「書評紙」というメディアの使命

 書評紙というメディアがある。書評専門の週刊新聞。昔は『日本読書新聞』なんて老舗があったけれども、今は『週刊読書人』と『図書新聞』がかろうじて命脈を保っている。

 とは言え、いくら本好き、活字中毒の『本の雑誌』読者でも、この書評紙を定期購読している、なんて酔狂な御仁はまずいないはず。実際、大手書店の店頭でも最近は探すのが難しいくらいかすんじまってて、大学の図書館なんかに行かないとまずお目にかかれない代物。「読書人」なんてタイトルが象徴しているように、本を読むってことが何か特権的なことだった時代の名残がプンプンで、中味も世間一般のシトにはまず関係ない本が並んで、なおかつその書評もはっきり専門家やクロウト向け。ぶっちゃけた話、「インテリ」「知識人」と言われてきたシトたちの内輪の業界紙なわけで、今となっちゃ思い切りズレまくるのがお定まりときてる。ほんと、いまどき何考えて紙面こさえてんだと思うよ、あたしゃ。けれども、そういうフリーズドライな立ち腐れメディアでも仕事は仕事、たま~に読むべき書評はあったりする。最近じゃ、岩田準一の孫娘という岩田準子の『二青年図』という小説を評した川崎賢子のものなどは、このテの書評紙にしては、まあ、読み手を意識したものになっていて好感が持てましたな。

 

 

 岩田準一ってのは民俗学者で画家で江戸川乱歩の友人で男色研究の雄で……とまあ、そのスジでは知られた隠れた知性。男色についての南方熊楠とのやりとりなんかはそりゃ絶品で、小酒井不木平山蘆江などと並んで、サブカルチュアと民俗学的知性の関わりから近現代史をひっくり返す、なあんて胡乱なことを企む向きには、まず落としちゃいけない名前のひとつ。その孫がこんな小説書いたなんて、そりゃあたしもびっくりしたっての。作品の時代背景や人物などを紹介しながら、小説として山田風太郎(追悼……)山本昌代長野まゆみなどとの手法の違いを示唆して、「村山槐多『二少年図』を外枠に(…)準一の生涯にわたる乱歩への思慕を、乱歩的テーマ群によって小説化すること。モデル小説ともパスティーシュというのとも違う、いわば親和力のようなものがはたらいている」というもってゆき方が親切でいい。

 ただ、後半になるといまどきのブンガク界隈の批評家の流行りなのか、フェミ風味が鼻につきだすのが惜しい。「男性の同性愛と官能を記述する」のが難しいのは当たり前で、そこに批評がからむのもわかるけど、でもそのへんいきなり内輪のジャーゴン飛び交いまくりで読み手が見えなくなるのはなぜ? いい本を広く世間に知らせる、という書評仕事の役割ってやつは、このテの書評紙のお座敷だからこそ書き手が頑張って意識しておかないと、せっかくの活字読みの内輪もますます「世に遠いひとつのムラ」になっちまうってもんだと思いますです。