いまさらながらの感慨ではありますが、なんだか知らない間にそこら中で石原慎太郎、になっている今日このごろであります。
前代未聞のどえらいタンカを切っていきなり国会議員を辞めて、しばらくおとなしくしていたと思ったら今度はかつて美濃部に敗れた都知事選に再度立候補、見事大量得票で新たに都知事になってこっち、それまでとケタ違いの速度と規模とで劇場化が進行するいまどきニッポンの政治状況で、彼は確実に舞台の中心に立ち始めている。
かつては「タカ派」の代表格のように言われ、冷戦構造の中では自民党の中でも半ば変人、どうかしたら復古調ウルトラ・ナショナリストのキチガイのように語られた時期さえあった彼が、最近じゃ、もともと役まわりもコミで好意的だった文春や新潮は言うに及ばず、昔は天敵のはずだった朝日新聞あたりまでが妙にシナ作って媚びを売るようになっているのだから、時代ってのも変われば変わるもの。折りから「従軍慰安婦」問題から歴史教科書がらみのすったもんだを糸口に、90年代後半このかた盛り上がってきた新たなナショナリズム復興の風潮も後押し、今や「国民最後の期待」だ、なんて言う向きまで出てきていて、何やら近い将来、ほんとに石原新党をぶちあげて一気に国政復帰、正面突破であっぱれ総理大臣に、なんて事態まで半ば現実味を帯び始めてきている。
いや、何もそんな大層なレヴェルの話でなくても、テリー伊藤や浅草キッドなどを取り巻きに青息吐息のMXTVで自分中心の企画番組を連続して持ち、ピンは田原総一朗からキリは福田“ちゃんこ”和也までの「論壇」系提灯持ちご一党も軒並み軍門にくだらせはべらせ、ほぼ最終的にそのタブーが崩れつつある「同和」や「在日」といった「戦後」タブーの大御所に代わって、今や「石原」批判こそがメディア界隈で最も剣呑な禁忌になり始めていることもほぼ周知の事実。おりしも、TBSがドラマでなんとあの『太陽の季節』をいまどき酔狂にもリバイバル、それもジャニーズ事務所の滝沢クンを起用しての沙汰というから、こりゃもう「石原慎太郎」ブランドは無意識も含めたそういう広告資本とメディアの「意志」に完全に乗ってしまった、いま一番トレンディ(笑)、かつ世の善男善女の喰いつきのいいタマ、らしいのだ。
そんな石原慎太郎は、しかし都知事であり政治家である前に「作家」である。全然疑いもなく、平然とそういうことになっている。そしてもちろん、それはひとまずのところ正しい。
少し前、あたしゃこんな風に書いた。
この石原慎太郎、デヴューから今までの奇跡をひとわたり見直してみると、やはり骨がらみで「ブンガク」の申し子であることがよくわかる。いや、もう少し丁寧に言えば、この「戦後」の言語空間でけったいに増殖してきた「ブンガク」の、よくも悪くもそのありように根っからシンクロするような存在であり続けている、ということなのだ。
つまりそれは、キャラ立ち勝負で正面突破する術を体得したブンガク、ということに他ならない。作品で勝負、とか、ゲージュツ性が命、とか、そんな眠たいことを石原は絶対考えてなかったはずだし、今もないに決まってる。書き手である自分こそが自分の書くものの価値の中核にある、その自覚が最前提に置かれているという意味で、それまでのブンガクのささやかな伝統からはかなりの異端――まさに「外部」として、彼は登場してきた。そして、その初期設定は半世紀近く経った今でも、未だにキャラとしての「石原慎太郎」をしっかり規定している。
――「若手人気作家が『タカ派』政治家の旗手に登りつめるまで」『腐っても「文学」?!』所収 2001年7月
デヴュー当時、その頃ようやく市民権を獲得し、一般教養として認められ始めていた旧来の「文学」の枠組みの中から、その枠組み自体をいきなり蹴倒すようなキャラ――当時のもの言いだと「アプレ」の典型として登場したのが彼だった。「そんなブンガクオッケーという暗黙の了解の下でこそ『学生作家』の『石原慎太郎』は一躍、時代の気分を収束するノズルになることができた」(前掲拙稿)。実際、デヴュー後数年、いや、ゆるく見積もっても参議院選挙に出馬するまでの時期の執筆活動の旺盛さは今から見ても驚くほどだし、また自身、当時、柴田錬三郎と並ぶ高額の原稿料をとる流行作家だったことを認めている。「作家」石原慎太郎のイメージの基礎は、間違いなくその頃に作られたものだと言える。
しかし、なのだ。その「作家」イメージの基礎づくりの時期も含めて、その後ずっと書いてきたものについては、さて、果たしてこれまでどれだけの人に読まれてきているのだろうか。
「太陽の季節」? それは知ってる。中坊のケツくらいの頃に文庫でこっそり読んだような気が。「障子破り」がさもたいそうに語られているのも何となく知ってたけれども、中学に『平凡パンチ』持ち込んでカラーグラビアの池玲子だの杉本美樹だのをみんなでまわし読みしてて大目玉食らったガキにしたら、すでにそんなもん「はぁ?」だった。それ以外の石原の作品って……名前を聞けば、あ、聞いたことがあるかも、という程度で、「作家」と言われても具体的な作品と、すでに当時メディアに派手に登場していたその立ち居振る舞い――今風に言えば「パフォーマンス」とが結びつかないのが当たり前、という存在だった。文学史の授業でも別に暗記しなけりゃならない名前でもなかったし、第一、戦後以降の文学なんか試験に出るはずもなかったもんね。
幸い、最近ネットに出現した彼についての公認サイト「宣戦布告――NETで発信石原慎太郎」には、「作家 石原慎太郎」というコーナーが設けられていて、そこに「石原慎太郎作品売上ベストテン」が掲載されている。
ちなみにこのサイト、とある石原ファンの学生が思い立ち、自ら石原にかけあったところ見事に意気投合、お墨付きまでもらい公認サイトにしてもらったという「美談」めいたオハナシと共に結構大きく報道されたシロモノ。そのあたり、ほんとかどうか知らないけれども、少なくとも、今やそういう舞台裏も含めて情報をコントロールすることでキャラとしての「石原慎太郎」を演出しようとする手癖を彼の周囲は持っている。そのことはもう、ちょっと敏感ないまどきの常民ならばきっちり察知している。純粋なファンの「若者」が無償で頑張ってこさえる石原サイト――昨今、政治家に限らず、文化人や芸能人が自前でこさえるホームページのそらぞらしさを回避するには、この選択は確かにありだとは思う。第一、自分でパソコン叩いてサイトの管理やってる石原なんてのは、かなりぞっとしないしなあ。
ともあれ、そのサイトによれば、石原の「作品」のこれまでの売り上げベストテンとは、ざっとこんな感じらしい。
- 1.『弟』毎日文学賞特別賞受賞 140万部(幻冬舎)1996年
- 2.『「NO」と言える日本-新日米関係の方策-』(盛田昭夫と共著)124万部(光文社)1989年
- 3.『太陽の季節』文学界新人賞受賞 芥川賞受賞 89万部(新潮社)1955年
- 4.『スパルタ教育』70万部(光文社)1969年
- 5.『青年の樹』 45万部(角川書店) 1960年
- 6.『それでも「NO」と言える日本-日米間の根本問題-』(渡部昇一・小川和久と共著)42万部(光文社)1990年
- 7.『青春とはなんだ』 30万部(角川書店)1964年
- 8.『化石の森』芸術選奨文部大臣賞受賞 29万部(新潮社) 1970年
- 9.『法華経を生きる』 26万部(幻冬舎)1998年
- 10.『宣戦布告「NO」と言える日本経済-アメリカの金融奴隷からの解放-』1998年(一橋総合研究所と共著)25万部(光文社)
さて、この並びをどう見たらいいのか。
確かに、数字はすごい。百万部以上のメガヒットが二本、以下も数十万部単位がずらりと並ぶ壮観ぶり。文句なし、だ。こういう数字の常として額面通りに受け取らないのが当たり前だとしても、戦後有数のベストセラー作家のひとりと言っても、まあ、決しておおげさじゃないと思う。とにかく部数はひとまずはけるらしいのだ、「作家」石原の本は。
ただ、どうなんだろう。改めてこのランキングを眺めていて思った。これって本当に「作家」の著作のラインナップ、なんだろうか?
彼が世に売り出すきっかけになったかの芥川賞受賞作『太陽の季節』は、こりゃもうある種の定番、戦後の古典みたいなもんでロングセラーだろうから少し別格だろう。『化石の森』や『青年の樹』が入っているけれども、これとて今から三十年以上も前、いずれ「文学」そのものがまだたっぷりとご威光を保てていた時代のもの。『青春とはなんだ』などは、弟裕次郎主演による映画化はもちろん、後にはテレビの青春ドラマにもなった、今で言うところのメディアミックスのハシリ。それ以外はというと、正直言っていわゆる「作家」の仕事からはズレたシロモノがほとんどじゃないだろうか。少なくとも、おのれの信じる何らかの価値や美意識を守りながらコツコツと原稿用紙に向かって創作する、てな、ステレオタイプな「文学」イメージの「作家」ならば、まず書かないような本ばかり。
いや、さっき確認したように、初手から石原はそんな「文学」イメージをこそ相対化するキャラクターで登場したんだから当たり前、ということなのだとしよう。だが、だとしたらなおのこと、どうして未だに彼は、「作家」という肩書きをここぞというところで必ずプロモートしたがるのだろう。第一、このランキングに入った本のうちの半分ほどは、99年に改めて都知事の椅子につくに至る時期のもの。最初に国会議員になる前、初期のものが三本で、ということはここにあげられたようなベストセラーぶりってのは、実質ここ十年ばかりのこと。初期の「作家」としての彼を支えていた「文学」のご威光がほぼ完全に崩壊してしまった状況でのこの売れ方、読まれ方というのは、一枚岩で「作家」とだけみなしているだけでは、その意味を見誤るかも知れない。
「作家」というもの言いは、考えてみたらかなりあいまいというか漠然としたものだ。
小説を主に書くもの書き、ということならば、それまでは「小説家」、もっと格式ばったところじゃ「文士」「文学者」なんて言ってたりした。そんな小説家やそれ以外、たとえば詩人や劇作家や歌人、俳人などまで含めたあまたもろもろのもの書き、売文稼業をひっくるめながら「作家」という呼称が一般的になっていったのは、「文学」ってもの言い自体にからみついていたさまざまな幻想や勘違い、あやしい情念や執着といったもろもろが「戦後」の時空で多少は風穴があけられ、大衆社会が本格的に現実のものになり始めるにつれてどんどん世俗化していった事態が関わっていたはずだ。その過程で半ば必然的に獲得されてきたもの言いの変遷、それが「作家」というどこか漠然とした包括的なもの言いを当たり前にしていった。古典的な意味でのアルチザン、ひとりコツコツと職人仕事でかけがえのない芸術品をこさえてゆくようなやり方では対応できない、とりとめない「マス」を相手にした大量生産・大量消費の商品としての文学(主として小説なのだが)が全面化してゆく時に、それまでの「文学」を管掌する作者、創造主としての「文学者」も、その意識を変えてゆかざるを得なくなったわけで、それはある意味では小説というジャンルの特権性がなめされて平準化してゆく過程だったのだと思う。
だから今や「作家」と言っても、いわゆる小説だけを書く人間というわけでもない。評論もルポもコラムもエッセイも、とにかく文字の文章を書いて世渡りする稼業一般といった程度にまで、「作家」の内実は変質してきた。「ライター」や「もの書き」と違うところがあるとしたら、敢えて「作家」を選ぶ自意識には、まだどこかで「文学」の磁場から自ら自由になり切れない執着や未練が漂っているところだろう。
そして、その種の執着や未練というのは、いまどきの情報環境においては、たいていの場合、キャラの自己表現にとってはマイナスに働くもの、と相場が決まっている。
もういちど、さっきのベストテンを眺めて欲しい。このうち、あなたはいったい何冊、「作家」石原慎太郎の本を読んだことがあるだろうか。
あたしゃ申し訳ないが、上位三冊くらいしか読んだことはなかった。それもほとんどが仕事がらみ。これまで自分の私的な関心として「作家」石原の本を手にとることは、まずなかったってことなのだ。
これはあたしが特殊だから、とも言い切れないと思う。いや、そりゃ本読みとしては十分に特殊だとは自覚しているが、それでも「豊かさ」の中で戦後民主主義でもって考えなしに育てられてきた世代のこと、人並み程度にマジメに小説も読んだし、「文学」に敬意も持ってはいるつもりだ。そのあたしの経験や感覚から推し量っても、いわゆる本好きはもちろん、ありがちな文学ファン、文芸好きの人であっても、これら「作家」石原のベストセラーを丹念に読み続けている、という向きはあまりないだろう。というか、そういうコアな文学ファンなどからはどこかバカにされて軽んじられてきたのが、他でもない、「作家」石原慎太郎なのではなかったか。そういう「文学」にずっと裏切られ続け、疎外され続けきていたところさえある石原慎太郎を、このところみんなどこかで忘れてしまっていないだろうか。
今回、編集部からこの上位ベストテンのほとんど(『スパルタ教育』だけは残念ながら期日までに入手できなかった)をコピーも含めて送ってもらって、うわあ、あれもこれもみんな石原じゃねえかあ、これがかの福田和也みたいな恥知らずのタイコモチなら『月刊石原慎太郎』ぐらいのヨイショ本をでっちあげてうほほほほ、ボクちんもあっぱれ大御所保守の約束手形ゲットじゃないのよ、ハニー、これで娘もめでたく幼稚舎お受験させられるなあ、なあんてどこぞの出版社からせしめたワインでも片手にひとり脂下がることもできたろうに、因果なことにあたしゃそこまで厚顔無恥になれる才能は持ち合わせていないもんで、例によっていくつかの日銭仕事こなす合間に、うんうん唸りながらもありがたくマジメ読み通したような次第。
で、結論。つまんねえ。それもかなり徹底的に。
これだけじゃあんまりなんで説明するけど、要はこの人、コテコテの青春小説作家だったりするんだよね。それもおそらくかなりの程度無自覚な。
それはきっとデヴュー当時からずっと同じ。やんごとないカネ持ちボンボンの手すさび、さすがええご趣味でんなあ、といったところから、書くもの自体はほとんど動いていない。良くも悪くも同人誌気分、書生気分のまんま、時節に迎えられた市場に躍り出てしまったことの恍惚と不安、みたいなものがずっとつきまとってる。「青春」だの「若さ」だの、そんなものに大真面目に何か語ろうとするあたりがまずもって旧世代の「文学」幻想の磁場のうち。なんだ、石坂洋次郎の二番煎じかよ、くらいの感想は抱いたってバチは当たらないだろう。ただ、かくも堂々たる通俗を臆面もなくやり続けてさして屈託するところもなさげな育ちの良さは確かに希有で、そこがこの四十年あまりの激変する状況の中でなお、「作家」というアイデンティティを保ったまんま揺るぎもしないところに反映されている、と思う。
当時出たばかりで、ベストセラーになっていた『弟』について、あたしゃこんな書評を書いている。
ある世代にとって「石原裕次郎」がどれだけ大きな名前だったか、僕自身にその実感はない。けれども、意外な人が“裕ちゃん”にハマっていたことを知り、驚いた経験は何度かある。
ひとつだけ紹介しよう。僕が競馬場の厩舎をうろつき始めた頃から顔なじみの厩務員さんで、文字通りの叩きあげ、腕一本が自慢の人がいた。見るからに職人さん。馬が勝とうが負けようが表情ひとつ変えないで黙々と仕事をしていたこの人が、裕次郎が死んだときには男泣きに泣いた。あんまり意外だったので事情を尋ねることもできなかったのだが、こっちのそんな表情を見てとったのか、その人は先回りしてこう言ってくれた。
「そりゃさあ、僕たちにとっちゃ青春だったもの。カッコ良かったんだぜえ、裕ちゃんは。」
そうか、そんなにカッコ良かったのか。でも、そのカッコ良さって、果たしてどんなものだったんだろう。
これは、そんなとりとめない問いに対する答えの糸口のひとつになる本かも知れない。裕次郎の兄、石原慎太郎の描いた裕次郎の回想。小説仕立てだけれども、その意味でも民俗資料的な価値も伴ってる本だと言っていい。
読んで改めて「すげえ育ちだなあ」とため息が出る。父は汽船会社の社員で、当時不定期航路の貨物船の配船業務では業界の三名人と呼ばれたという人。だから、この兄弟は神戸生まれで小樽に育ち、後に逗子に移り住む。敗戦後も飢えらしい飢えを知らず、ヨットさえ買ってもらう。
この世のものとは思えない。だが、これが本物の湘南ボーイだ。そして、この国の「中流」とは本来こういうものだった。消費生活に確かな趣味をもたせた人々という意味では、後に“裕ちゃん”に熱狂した高度経済成長期の日本人の多くに撮って、確かにあこがれであり「カッコいい」先輩だったのだ。なにせ兄は若き芥川賞作家。弟は映画のニュースター。まだ権威バリバリだった文学と映画を共に牛耳ったんだから、こりゃ無敵だ。今なら小室哲哉とキムタクが兄弟みたいなもんか。
主に中盤から映画界や芸能界で泳ぐ弟と、それを折にふれてバックアップした兄である自分自身との交錯が語られてゆくが、これはもちろん裕次郎世代の読者への正面からのごちそう。そんな“お約束”以外にも楽しめる部分は少なくない。
例えば前半、小樽での幼い日々の回想がいい。カソリックの幼稚園。飼犬のシェパード。ブレイザーコートを着た記念写真。いたずらで川に流してしまった小犬が憑ついしきりに首を振るようになった弟と、それを町の拝み屋の婆さんに見てもらって家のまわりに供物を置いてまわる父。そして逗子へ。ヨットとサッカーとバスケットボールの青春。父の死。放蕩を尽くす弟と、それを眺める「家長」意識を植えつけられた兄。小説と映画と、それぞれの才能で世に出てゆく彼ら兄弟。
《世の中へ出てから、私たち兄弟のうちでは私のほうが我の強い人間に思われがちだったが、本当は、表にはそう見えずとも弟の方が私よりはるかに我が強い、というより好き嫌いを有無いわさずに通してしまうところがあった。我がままというより、あくまで自らの意志を通すところは弟の方がはるかに上だった》
全編を通じて感じるのは「父」であり「家長」であるような存在の影だ。『太陽にほえろ』の裕次郎はそのような「父」を演じたものだ、という解釈もうなずける。志ある読み手は、野坂昭如や小林信彦の作品と読み比べて欲しい。「戦後」とひとくくりに片づけられる未曽有の疾風怒濤の時代に宿り得たマチズモ(男らしさ)の歴史を遠望する素材としても楽しめるはずだ。
――「世間が読んでる本」『ダカーポ』1996年10月2日号
「作家」石原慎太郎の「作品」を愛読している文学ファン、というのは、とうの昔にもう、現実には想定しにくいものになっていたはずだ。彼の書いたもののファンというのは、いわゆる文学・文芸ファンなどではなく、主として70年代以降に読者市場として急速に成立してきた、通俗的な政治、経済、国際関係の解説といったあたりに吸着する資質の読み手たちだったのだと思う。実際、落合信彦などともその資質的には共通するものがあるのではないだろうか。
今の「政治家」石原のキャラを決定づけるのに良くも悪くも大きな役割を果たした「NOと言える……」シリーズなどは、言うまでもなくそういう「作家」石原の仕事の典型だろう。どうも本自体が石原の名前と共に喧伝され過ぎたけれども、多くは盛田昭夫、小川和久、渡部昇一などとの共著という形をとっている。専門的な知識や背景といったものは石原自身にはなく、それら共著者たちの側にある。石原にあるのは、固有名詞として顔を出す政治家や財界人や文化人や、時に芸能人などとの個人的なつきあいのリアリティ。それらをエピソードの中に散りばめながら、共著者たちの知識や背景を要領よく吸い上げては、より大きな話の流れの中に連鎖させてゆく。このあたりのフォーマットは彼個人の創出によるものというよりも、「石原慎太郎」というのが本質的にそういう共同作業によって作り出されてきたキャラであることの必然だろう。
政治家「石原慎太郎」が、飯島清という人物のプロモーションによるものであったことは、今日ではよく知られている。有能な選挙参謀だった彼の手によって、今から比べればはるかに物情騒然とした60年前後の政治状況の真っ只中に、抜群に集票力を持ったキャラとして「石原慎太郎」は舞い降りた。都知事選に出馬、見事に当選を果たした時にも、「今回のスタッフはあの時を超えたな」といった意味の発言をどこかでしていたはずだ。彼にとっての選挙とは、そのようにキャラを演じることであり、そのためのチームワークの上に彼は適切な立ち居振る舞いを選ぶ。劇場型政治環境には初手からなじんでいるのだ。
先にあげたサイトには、こんな剣呑なこともさらりと掲載されている。書いたのは石原じゃないにせよ、このような記述にオッケーを出したのは石原なのだろう。
アメリカの核戦略拠点以外にも、石原は沖縄の嘉手納基地を視察している。とある機会に石原は評論家の村松剛と二人で嘉手納基地を視察する機会を得た。
そして二人はそこである驚くべきものを目にしている。
視察では、身柄のチェックを何度も受け、更に奥へ進むと石原たちに同行した米軍将校の体からもすべての金属が外された。そして三人を挟み込むようにしてそれぞれに二人ずつ屈強な白人の兵隊六人が付き添い、仰々しい三重の堀に囲まれた建物の奥へと連れて行かれた。そこで石原たちは薄青みがかった巨大な金属の箱を目にした。石原は戦慄を覚え、ただただ息を凝らし何度もうなずきながら、飽きることなく目の前の物に見入っていた。
それはまさしく核弾頭であった。
石原はあの日に目にした薄青い巨大な金属の箱は、今日も当時と変わらず存在しているという確信を抱いている。
お~い、だったらなんで当時これを表沙汰にして大騒ぎしなかったんだよ、あんたは、というツッコミは野暮だろうか。政府の言う非核三原則など全くの空証文なことはその頃から耳タコで言われていた。にしても、だよ。これだけの見聞をしておきながら、今になって後出しジャンケンみたいに三十年後にもっともらしく持ち出してくるのは、あまりタチのいいもんじゃないよなあ。
「政治家」石原慎太郎というのは、こういうことをしれっとやってのけるタマだ、ということだ。しかも、それを「作家」のふりこきながら、私的なところではきっとうっとりと。石原慎太郎にとって最大の「作品」とは、おそらく彼自身ということになるのだろう。まさにキャラとしての「石原慎太郎」を全身で二十四時間演じること、それが彼の自己表現なのであり、またそういう意味での「作家」である、と。
最近、勝負に出てきたのか、それともいささか功を焦り始めているのか、それまでよりも粗製濫造気味になってきたフシもあるそのような「作家」活動の中で、ことさらに自分の肖像写真を大きくフィーチュアするようになってきているのが、あたしゃどうも気になる。先に言ったような、彼がその出自から骨がらみに背負ってしまっている「文学」の磁場からどうしても自由になり切れていない自意識の執着や未練が、ここに至って予想以上にナマな形で現われようとしているのではないか。なるほど、「老い」というのはそういうもの、終わりが具体的に見え始めたことで自らの出自に抑えが効かなくなってしまう、そんなものなのかも知れないけれども。