バスガイドという仕事

 バスガイドという仕事の「語り」って、民俗学の視点から見るとどうなるんだろう。窓の外を流れる風景が、ガイドの「語り」を補助線として全く別の意味を車中の空間に立ち上がらせてゆくわけだけど、「観光」という意味の付与された空間の立ち上がる場、といった文脈で、これって考えることができるよね――仲間うちでそんなことを話していたのが、たまたま某財団からささやかながら資金援助も獲得できたのを幸い、ならば実際にやってみようか、というので調べ始めたのがことの始まりだった。

 「耳の旅の経験」という報告書にその共同研究のアウトラインはまとめられている。八年ほど前のこと、今となっては引用されることもまずない埋もれたペーパーになっているけれども、それを下敷きにバスガイドの「語り」の背後にある「歴史」について、もう一度見直してみたい。*1

 大分県別府温泉。ここの亀の井ホテルの創業者にして社長の油屋熊八という人物。これが今あるようなバスガイドのスタイルを「開発」した先覚者だった。

 文久三年、伊予の宇和島に生まれ、堂島で米相場を志すも失敗して破産。渡米経験などもしているが、明治末に妻のユキが営んでいたという旅館業をたよって別府にわたり、ここで事業化としての才能を開花させたと伝えられている。

 在米経験が下敷きになっていたのだろう、ベッドや水洗式トイレなどを備えた本格的な西欧式ホテルとして亀の井旅館をリニューアル、同時に「別府」そのものを宣伝してゆく「観光」の視点をとりいれて、さまざまなプロモーションに腕を振るっていった。この時点ですでに、口演童話家という肩書きの「語り」のプロを同伴しての宣伝を試みている。オーラルな「語り」が当時最もアクティヴなメディアとして身振りともども突出してきていた時代、敏感に反応するだけのキャパシティが熊八にはあったと見ていい。

 バスガイドが出現するのは昭和三年。折から開かれた中外産業博覧会に際して、別府の「地獄」に二十五人乗りの大型バス四台を導入、そこに「少女車掌」を乗せて「解説」をさせる、という新機軸だった。弁士を伴う活動写真の隆盛や、宝塚少女歌劇の人気などに影響されたのは明らかだが、それらを複合して「観光」に結びつけようとしたセンスは、やはり当時としては抜きんでたものだった。

 新しいメディアは常に「女性」と結びつけられて普及、発達してゆくところがある。バス車掌、飛行機のエアホステスやパイロット、ガソリンスタンドのサービス員に百貨店のマネキン、電話の交換手にタイピスト……当時新たに出現し始めた新規でモダンなそれらの事物は、「女性」を媒介として特別な意味を付与され、不特定多数の視線におおっぴらにさらされてゆく。ようやくその輪郭をあらわにするようになっていた「大衆」の仰角の視線の向う側にあったそれら「女性」の形象は、時代を切り開いてゆく何かを感じさせるものとして浸透していったはずだ。

 この少女車掌の「解説」、最初は文章体で行なわれていたらしい。というのも、もともと紙の上で執筆された台本があったわけで、そのテキストを読みくだすような形になっていたのが、それでは実演上うまくないというので、一年ほどの間に徐々に七五調に改められていったという。当時の地獄めぐりは一周十二マイルから十三マイル、というから、二十キロあまり。そのうちのべ三十分をこの「解説」に費やしていた。この行程を一日に三周から五周やるうちに声帯を痛める車掌たちが続出、そのような労働条件での実演を考えてのことでもあったらしい。

 現在残されているSPレコードに記録されている当時の「解説」は、一聴して「のぞきからくり」のフシや調子に近い印象を受ける。明治初期に隆盛を極めた見世物のひとつだが、のぞき窓の向こうに展開されるタネ板の画像に語り手の「解説」が交錯するスタイル。このような視覚と「語り」の融合を主題とする芸能は、近世末期からさまざまな形で発達してきていたが、後の活動写真と弁士の関係、さらには百貨店の屋上のアトラクションなどにもよくあったスライドビューワーといったものにまで揺曳している。とは言え、細いことを言えば、漢文調の武張った「語り」から始まったと言われる活弁などよりも、このバスガイドの「語り」はむしろのぞきからくり浪曲などの方に、系譜的に親縁性があるように思われる。九州の門司港周辺で発生し、西日本から一時は全国的に流行したバナナの叩き売りに付随するフシとタンカも、オリジナルに近いものはおおむねこののぞきからくり系のものだった。最盛期には一日に数トンもさばいたと言われるこの叩き売りの販売力、消費行動の喚起力というのも、このフシとタンカのスタイルに規定されていたはずだ。

 昭和十年代に入る頃から、この「解説」にも「解説調」と「会話調」という分離がはっきりしてきたようだ。車掌としての業務に直接関わるような部分は普通の「会話」で、それ以外は七五調の「解説」ということのようだが、これは浪曲の「タンカ」と「フシ」の関係にもよく似ている。文脈はダイアローグも含めた地の文で構築してゆき、盛り上がってきたところで「フシ」に転調、一気にカタルシスを得る――この芸能そのものの文法が、期せずしてバスガイドの「語り」にも導入されていったことは、「観光」が明らかに「芸能」の要素をはらんで具体化していったひとつの例証になるのではないだろうか。

 当時のSPレコードのカタログなどの中には、架空名勝解説といった題目のものも散見される。世界一周旅行などを語りとフシとで耳を媒介に立ち上がらせるある種の疑似体験メディアとして、これらのレコードが楽しまれていたことが想像される。いまどきのもの言いだと「ヴァーチャル」な旅行、ということになるのかも知れないが、「観光」そのものが、本質としてそのような「ヴァーチャル」なコンバージョンであらざるを得ないことを考えれば、バスガイドの「語り」が歴史的に果たしてきた役割というのもその種のコンバーター、日常と非日常を媒介するすぐれて芸能的な役割を担うものだったということが言えるだろう。

 大型観光バスによる団体旅行は戦後、昭和三十年代から急激に伸びてゆき、その過程で、バスガイドもまた花形職業として認知されるようになった。人気歌手の一部にバスガイド出身という経歴の者も続出、戦前の「解説」以来の芸能としての伝統は息づいていたわけだが、その後、マイカーの普及によって観光の中に占める団体旅行のウエイトが変わってゆき、さらにカラオケがバス車内に導入されることで、団体旅行の空間自体が変わってくると、バスガイド自体のニーズも大きく変貌せざるを得なくなっていった。それは旅行先での「宴会」の衰退とも軌を一にしている。数十人単位でのささやかな共同性を前提にした観光の空間はその濃密さを失ってゆき、その場の司祭として機能していたバスガイドに代表される芸能もまた、その役割をこれから先、また新たなものにシフトしてゆかざるを得ないのだろう。

*1:近畿日本ツーリストの「旅の文化研究所」の報告書になっていたはず。詳細はまた後日ゆるゆる発掘を。