「二面性」の向こう側

 猛暑である。暑ければ暑いほど、「敗戦」の記憶の輪郭も鮮明になる。敗戦、猛暑、そして甲子園、夏休みに蝉しぐれ、そして入道雲……われら日本人にとっての「夏」のイメージは歴史の中、このようにすでに「定型」化してきている。そんな「定型」と寄り添いながら「語られた敗戦」の歴史もそろそろ、検証されるべきだろう。

 先の戦争は、確かにまずかった。どこが? 負けたからだ。それも負けっぷりがよくない。後始末もへたくそだった。戦後の経緯、今日の「繁栄」を見れば、まあ、結果オーライかも、と思えなくもないが、しかしそれじゃあまりに後智恵、かの「原爆は仕方なかった」発言程度には無責任。少なくとも、知性ある者のとる態度ではない。 

 先日、本紙文化欄で呉智英夫子が、逝去した小田実の「二面性」について、本領発揮の一文を寄せていた。*1反戦原理主義の元祖プロ市民と目される(これ、間違ってはいない)小田実も、かつては先の戦争を「評価」していたのだ、と、かつての彼の文章から引用しつつ展開。以前から夫子の持論ではあるけれども、時宜にかなった掲載だった。

 「反米」が「愛国」と仲良しで、しかもそれが「革命」や「反体制」とも相性のよかった時代。「戦後」の言語空間とはある時期、そんなものだった。指摘された小田の「二面性」については全く異議なし。ならば、その「二面性」がどんな生身に、時代状況に支えられ、その後あれほど劣化し、結果、日本の「市民運動」や「左翼」「リベラル」自体が今のようなていたらくになっていったのか、についても静かに省みられねばならないだろう。あの論説はそこまで奥行きを持って、「歴史」の相において読まれるべきもののはずだ。

 ちなみに、戦争はやるなら勝て。勝てないならやるな。やるにしてもせめて負けっぷりをよくする目算くらい立ててからおっぱじめよ。あたし個人、あの戦争から学んだこと、は、まずそれでした、はい。

*1:記事はこちら。http://www.sankei.co.jp/culture/bunka/070812/bnk070812001.htm まあ、正論ではありますが