「戦争」を考える、ということ



 いわゆる有事立法をめぐって、国会はもとより新聞、テレビからインターネットに至るまで、さまざまな議論がさまざまに繰り広げられています。

 「戦争」という事態が果たして具体的にこの先、この国を巻き込む形で起こるのかどうか。まさに今、国家の危機管理意識が問われているのである――というのは御説ごもっともで、たとえ冷戦構造が崩壊したところでそういう「戦争」につながりかねない危機というのは、常にいま、そこにあったりする。憲法第九条様を篤く信心してさえいれば危機は避けられます、と未だに説いて回る向きもあるようですが、さすがにその折伏も最近は色あせ気味。だって、先日の朝鮮半島沖でのできごとなんか、どう見てもありゃ「海戦」そのもの、だったですもんねえ。

 ただ、こういう「戦争」がらみのことを考ようとする場合、民俗学者としてずっと気にかかっていることがあります。

 もしも今、日本と日本人が不幸にして「戦争」に関わることになってしまったとして、戦地の彼ら彼女らを鼓舞し、時には死地に赴くことも厭わぬようにしてゆける仕掛けというのは、さて、どのようにあり得るのだろうか――このことです。あの「癒す」といういやなもの言いを使うなら、「戦争」の前線にある日本人は今、誰のどんな言葉、どんな歌、どんな表現によって最も「癒される」のだろうか、ということです。

 かつてならこれは信仰の問題であり、靖国神社の問題だったりしたはずです。けれども今や、ことは「芸能」の問題であり、いまどきの社会のありように即して言えば「サブカルチュア」の問題、でもあったりします。国家を語り、ナショナリズムを論じ、そして「戦争」の可能性を考える――しかし、それは大文字の概念のやりとりに終始するのでなく、音楽や映画、お笑いやバラエティーやワイドショーといった雑多でやくたいもない「芸能」の領域も全部ひっくるめて動員されるからこそ「戦争」であり、それら全てが「国家」の現われなのだ、という認識をもとに考えられるべきはずで、なのに、そんな態度がどうやらわが日本にはあまりに希薄なんじゃないでしょうか。

 あたし自身、戦争映画と呼ばれるものも人並みに見てきているつもりですが、ハリウッドメイドの映画でひとつ感心するのは、そういう広義の「芸能」の領域も含めて「アメリカ」があり、「戦争」もあるのだ、という認識のゆるぎなさです。

 

 『グッドモーニングベトナム』(87年)などは、独特のやり方で前線の兵士を鼓舞し続けたラジオDJ、エイドリアン・クロンナウアーの物語でしたし、同じ年の『フルメタルジャケット』では終幕近く、「ミッキーマウスクラブ」の歌を歌いながら前線へ赴くGIたちの映像が印象的でした。あの大作『地獄の黙示録』でも、最前線に『プレイボーイ』のピンナップガールズたちが慰問にやってくるシーンの息苦しさは鮮烈でした。ひるがえってわが日本映画には、そういう戦争映画の〈リアル〉というやつを考える伝統は、それこそ『独立愚連隊』あたりからこっち、ほとんど息絶えてしまっているようです。

 

 朝鮮戦争では前線を訪れるマリリン・モンローを米兵たちは心待ちにし、ベトナム戦争では戦車の上で歌うジェームス・ブラウンに熱狂したといいます。ならば、自衛隊は今、前線にあったとしたら、果たしてどんな慰問を一番、望んでくれるのだろうか。

 

 モー娘。かなあ、それともやっぱり矢沢の永ちゃんかなあ、いやいや、ここは一発サザンと桑田圭佑で、ダウンタウンやナイナイなんかも一座に加えて……とか、つれづれに任せて、しかし真剣に考えることがあたしゃ結構あります。笑いごとじゃない。加護や辻や矢口がなっちが、あるいは中居クンやキムタクでさえも、前線の自衛隊基地に慰問に出かける日、というのを大まじめに具体的に考えてみる――「戦争」を考える、というのは、実はそういう試みの積み重ねでもあるはずだ、とあたしは信じています。

 そう言えば、先日幕を閉じたワールドカップ、あの日本代表たちが移動するバスの中で、中田選手が耳にかけていたウォークマン、あそこには果たしてどんな音楽が流れていたのでしょう。誰の、どんな声に、どんな形であれ「日本」を背負わざるを得なくなったおのがココロの平衡を保つよすがを得ていたのだろう。四年前と比べると格段に「下士官」の顔、信頼できるリーダーの面構えになっていた中田選手に、そんなことをそんな風に尋ねてみてくれたジャーナリストは、あたしの知る限りまだどこにもいません。