書評・香月洋一郎『記憶すること・記録すること』

 民俗学というのは人文・社会科学系学問の最も下流に属している。上級の学問領域で流行りの課題も、濾過され劣化コピーされて民俗学のまわりにたどりついた頃にはもう絞りカス。ここ十年ばかり問題化されてきた文化と記述の関係についての方法的自省の議論も、ここにきてようやく民俗学のまわりにまで漂着するようになったらしい。かくして時は流れる。

 著者は宮本常一直系を自認する民俗学者。宮本流の〈あるく・みる・きく〉を地でゆく民俗誌的記述に長年従事してきて、その地道な仕事ぶりには定評がある。とは言え、これまで自分のその仕事ぶりをメタのレベルで語ることのなかったこの著者までが、ついにこのような記述の問題を語らされるようになったこと自体、民俗学のみならず人文・社会科学系学問をとりまくアイデンティティ崩壊の深刻さの反映。その意味でも感慨深い。

 まず、自分自身の世代性から語り起こし、戦争の体験と記憶、さらには父のことから自ら従事してきた市町村史編纂の作業を省みつつ、「聞き書き」という民俗学の伝家の宝刀についての方法的、認識論的な批判を内側から試みるという組み立てになっている。概念ではなくあくまでも実地の体験や個別の事象をもとに語るのはいかにもこの著者流だが、同時に、団塊の世代のジャーナリズム系知識人に近頃よく見られる誠実さの表現にも連なる。そう、この本の記述自体がまた、世代と同時代の関わりの中に根深く規定されているのだ。

 もちろん、分厚い聞き書き体験を重ねてきた著者のこと、静かに斟酌しながら読めば、概念の空中戦のような他領域の記述論より有益なのは言うまでもない。ただ、それも読み手の器量次第。その意味で多面的なテキストだと言える。あと、タイトルはこの著者らしからぬ媚び方で気の毒。版元に猛省を促しておきたい。