イチロー大活躍、でありますなあ。
別にとりたててプロ野球好きでも、大リーグマニアでもない、こんなあたしでさえも、海の向こうで(このもの言いもすでに時代がかってるが)頑張ってる彼や、その他佐々木から野茂、新庄、伊良部その他の日本人選手の働きには、結構一喜一憂してたりします。まあ、その程度にテレビや雑誌、新聞でとりあげられてる、ってことなんでしょうけど。
一方、サッカーの中田も相変わらず目立っております。ローマから今度は別のチームにトレード、それも司令塔として三顧の礼で迎えられたらしいってんだから、これまたすげえ。なんかインタヴューにもイタリア語でそれなりに応じたりして、このへん英語が未だに苦手というイチローなんかともまた違って、一段と印象が強いです。
こういう中田やイチローに代表される、海の向こうで活躍するいまどきの日本人スポーツ選手、に共通する雰囲気ってありますよね。たとえば、そうだな、日本のマスコミをかなりマジで嫌ってるらしい、ってところとか、あるいはその分、アメリカなりヨーロッパなり、いずれ向こうさんのものさしにすんなりなじめているところ、とか。そんなこんなで彼らは、昨今言われる「グローバル・スタンダード」に忠実な新しい日本人の理想像、てな感じに受け取られているところさえあるようです。
それをひと口で言ってしまえば、彼らには「日本」を背負っている気配が薄い、ってあたりなんだろうと思います。もう少し言えば、「日の丸」に象徴されてきたような「日本」っていうのかな、精神主義でお涙頂戴で湿っぽくて、どうしようもなく東アジアの農耕民族、コメと畳とうさぎ小屋とが骨がらみにしみついている、そんな「日本」。少なくともそういう「日本」と結びつけられることを身体ごと拒否している、それがいまどきの彼らなんじゃないかなあ、と。
もちろん、海を越えた日本人の系譜、ってやつはこれまでもある。それは、戦前ならば「おフランス」にあらぬ妄想抱いた永井荷風だの金子光晴だのは言うに及ばず、「西欧」に肩いからせて挑んでいった夏目漱石だの森鴎外だののブンガク系も含めて、知識や思想、言い換えれば脳味噌で勝負する連中が主流だったわけだけれども、昨今はむしろスポーツ選手に代表される身体を張った手合いにシフトしてきている。いや、スポーツだけじゃない、たとえばミュージシャンや歌手にしても、松田聖子だのピンクレディーだののかなりイタタな事例もあったにせよ、なんの、今じゃ矢井田瞳みたいにイギリスのチャートでいきなり商品になれたりもする。要するに今や、脳味噌の中味で競うより身体を張ったサブカル領域の方が、どうやら海の向こうに一歩、越えてゆきやすいらしいのであります。
逆に、FM放送のDJ風の勘違いというか、最もイヤミな意味での「帰国子女」丸出し、巻き舌の英語まじりを臆面もなくひけらかし~の、うわすべりな「市民」感覚をシッタカに垂れ流し~の、といった少し前までの「国際人」的身振りのうっとうしさってやつは、最近さすがに世間でもなんだかな~、になっていて、未だ勘違いのままでいられるテレビの女子アナ系キャスターなんかにしつこくこびりついているくらい。このへんに対する反感がビミョーに水面下で広まりつつあるのは、最近の大きな変化だとあたしゃ思ってます。イチローのように、中田のように、決してありがちな「国際人」モードに足とられることなく、これまでの「日本」を身体ごと相対化できるような身振り、それが一番受け入れられる。これは確かにひとつの大きな変化ではある。でも、誰もがイチローや中田になれるか、ってえとそんなわけなくて、そりゃあくまで雛型、理想のお手本ってことだ。
だったら、未だに「日本」と結びつけられるたたずまいバリバリの、たとえば巨人の松井やサッカーのゴン中山、地味めじゃ近鉄の中村なんかもそうだけど、あのへんのどこから見てもニッポン人、「土着」が身体ごと示されているような手合いが同じように「海を越えて」、さて、どういう活躍をしてくれるものか、これからはそっちがあたしゃとても見たい。なんかビニールコーティングされたつくりものめいていて、そしてココロの中では絶対に「日本」を思い切りバカにしてそうなイチローたちよりも、海の向こうでもどんぶりで一升メシ食らって呵々大笑してそうな松井やゴンたちの方に、やっぱり親しさとか信頼感ってやつを感じてしまうのは、まあ、あたし自身がもうそういう旧世代の型落ちモデルになっちまってるから、なんでしょうけどね。