競馬ジャーナリズムって、なに?

 トラックマンや専門紙勤務でもなく、スポーツ紙の現場経験もなく、それでも競馬(ほとんど地方ですが)と競馬まわりの仕事の現場を自前でウロウロしてきたことで、見えてきたものを細々と文字にし、書きとめる。肩書き的には「学者」ですし、そのことにそれなりの矜持もあるつもりですが、それでも競馬について言えばどこまでも得体の知れない存在、一般のファンではないけど商売というわけでもなく、そんな妙な立場で、ずっと現場に寄り添ってきました。

 日々トラックマンや記者、レポーターの類がまわりに常駐しているJRAの厩舎や競馬場の環境とはまるで違う地方競馬のこと、そんな正体不明の人間がウロウロすれば眼に立つわけで、しかも部外者の厚かましさで時には主催者に都合の悪い不躾な記事も書く。なんだあいつは、となって文句を言いたくても所属がない、首輪がついてないから誰に文句を言っていいのかわからない。かくて黙殺、ないしは慇懃無礼な隔離状態。肩書きつきの名刺を持たない、持てない立場で競馬の現場に関わり続けることの「自由」とは、そんなささやかなところにありました。

 長年の売り上げ不振でどこの競馬場も馬が減り続けています。番組が組めない。苦肉の策のひと開催の二走づかいもじわじわ広がって、この夏は出走頭数が確保できない競馬場が出てくるかも知れません。現場がいくらやる気でも、馬がいなければどうしようもない。馬がいない、つまり馬主がいないわけで、その一方でJRAではスソ馬が滞留し、厩舎から出すにしても「地方には流してくれるな」と念を押す馬主さんも少なくないとか。何とも釈然としない話ですが、競走馬資源の確保、というのもまた、個々の関係者の努力を越えたところでの大きな政策的手当てが緊急に必要な状況になっているようです。

 競馬場がダメになってゆく徴候というのは、いくつかあります。

 たとえば、口取り写真を撮るカメラマン、写真屋さんがいなくなること。賞金が減ってきて、特別競走は言うに及ばず、その土地その競馬場ゆかりの重賞、ダービーでさえもわざわざ口取り写真を記念に撮ろう、という馬主などいなくなる。当然、商売にならない。季節によって、時間によって、天候によって、そしてまた場合によってはスタンドの客入りの具合によって、いい露出やシャッタースピードを熟知している、そんな写真屋さんがどこの競馬場にもいたものですが、昨今の地方競馬じゃもうその多くは姿を消しています。

 そんな中、JRAでは近年、一部のトラックマンや記者などが騎手のエージェントを兼任しているのが当たり前になっているとか。エージェントを雇って騎乗依頼をさばかなければならないのですからいずれ一流どころ、そんなトップジョッキーの騎乗馬を選択できる立場でいながら、同時にファンのために予想もする。これって、やっぱりなんかヘンじゃないでしょうか。

 もちろん、日々の取材の中で騎手や調教師、馬主などと親しくなることはあたりまえにあるでしょう。そんなつきあいの中で互いに情報交換をし、時には善意で何か手伝ったりすることもある。野暮を言うつもりはありません。いずれ競馬の現場、厩舎まわりのなりわい、いや、競馬に限らず、人と人とが仕事をしてゆく時にはそういうあいまいな領域を常にはらむもの、という程度のことは僕とて理解している。ただ、それがふだんの稼業の一部になり、金銭がからんでしまっているとしたら、記者やトラックマンとしては本末転倒。口が裂けてもジャーナリズムなどとは言えないはずです。海外はいざ知らず、情報競馬で大衆化し、広い範囲のファンに馬券を買ってもらうことを資源として成長してきたニッポン競馬としては、この新聞のこの記者はどの騎手のエージェントである、ということを馬券を買うファンに対してもある程度明示しておく、それがフェアじゃないのでしょうか。

 競馬の世界は他と違う、という反論も聞こえてきます。いつの頃からか当然のように使われるようになっている、あの「サークル」というもの言いが典型的ですが、そういう内輪意識、厩舎関係者とマスコミ周辺とで形成されている空気や気分みたいなものが、色濃く競馬そのものを覆っている。お役所競馬の内厩制度で社会主義国のような保護競馬をやっている、というのが、良くも悪くもニッポン競馬に対する「海外」からの視線なのはもう当然ご存じとして、この期に及んで未だにその視線をまっとうに受け止められない原因は、何も主催者側のお役所体質だけでなく、厩舎もマスコミも含めたそういう「サークル」気分、空気のような「内輪」感覚が深い遮眼革となって、眼の前のファンのニーズ、市場の要求も読めなくなっていることもまた、根深いもののようです。