「研究能力」って、なんなの?

 群馬大学のセンセイが、同僚から研究能力が低いと罵られたとかで、名誉棄損の裁判を起こしたそうであります。

 不肖大月、この春まで大学の教員だった身の上でありますから、この話、ちと笑ってすまされないところがある。今の大学にはこういう脱力するような話ってゴロゴロあるんですよ、いやほんとに。

 ただ、このセンセイ、何がご専門かは存じ上げぬが、お年は五七歳っていうから、もう定年まで数年。てやんでえ、ナメるんじゃねえやい、とスパッとケツめくっちまえない事情もおありだったのだろうが、でも、たとえ裁判で「名誉」が回復されたとしても、悪いがそれでこのセンセイのまわりの空気がガラッと変わるとは思えない。だったらなんで裁判なのよ、と僕なんかは思っちまうんですよ。

 最近、国立大学の教員は任期制の導入がいよいよ現実のものになり始めて、誰もが「自分のやってる研究の評価」がものすごく気になり始めている。「学問の自由」とか「研究の独立」てな能書きをタテに現実的な有用性をバカにしてきたツケが回ったと言えばそれまでだけれども、しかし、そのツケをまたあまりに性急に何とかしようとするスカも随所に出始めている。若い世代は「ケッ、年寄りは安全地帯にいたまま若い者にばかり犠牲を強いりやがるぜ」てなジト眼でにらむし、年寄りは年寄りで今さら新しいことをやれと言われても困るからますます依怙地に旧来のカラに閉じこもる。昨今行革に抵抗し倒してるらしい官僚たちにしても、きっと似たりよったりなんだろうと思う。

 最近言われる一部役所のエージェンシー(行政法人)化とかも、要はそういう流れの上の政策のひとつ。役所とは言えあまりに採算性の低い部署をもうちっと何とかするためにこれからは制度も弾力的に運用しまっせ、だからあんたたちの特権も多少は制限されまっせ、ということで、他でもない、春まで僕がいた博物館などはまさにその対象となるべき最たるもの。何も辞めちまったから言うわけじゃなく、僕は元からこの政策には原則大賛成なのだが、いやあ、現場は今頃きっとえらいことになってるんだろうなあ。

 申し訳ないが、こういう大学の教員の椅子をめぐる問題ってのは、どんなにきれいごと言ってもその前提に「何だかんだ言ってもこんなラクな商売ないもんね」という屈折した特権意識がどこかに必ずからんでいるから、ことは根深い。そういう肩書や椅子にしがみつくみっともなさは何も政治家や大企業の重役たちだけのこっちゃないもんね。そして、「そんな肩書なんかどうでもいいんだ」と口に出して気張る人たちほど、いざてめえの身の処し方となるとみっともなくジタバタする、そんな醜態をはばかりながら僕でさえいくつも見てきた。むしろ、何も言わず淡々と役回りを果たす構えがたとえタテマエとしてでもあるくらいの人の方が、処世として信頼できることが多かった。まあ、どんな社会でもきっとそういうものなんでしょうけどね。

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*1:サンデー毎日』連載原稿

*2:いわゆる「独法化」が具体的に進められ始めていた頃、のこと。確かに、当時は「エージェンシー」化なんて言い方してオブラートにくるんでたりしてた。「合理化」掲げた「構造改革」マインドが時代の空気としてはっきり「正義」になりつつありました。