、ここは一発正面からきっちりからんでいただけないでしょうか」(『サンデー毎日』4月27日号)と挑発した。しかし、これ以降、彼女の直接の応答はないまま。本誌『正論』先月号(「批評スクランブル」欄)でももう一発挨拶してみたがなしのつぶて。やっぱりこりゃ相手として役不足と見られたか、ああ情けなや、と不肖大月、白状すればいささか落ち込みました。その後も、小林よしのりに対する名指しの批判はさらに続いている。



 本当に、素朴にわからないのだ。どうしてサイン会の中止がいきなり「言論の自由」と結びついてしまうのか。
 「あたし、サイン会って一度してみたかったのになんでそういう妨害するのよ」ならば、よくわかる。はばかりながら支持したっていい。けれども、どうしてそれがいきなり「言論の自由に対する弾圧」なんてとんでもない大文字のもの言いに化けて繰り出されてくるのだろう。「あたし、サイン会って一度やってみたかったし、それに賞もとって本も売れて、多少はいるらしいあたしのファンにも申し訳ないし」ってさわやかに言う、それでひとまず充分闘えるじゃないか。
 今回の事件は『風流夢譚』事件などとは決定的に違う。まず何より、深沢も大江も正面からその作品の内容が攻撃の対象になっていた。だが、柳美里は作品の内容はまるで問題にされていない。言わば「柳美里」というキャラクター(マンガでいう「キャラ」)が問題にされているわけで、柳美里の書いた作品がそのものとして攻撃されたわけではない。
 そのことは何より彼女自身も認めている。「私は在日韓国人ではありますが、今回読者にサインするはずであった、『家族シネマ』と『水辺のゆりかご』は、何ら政治的発言に結びつく内容ではありません。」(2月21日付 プレスリリース)一読者として全く同感だ。なのに、韓国での報道のされ方には「日本社会において韓国人家族がなめる不幸を主題にした体験小説」(『中央日報』1月20日付のコラム「ブンスデ」)といった図式的誤読が多いようだし、事件の後の『ル・モンド』(2月24日付)に至っては「日本のルシュディ事件」と大笑いな報道をやってくれた。ただ、「文学と政治」という未だ国際標準の大テーマからとりあえず離陸してしまうほど、「豊かさ」に立脚したリアリティをすでに共有してしまっている今の日本の大衆社会状況の中のブンガクのありようを裏返しに見せつけられたようで、個人的にはいささか複雑な気持ちではあった。
 さらにもうひとつ言えば、彼女のそれまでの発言などにも特に反日的なものは見当らない。こちらは野坂氏も先の記事で「その上梓された作品、エッセイ、対談でうかがう限り、反日の気配ミジンもない」と認めている。妙な言い方になるが、正しく「脅迫」されるような「表現」も「言論」も、彼女はひとまず何もしていないのだ。
作品や発言、表現そのものに対してでなく、それらも全部ひっくるめたメディアの舞台に映し出されたイメージとしての「キャラ」に対しての「脅迫」。この違いは、『風流夢譚』や『セブンティーン』の事件が起こった六〇年代の情報環境における「文学」のありようと現在のそれとの決定的な違いを反映している。メディアの舞台に乗ったあらゆる表現はまずキャラクターとして見るというのが、今の日本の高度大衆社会における「観客」の視線のありようだ。その意味ではなるほど、たとえサイン会であろうと広義の「言論」に当たるということも理屈としては言い得る。現に、彼女は力一杯そう言いたいらしい。 
 ただし、それはキャラクターとしての自分を制御する自覚と、そしてそれだけの技術のある限りにおいてだろう。そういう身じまいの善し悪しを抜きにして、誰のどんな表現であれ何でもかんでも全てが「言論」で、だからその「言論の自由」を認めろというのでは、それはただのガキのわがまま、やりたい放題の野放しにしかならないし、何より本当の意味での「言論」の効果も「観客」の世間に対して持てないままだ。
 こういう現状認識から何か世間に働きかけようと思うなら、自分のキャラがどのように理解されているかについてのフィードバックをしながら、そのように「脅迫」された理由を自省してみるしかない。なのに、それをいきなり「言論の自由の圧殺」と言い、「私個人の哀しみと怒りを越え、書店という作者と読者をつなぐ唯一の窓を閉じられたという重大な問題」といった大文字のもの言いで対抗しようとするのは全く逆効果。むしろそういう態度こそがこういう愉快犯、ストーカーまがいの連中の欲望を刺激してしまう。現に、わずかな電話などでふた月以上もこれだけの大騒ぎをさせることができたとなれば、犯人はきっと大喜び。いやな予測だが、この先もまたぞろ同じようなことを仕掛けてくると思う。そう、「いじめ」の本質的な構造ってまさにそういうこと。それって他でもないあんたが、これまで一番よく思い知ってきていることじゃないのか?
 自分が不条理な脅迫を受けていじめられている、と思う。思って、いきなり職員室に駆け込む。ものわかりのいい先生がいて「いじめがあるなんて許せない」と保護してくれる。マスコミにも連絡してくれる。一躍、世間の英雄にもなる。カメラの前で、「いじめの被害者」という自分を存分に演じることができる。それはそれでひとつの解放だろうし、彼女自身がそれで何か自由になれる部分があるならばそれもいい。その効用との差し引き計算で、多少の不愉快は辛抱してもいい。しかし、目先の対応としてはそれもありだとしても、それで彼女をめぐる「いじめ」が本当に解消されるわけがない。「あいつはじきに職員室に駆け込むような奴なんだよな」という認識が彼女のまわりに共有されてゆくだけだ。
 はっきり言うよ。あんた、自意識が不用意に肥大しちまって身じまいがうまくできなくなってる。それが証拠に、親が子供を虐待するのも「言論の封殺」、会社の上司が部下に不条理な命令を下すのも「言論の封殺」、野村や第一勧銀の事件も「言論の封殺」、といった凡人にはにわかには理解できない「論理」までも平然と公表してしまい、そのことを誰も表立ってたしなめたり諌めたりすることもしないという信じられないような事態が今や展開されている。だって、冒頭の「敗者復活戦」の現場であんたそう言ったよね。申し訳ないが、聞いてて耳を疑った。ほんとにあんた、大丈夫か?



 柳美里は『新潮45』に「仮面の国」という連載を始めた。ごていねいにも太宰治志賀直哉に悪罵の限りを尽くした「如是我聞」を引き合いに出しながら「私の覚悟」について語っていてひとまず勇ましいが、しかし、どうひいき目に見ても、このサイン会中止以降、まさにそんなけったいな勘違いをしたまんまの彼女の自意識の分裂具合があらわになっていて、内容以前にそのありよう自体が眉をひそめざるを得ない代物になっている。事実「あれ、大丈夫なの?」といった心配四分、好奇心六分のささやき声は、「文学」とは直接縁のないところで仕事をしている僕などの耳にもいくつも届いてきている。
 なのに、なぜだろう、そのことについて誰も表立って言及していない。
 これは僕からすれば奇妙だ。なにしろ、ちょっと何か耳に立つことを言ったり書いたりすれば寄ってたかって足を引っ張り、いちゃもんをつけるこのメディアの舞台で、こんなにけったいな勘違いの野放しがひとまずノーマークで通ってしまっている。なぜ、「柳美里」というキャラはここまで野放しになっているのか、何を言おうが、どれだけ妙な身振りをさらそうが、そのこと自体については誰も何も言及しないし、たしなめもしない。それは一体なぜなのか。
 非常に入り組んだ、そして陰微な、しかし言葉本来の意味での差別の構造を僕はこの現象に見る。そうか、〈いま・ここ〉の差別とは、実にこういう形で吹き出すのか。
柳美里」というキャラのウリは何か。言うまでもない。「在日」の「女流」の「作家」でしかも「芥川賞」であることだ。麻雀ならばこれでもう満貫確定。ただ、その一方で、彼女のエキセントリックな行動に辟易しているという話も、同等に流通している。狭い業界のゴシップをあげつらうのは全く本意ではないが、陰でこれだけあれこれ言われるというのも、彼女自身の行状もさることながら、表立っては何も言えない、何も文句をつけられない、そんな抑圧が働いていることの反動というところがあるはずだ。
 もちろん、同じ抑圧は彼女自身にも働いている。いささか同情的に言えば、一連のけったいな勘違いにしてもそのような抑圧の構造の中にいるフラストレーションゆえという面もあるかも知れない。もしそうだとしたら、したり顔で彼女のまわりを取り巻き、心では「なんだこいつ、キレちゃってるなあ」と思いながらも、表面的にはお追従笑いをして見せる、そんな陰微で「民主的」な差別意識こそがここしばらくの間、彼女をあのようなキャラ、あのような商品として成り立たせているということになる。
このような戦後民主主義的言語空間が媒介になって、言葉本来の意味での差別の構造は温存され、増幅されている。「在日」だから、「女性」だから、「闇」を背負った存在だから、はっきりとものを言ってはいけないのだ、といったひとまず「民主主義的」な「善意」の気遣いこそが、同じ抑圧の構造の中にいるはずの彼女のような存在をこのように野放しにし、ほったらかし、結果としてよりけったいな身振り、いささか平衡を逸した言動さえも無批判に垂れ流しにさせてしまう。そして、これは本当に憎しみを込めて言わせてもらうのだが、それらのありようをその「民主主義的」な意識たちは安全な見世物として高みから消費してゆき、そして本当に手をさしのべねばならないような局面に立ち至ったとしても決して身体を張って守ろうとはしない。これこそが差別構造の温存でなくて何だというのだろう。
 同じことは、たとえば薬害エイズ事件の経緯の中で如実に見られた。言葉本来の意味で正しく「被害者」である川田龍平を、その当事者性の上にコントロールしながら支えて自意識の安定を保つことをせず、「沖縄の基地問題」や「日本の戦後処理問題」などにまでどんどん不用意に関心を広げてゆくままに放置し、あげくは「ぼくが日本を救う」とまで言い放つほどの勘違いをさせるに至ったあの「運動」の場と人間関係のありようは、僕の眼からは今回の柳美里のけったいな勘違いに至る経緯と構造的には全く同じものに見える。教員志望だったという彼がもう一度ちゃんと教員になってゆくことができることこそが「運動」が一段落した後、彼の日常への本当の復員なのだ、と川田龍平を本気で諭そうとした小林よしのりの馬鹿正直さは、今回の一件でもやはりそれら勘違いの側から理解されることはないままということらしい。
 柳美里よ、そのような扱われ方に対する違和感があるのなら、そのような「差別」を温存する自分のまわりに対してこそまず牙をむけ。あんたのまわりにすり寄ってくる一見ものわかりよさげなツラした編集者や新聞記者や評論家に対してこそ、まずきっちり向かい合って闘え。でないと、この先あんたもっともっと辛くなる。どんな理由であれ、人間がひとりツブれるのはよくないことだと僕は思っている。

*1:『正論』掲載原稿。柳美里のサイン会が「右翼」の「脅迫」を受けて中止になった顛末が例によって物議を醸すことになった一件について。