ありがとう、コンサートボーイ 

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 引退式というのをご覧になったことがあるだろうか。競走馬の引退式である。

 たいていはその生涯で最高のレースをやったゆかりの競馬場で、そのレースを勝った時のゼッケンをつけて、願わくばその時背中にいた主戦騎手を乗せてゆっくりとキャンターで四コーナーあたりから直線、スタンドの前を流してゆく。馬主の挨拶があり、調教師や厩務員なども列に並び、馬自身はニンジンのレイなどを首にかけられ、たいていは開催日の昼休みのこと、いずれ劣らぬろくでなしたちの祝福を前に、現役引退を報告する。

 こういう形式のセレモニーがいつ頃からあたりまえになったのか。武田文吾調教師が「シンザンになりかわりましてご挨拶申し上げます」という名文句で始まる挨拶をした、あのシンザンの引退式がおそらく最初ではないかと思うのだけれども、正確なところはよく知らない。日本以外の国でもこういうことを普通にやるのかどうか、やったとしてどういう形でやるものか、なども申し訳ない、ほとんど情報を持っていない。

 ただ少し前、井崎脩五郎がどこかのコラムで、この引退式にファンの手で張られる横断幕のことを書いていた。シンザンの引退式の写真にはまだこういう横断幕は登場していず、ハイセイコーの引退式のVTRでようやく確認できた由。また、その横断幕に「ありがとう○○」というコピーが登場するようになったのはもっと後、オグリキャップ以来では、とも書いていた。生きた馬すらちゃんと観たことのない〈その他おおぜい〉たちが平等に楽しめるレジャーにニッポンの競馬がなっていった、その過程にはこういう引退式といったセレモニーもまた、ひとつの役割を果たしていたことは間違いない。

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 とは言え、この引退式をやってもらえる馬というのは、実は想像する以上に稀だ。

 競走馬の余生というのが話題になる時に、牡馬の場合、種牡馬になるのがとても難しいというのはよく言われることだ。どれだけ重賞を勝っても、どれだけ賞金を稼いでも、あるいはどれだけ堅実に現役生活を送ったとしても、ただそれだけで種牡馬としての余生を送れるわけではない。まして、昨今のように輸入種牡馬はもちろんのこと、外国産馬も競走馬としてたくさん入ってくるようになると、運良く種牡馬になることのできた馬の中でも、引退式までちゃんとやってもらえた馬となると、これはもうほんとに数えるほどしかいない。種牡馬になるための敷居もどんどん高くなり、華やかな中央競馬で活躍したとしても、よほどの成績をあげなければ引退式などなかなかやってもらえなくなっているいまどき、地方競馬でずっと現役競走生活を送りながらきちんと引退式をやってもらえた馬というのは、それだけでとびっきり幸せな馬だったと言っていいと思う。

 コンサートボーイは、そんな幸せな馬の一頭だった。

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 父カコイーシーズ、母コンサートダイナ、母の父ハンターコム。門別の船越三弘さんの生産。道営でデヴュー、橋本善吉さんに買われて南関東・川崎に転厩。さらに別の馬主さんにトレードされて大井にやってきた。北海道デヴューから南関東へ、という、ここのところ目立ってきた地方競馬のある種のエリートコース、その道筋がはっきりし始めた頃の一頭だった。そして、中央と地方との交流競走の枠が一気に広がり、ホクトベガキョウトシチーなど、それら交流戦に参戦する中央馬たちに苦しい戦いを強いられるようになっていた地方馬たちの中で、アブクマポーロなどと並んで互角の戦いを挑み続けた馬だった。

 ベストレースはやはり六歳時の帝王賞南関東での好敵手アブクマポーロと共に決めてみせた地方馬ワンツー・フィニッシュだろう。中央との力量差がはっきり見えるようになっていた時期に、地方競馬所属の看板を背負っての交流GⅠ奪取。しかも、この時はそれまでの末脚勝負から一転、武豊の駆るバトルラインの後ろにつけるという先行策で抜け出す離れ業まで見せてくれた。もうひとつ、同じ年の川崎記念、最後方待機から直線だけで猛然と追い込んでホクトベガキョウトシチーを一気に追い詰めた一戦も語り草だ。「交流元年」と呼ばれ、絶望的だった中央と地方との交流が一気に垣根が低くなったその最初の年に、おそらくは生涯最高の時期を迎えることになったのは、彼にとっても幸せだったはずだ。


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 生涯成績三九戦一一勝。総獲得賞金五億六百四十五万円。主な勝ち鞍、帝王賞(九七年)、東京記念(九八年)、マイルグランプリ(九六、七年)金盃、報知グランプリカップ(以上、九六年)、かちどき賞(九七年)。その他、二着には東京大賞典東京記念(以上、九六年)、京浜盃黒潮盃羽田盃東京王冠賞東京ダービー(以上、九五年)、北海道三歳優駿(九四年)。そう、この九五年の四歳クラシック戦線ではトライアル含めて全て二着というのも、また実に彼らしかった。

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 その彼、コンサートボーイの引退式は、二〇〇〇年の一月最後の日。薄い冬陽の射す日だった。

 管理する栗田繁調教師は、前の年からずっと体調を崩していた。コンサートボーイ自身も九八年暮れの東京大賞典アブクマポーロの三着を最後に長期休養、現役復帰は難しいかも、とまで言われながら十カ月後の九九年十月、グランドチャンピオン2000で戦列に戻ったけれども結果は六着、そして次走の東京記念も九着とふるわないままだった。馬体重も絞りきれなかったし、何よりレース振りから、あの九六年から九七年にかけて走り詰めに走っていた頃の精彩が失われていた。

「オヤジはさ、あれ、コンサートが現役でいる間は自分も、って気力だけでもってるんだよ。身体は正直、もうガタきちゃってるんだけどさ」

 栗田繁師の長男で、同じく大井で開業している栗田裕光調教師はよくそう言っていた。

 確かに、九六年にコンサートボーイが川崎から大井のこの厩舎にやってきてから、繁師はずっと神経をピリピリさせっぱなしだったはずだ。稽古をつけるのも、これまたすでに開業している次男の栗田泰昌調教師。三男の知治調教助手(当時、現調教師)もバックアップする。兄の栗田武厩舎も含めて、先代の栗田(山本)金吾調教師以来の、大井ではまず名門と呼ばれる厩舎の一族。また、だからこそのプレッシャーもあった。大井へやってきた時のコンサートボーイのトレードマネーは、破格の値段だったと言われている。具体的な金額は推測でしかないが、おそらく一億円くらいはかかったのでは、と当時からささやかれていた。

 せりで高い値のつけられた馬、それこそ一億もその上もの不動産級の値段のついた馬の話題というのは、たまに一般のニュースでもとりあげられる。だが、こういう現役の競走馬の取引きのリアリティというのは、ずいぶんと増え、またその分オープンになったかに見える競馬関係のメディアでも、未だそれほどおおっぴらに語られるものでもない。恒常的な売り上げ減にあえぐ地方競馬とは言え、まずは全国一の賞金水準を誇る南関東、それもナイターを積極的に導入して経営的にはひとり突出している大井のこと、そこに賞金を狙いにくるくらいの馬だからある程度の高値がつくのは推測できるけれども、それにしても、この一億円という値段は当時でもちょっと抜けていた。

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 ちなみに、このコンサートボーイの数年後、同じように道営から川崎に転厩、一時期中央競馬にも殴り込んだりして今なお現役で活躍するインテリパワーは、三歳(今の表記だと二歳)の道営当時につけられた値段が一説には七千万とも八千万とも言われている。能力試験当時から「バケモノ」との評価があった馬だったけれども、そのバケモノにしてもこの値段は高すぎる、というのであきらめた向きがたくさんあったという。あるいは、同じ道営から南関東という路線で転戦、枡添要一の名義で東京ダービーを制し、その後もずっと現役で総獲得賞金四億円以上を稼ぎ出しているサプライズパワーにしても、船橋にやってきた時の値段は四千万から五千万くらいとささやかれていた。これらの馬はもちろん結果的にそれだけの金額を出してもペイした、トレードが成功したケースなわけだけれども、それでも、後にこれらのトレードマネーをめぐって何ほどかの厄介が起こったのでは、とささやかれたりしている。当歳セリ、あるいは今どきのことだから二歳のトレーニングセールでもいいが、そういう市場で数千万を払うことと、すでに競馬をつかってある程度見通しのついている現役競走馬に同じだけの金額を出すことと、果たして馬主としてどちらが合理的か。誰しも競走馬を持とうというほどの人間ならば真剣に考える。

 まして、コンサートボーイの場合、川崎所属で南関東の四歳クラシック戦線を戦い、トライアル含めてずっと二着という実績がすでにある。そんな馬が鳴り物入りで入厩してくるのだ。走らせて当たり前、もしも期待通りに走らなければその調教師の管理能力が問われてくる。またそれだけの金額を出す馬主筋にしても、ただ黙って見ているわけではない。取り巻きも含めて、さまざまな方向からさまざまにプレッシャーがかかってくる。

「売買でやってきた馬に限らず、馬の値段なんてほんとはあんまり気にしちゃいけないのかも知れないんだろうけど、でもやっぱり、普通は気になるよ。そんなの全く気にしてられない、バンバン鍛えて競馬使ってって調教師も中にはいるけど、うちのオヤジはそういうタイプじゃないもんな。ものすごく気を遣うし、馬主さんに損かけちゃいけないって考える。それは見ててもわかるだろ?」

 わかるもなにも、ずっとそばで見ていても繁師の気配り具合は痛いほどだった。一見頑固な職人気質の調教師で、報道陣などに対してもおよそ無愛想なのだが、身のまわりの人間に対するそういう配慮の細やかさは、厩舎のスタッフはもちろんのこと、つきあいの長い馬主であればあるほどよく知っていた。

 繁師は調教師には珍しく軽自動車に乗っていた。クルマなんか足がわりだから走ればいい、という考え方。その紺色の小さな軽ワゴンを自分でトコトコ運転して、川崎の小向までコンサートボーイを観に行った。ペンツやBMWとは言わないまでも、多少無理をしてでも押し出しの立派な高級車に乗るのが当たり前、またそれも看板のひとつという競馬の稼業人の常識からすれば異例で、まして大井でも名の知られた調教師が軽自動車でオープン馬を買いにきた、というのは当時、厩舎まわりでちょっとした話になったという。

「まさか、調教師が軽に乗ってくるとは思ってなかったんじゃないかな。また、馬を見て割とあっさり『じゃあ、積んで(輸送して)くれや』だったから、余計にびっくりされたんだと思うよ」

 息子の裕光師は開業する時に、父の繁師からいくつか守るべきことを教わった。そのひとつに「北海道でカネを儲けるな」というのがあった。繁師は北海道へ馬を見に行っても、牧場の人に迎えに来てもらったりはほとんどせず、元気な頃は何万円かかってもタクシーで日高を回っていたのだという。現地の人たちと食事を共にしても必ず自分の分は自腹を切った。「調教師が馬喰で儲けちゃいけない。儲けるのは競馬でいい」というのが、繁師の持論だった。同じ騎手あがりで兄の栗田武調教師が、クリノロイヤルなどのバリバリのオープン馬を手がけてきたのに比べて、堅実に走る馬を出すけれどもそういう大看板にまでなる馬にはいまひとつ恵まれてこなかった感のある繁師の馬づくり。しかし、橋本善吉さんをして、「あの人ほど脚もとを見れる調教師はいないよ」とまで言わせたその腕は、近しい関係者からは深く信頼されていた。馬にちょっと調子にかげりが見えると無理をさせず、「なら、休ませろや」と指示する。エビ(屈腱炎)が出てこのまま競馬を使えば危ないという状態の馬に、「そっちで始末してくれ」と冷たく言ってよこした馬主と大喧嘩、「だったらオレによこせ、そのかわり二度とおまえの馬は入れねえぞ」とタンカを切って自前で治療して走らせてみせた、など、決して華々しくはないけれども「稼業としての競馬」のありようを教えてくれるいいエピソードは、繁師のまわりにはたくさんある。

 コンサートボーイを買ったのは、その二年前、同じく道営から大井にやってきて無敗の七連勝、ハイセイコーの再来、不動のダービー候補とまで言われた二冠馬ブルーファミリーと同じ馬主。当時、主戦的場文男騎手悲願のダービー制覇がついになる、と言われていたものだが、その頃はまだ二四〇〇㍍で行なわれていた東京ダービーでなんとフルゲート一六頭の大外枠を引いて万事休す。その後東京王冠賞(まだ秋に行なわれていた)も勝って見事二冠馬になったのだけれども、それだけに、このダービーでの無念が調教師以下の厩舎スタッフはもちろんのこと、馬主にも「もう一度、南関東で大暴れするくらいの馬を」という想いを募らせることになっていた。

 そんな期待を重く背負って、コンサートボーイは大井にやってきて、そして走った。

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「最初はこんなに走るなんて思ってなかったさ。売れ残ってた馬なんだよ。しょうがないからうちの名義で道営使うか、ってなったんだし。だから名前も母馬からとって簡単につけたんだ、コンサートボーイ、って」

 引退式の日、親子ではるばる大井までやってきた生産者の船越さんはこう言っていた。それまでの兄弟馬たち、母コンサートダイナ社台ファーム時代の産駒二頭、その後船越さんのところにやって来てから生まれた三頭も、まず無名といっていい競走馬ばかりだった。とは言え、よくよく見れば母方の祖母コンサーテイストはカロの半妹。父がフォルティノからシュプリームソヴリンに変わってるけれども、同じグレイソヴリン系。それにハンターコムをかけたのが母のコンサートダイナということになる。社台ダイナースの名義で走ったものの中央で三戦未勝利のまま引退して繁殖入り、子出しはよかったようで毎年とまった、その六番子がコンサートボーイだった。

 九二年四月二九日生まれ。父カコイーシーズの初年度産駒の一頭。ちなみに、この年生まれたカコイーシーズの子どもたちは、記録に残っているのが四〇頭。これらが競走生活を通じてあげた勝ち鞍は中央と地方で六六勝。そのうち一一勝がコンサートボーイのあげたものだから、初年度産駒の六分の一をひとりで稼いだことになる。なるほど、これは孝行息子だ。その後を通じても、シーズプリンセスやナミ、ユニティステージなど、牝馬の活躍馬が案外目立っているカコイーシーズ産駒の中での断然の稼ぎ頭、文句なしの代表産駒となっている。

 長期休養明けの二戦を凡走してから、年が明けて一月十日の東京シティ盃、ひさしぶりに的場文男騎手を背にコンサートボーイは姿を現わした。前走、東京記念の二四〇〇㍍から一転して、今度は一四〇〇㍍の短距離戦。先の帝王賞を始めとして、二〇〇〇㍍以上の距離での活躍が目立っていたコンサートボーイだったけれども、ほんとうはマイルから千八くらいがあっているのでは、という意見が厩舎まわりでも根強くあった。事実、マイルグランプリの連覇は言うに及ばず、中央との交流戦になる前の東京盃(一二〇〇㍍)を休養明けでサクラハイスピードの僅差三着したこともある。けれども、結果は一六頭立ての八着。テンに行くような勢いもなく、といって末脚にも爆発力もなく、まるで燃え尽きたような中途半端な競馬で馬群の中で流れ込んだ。それでも、的場(文)騎手はレース後、「馬は元気ですよ。これだけの馬だからね、よくなったらまだもう少し走ってくれると思いますよ」と、持ち前の調子で明るくコメントしていたけれども、陣営のハラはこの日、決まった。もうここらが潮時じゃないか。ずっと走り詰めで走ってきたんだし、なにしろ中央の強豪を蹴散らした帝王賞馬だ。あまり名前に傷がつかないうちに牧場に返してやろうや。

 そしてそれは、栗田繁調教師にとっても、調子を崩した身体を支えながら懸命に保ってきた管理者としての緊張の糸がひとつ、ぷつんと切れることでもあった。

 オープン馬を管理することというのは、ほんとに身を削るような体験だ。それは担当厩務員や稽古をつける助手、勝負に乗る騎手たちといった人たちは言うまでもないけれども、おそらくそれとはまた少し違う水準で、責任を持って馬主から馬を預かり管理する調教師のストレスというのは想像以上に大きいものになってくる。まして、つきつめれば誰もが損得抜きの馬好きゆえに足を突っ込むことになった競馬の世界、まわりからのさまざまな重圧が身にはねかえってくる度合いは、世間一般の仕事のそれとはまた違う質のものになってもくる。

 大井に転厩してきてから何戦か、期待していたほどの結果を残せなかったコンサートボーイに繁師が悩んでいた時期がある。二着や三着の多い馬のこと、早くひとつ勝たせてやりたい、その想いは馬主も同じだった。九六年の二月、船橋まで遠征した報知グランプリカップでようやくひとつ勝った時、表彰式で繁師はかすかに涙ぐんでいた。「へえ、オヤジも泣いたか、そりゃそうだろうなあ」息子たちはそう言って、同じ稼業に携わる身の苦労を自分のものにしていた。

 引退式をやりたい、ということが主催者から伝えられた。冬場のこと、昼間開催の大井だからナイターの時ほど人が入るわけでもない。それでもいいじゃないか。けれども当日、ろくでなしたちはウイナーズサークルのまわりに結構集まっていた。まわりの人間に支えられながら、栗田繁師も「調教師」のお立ち台に立った。馬主が素朴な、しかし力のこもった挨拶を割れたマイクで怒鳴るように披露した。久しぶりの馬場入りでイレこんだコンサートボーイは二人牽きでスタンド前をゆっくりと歩いて見せた。強い冬の風が、場内のアナウンスをちぎってゆく。繁師はスタンドの方を何度も、遠い眼で見つめていた。


 栗田繁調教師の現役引退が発表されたのは二カ月後、三月二三日だった。通算成績三九五一戦五四四勝。重賞勝ち鞍一五のうち、十鞍は九三年から九七年にかけての数年で、それもブルーファミリーコンサートボーイの二頭であげたもの。

「ほんとに、最後の最後になって稼いでくれたってしょうがないよねえ」

 引退式の後、厩舎に戻ってきた控室で奥さんはそう言ってみんなを笑わせたけれども、でも、騎手時代から含めてその長い苦労が最後の数年、一気に報われるようにコンサートボーイと共に華開き、そしてコンサートボーイと共に燃え尽きたこと、そのことの意味はその場にいた誰もがよくわかっていたはずだ。

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*1:例によっての『別冊宝島』の競馬ものの依頼原稿

*2:左端、栗田繁調教師。