「立花 隆」のつくられ方

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 メディアが英雄を作り出す手癖、というのがあります。

 英雄、というのが大げさならば、うっかりとあらぬところに人を祭り上げてしまうからくり、とでも言い換えてもいいでしょう。

 何も今に限ったこっちゃない。人が言葉と意味の動物であることを始めた昔から、あらゆる英雄は語られる存在としてあり続けてきました。それはマスメディアの濃密に張りめぐらされた〈もうひとつの自然〉となったいまどきの情報環境に生きるあたしたちとて、例外ではない。

 かくいう立花隆センセイも、今やそういう同時代の英雄のひとりです。

 なにせ、「知の巨人」であります。政治から先端科学までを手あたり次第に網羅する何でもありな好奇心に、それを支える日々倦むことなきものすごい読書量を誇る日本屈指のおベンキョ屋。この世知辛いご時世に筆一本であっぱれおっ立てた自前の鉛筆ビルは壁一面に黒猫の顔をあしらったファンシーなもので、中身はあまたの書物と資料とで上から下まで埋めつくされた、まるで原っぱの秘密基地。そこに立てこもってのデスクワークだけじゃない、何かのはずみでいざ喧嘩……いや、論争ということになればどんなややこしい相手に対しても一歩も引かず、それでいて、世渡り的には組織には属さないフリーランスのジャーナリストにして、最近は東大でゼミナールも受け持つくらいな当代一流の知識人――まあ、おおむねそのような断片が得手勝手に貼り合わされたイメージでもって、世間には認識されています。いや、されていました、と完了形めいたもの言いにしておいた方がそろそろ正確かも知れませんが、それはひとまず措いておきましょう。何にせよ、未だ世に流通している「立花隆」イメージの最大公約数というのは、およそそのようなものだと言って、まず間違いないところでしょう。



 ペンが権力に勝った――それがこの「立花隆」という英雄にまつわってきた「伝説」の、もてはやされてきた理由の源泉です。

 言うまでもない、かつて今太閤とまで言われて国民的人気を誇った総理大臣、田中角栄の背景にある「金脈」を、執拗なチーム取材によって暴き立て、その後ロッキード事件で一転、被告人となった角栄の裁判傍聴を七年にわたって続け、当時からあった「田中無罪説」に対しても強硬な論陣を張り続けてきた、そんな行いが、「権力」に真っ向から対峙してひるむことのない硬派なジャーナリスト、というイメージをつくりあげてゆきました。

 もちろん、かの「金脈」追及は、早逝した児玉隆也の仕事(『寂しき越山会の女王』)が、より大きな駆動力となって初めて可能だったわけですし、また、長年続いた分おそらくこっちの方がイメージ形成には大きく寄与しただろうロッキード裁判傍聴にしても、彼自身が望んだことというより、当時すでに作られつつあった「田中の天敵」的なイメージに乗ったメディアの側から割り振られた仕事のようなところがありました。「田中角栄」という「権力」の悪行を身ひとつで白日の下にさらした、という「伝説」は、かくてこの時期、七〇年代から八〇年代にかけてはっきりとその輪郭を定めるようになります。

 ただ、そういう万能のスーパーマン、「知の巨人」としてまつりあげられてしまった後の立花隆よりも、人物ルポの腕ききとしての立花隆、と言うのが、あたしゃ実は結構好きであります。さすがにもうそんな細かい仕事はやらなくなってますが、今は文庫版のオムニバスに収録されている『週刊文春』時代も含めた初期の人物ルポなどは、ある意味週刊誌的な速度と間尺で人物を切り取る時の教科書のような出来だったりする。その他、あれはどういう経緯で受けた仕事だったのか今となってはちと謎なのですが、『スコラ』(当時の彼が書く場としては異質です)に連載していた人物ルポをまとめたもの(『青春漂流』)も、猪瀬直樹の初期作品『凡人伝』などと並んで、ルポ/ノンフィクション系の眼ききな活字読みたちの間ではひそかに評判のいいものです。

 そういう意味で、あの角栄裁判の傍聴沙汰の背景には、社会的正義とか思想信条といった要素よりも手前にまず、それら「人間」への関心、生身の現実に対する素朴な好奇心といったものがあったと思います。

 それは『フォーカス』創刊時、それまでにないスキャンダラスな写真週刊誌というコンセプトに首をひねる同僚たちに「おまえら人殺しの顔を見たくはないのか!」と言い放ったという新潮社の「天皇」(こういうもの言い自体、すでに「伝説」なのですが)斉藤十一などにも通じる、何というか、純粋好奇心の全面開放、妙な屈託なき野次馬根性に裏打ちされた天然の俗物性、といった、いずれある時期までのジャーナリズムの現場にあっけらかんと共有されていた資質なり気分なりのはずです。

 当時の人物ルポでの彼の筆致の背後には、そのような「こいつはいったいどういうやつなんだろう、何して生きてきたんだろう」という、恵まれた環境ですくすく育った育ちの良い子どもが眼の前の存在をまっすぐに眺めるような純度の高い、言わば純粋好奇心が脈々と息づいている。それは後に、やれ臨死体験だ、宇宙からの帰還だ、といったどこか浮世離れしたテーマに突き進む時にも変わるどころか、さらに増幅さえされていったようです。

 しかし、当時メディアの舞台でうなりを立てて稼働していたのは、法廷という、ただでさえ図式的で杓子定規な「正義」の依代になりやすい装置を媒介にして、問答無用の悪玉と化した「権力」と対峙する検察、そしてその応援団としてのメディア、という大きな構図でした。傍聴者としての立花隆も当然、この検察―メディアの側に立ちながら事態に同伴してゆきます。

 はじめの一歩、のところでは、おそらく右でも左でもない、ただ持ち前の純粋好奇心の赴く先に待ち受けていたのがたまたま田中角栄だった――おそらくはその程度に過ぎなかったはずのゆきがかりが、より大きな時代の流れの中で当初の意味からどんどんかけ離れた別の大きなものに化けさせられてゆき、それによって本人もまた異なる位相に舞いあげられる。

 「伝説」の働きというのはそういうものです。ですが、しかし、その舞いあげられていった過程とそこに働く同時代のココロの力学、といったものをもう一度、〈いま・ここ〉の立ち位置から腑分けしてみることも、「立花隆」の、今やその「伝説」の向う側にかすんでしまった初発の可能性を、その資質ごと取り戻すことにつながるはずです。

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 「伝説」としての「立花隆」を支えてきた柱には、大きく言って二本あります。ひとつは「反権力」。もうひとつが「科学」ということです。「科学」の方は、他のところでその道の専門家も含めて大々的に検証しているでしょうから、ここはひとつ「反権力」という方をまな板に乗せることにしましょう。

 おおざっぱに言えば、ニッポンのジャーナリズムの成り立ち自体、そもそも没落士族のルサンチマンを前提にしていたところがあったわけで、良い意味での余計者意識、悪い意味での無責任な付和雷同性(「浮世を茶にする態度」と、柳田国男などは言っていましたが)というのは、およそメディアに携わろうという者の属性としてデフォルトのところがあります。そういう意味では、なるほどメディア自体が「反権力」である、という、何やら『噂の真相』めいたもの言いも、そう間違いとも言えない。

 けれども、そのような大きな前提の上になお、「戦後」という時空を重ねてみれば、それまで以上に過大な「自由」、平衡を欠いたご意見番的自意識というのが「民主主義」の水増し的な肥大と共に増幅し、それまでとはまた違った「反権力という権力」を形成していったということは言えるでしょう。『日本共産党の研究』をやり、『中核vs.革マル』をやり、そしていよいよ出世仕事となった田中角栄研究をやり、という立花の一連の表芸が、そのようなメディアの舞台で読まれ、意味づけられてゆく際の同時代的モティーフのひとつが、そのような状況の中での「反権力」でした。

 誤解のないように言っておきますが、それは彼自身が仕事をする時のモティーフが「反権力」だった、という意味ではありません。彼自身の意図や思惑はどうであれ、形になり出版商品として流通するようになった彼と彼の仕事が、当時の情報環境においてメディアの舞台でどのように読まれ、意味づけられていたか、という脈絡において、です。

 なるほど、角栄以前にも彼は、伏魔殿と言われてきた共産党をとりあげ、当時社会問題になっていた新左翼セクトを相手どって仕事をしてきていた。ただ、『日本共産党の研究』というタイトルが象徴的なように、それはいわゆる「批判」ではなく「研究」というのがミソです。あくまでも事実を積み上げた「研究」であって、初手から構えが決められてしまいがちな「批判」ではない。そういう意味では、彼は最初から非政治的ではあります。

 とは言え、左右対立の図式が良く悪くも社会を語るもの言いをまるで空気のように規定していた政治主義全盛な当時の状況で、このスタンスはかなり得体の知れないところがあったはずです。共産党の歴史にからむ過去の欺瞞を資料ごと暴き、新左翼内部のセクト対立のディテールを突っ込んで整理し倒し、そうか、つまりは反共なのか、と思えば今度は一転、田中角栄にとりつく。いったいこいつは右なのか左なのか、という戸惑いは、当初少なからずあったと思います。

 けれども、田中角栄という稀代のトリックスター(文字通りに、です)を相手どっての大立ち回りによって、立花隆はそういう戸惑いを一気に浄化するような存在になってゆきました。「右」であり「保守反動」の牙城と当時、言われていた文藝春秋が彼の仕事の勧進元で、「左」であり「リベラル」の根拠地として対抗関係にあったはずの朝日新聞もそれを援護する、という一見奇妙な構図が当時、立花隆の周囲には出現していました。実に立花隆とは、そのような関係にあった双方から共に支持され、擁護されるような特異で奇妙な存在でした。


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 どうして、そのようなことが可能だったのか。

 おそらく、こういうことです。文春と朝日、それぞれ出版社と新聞社という違いはあるにせよ、どちらも「田中角栄」という、当時この上ない大文字の「権力」に対峙されたところでの「反権力」というキーワードによって自分たちの立ち位置を決めることが共に可能だった、と。

 いずれビジネスとしての報道、資本主義原理に立つ経済活動としての言論に携わっている組織であることは自明でも、その自明のことを敢えて言葉にする回路はメディアの現場にはまだうまく育ってはいませんでした。。大宅壮一などのもたらしたある種の「言論」のスタイルが、それまで以上にはっきりと「商売」になり始めたメディア稼業の手ざわりや、そこに宿る矜恃を多少なりとも感じ取れるものにはなっていましたが、それでも、新聞や雑誌にものを書き、ものを言い、活字に関わってゆくことそのものが、世間一般で言う「稼業」と同じ生業として理解されることはまだありませんでした。

 だからこそ、逆に言えばそのような稼業の者たちの間には、はっきり表現されない何かある共通の了解事項があった。敢えて言えばそれは、たとえ立場や利害は異なるにせよ、いずれ世俗の大方からはズレたところに生きる者たちであるという互いの自覚であり、そのような自意識の上に成り立つ暗黙の共通理解であった――おそらくはそのことが、立花隆の仕事が当時の状況で左右どちらの陣営にも読まれ、影響力を持つようになってゆく際に、陰に陽に強力な紐帯になっていました。

 マスコミやジャーナリズムという「立場」を説明するもの言いとしての「反権力」――それはその後、八〇年代に入って価値相対主義の蔓延により、そのような単純で明解な「立場」自体がぐすぐずと崩れてゆくと、とてもじゃないけれどもそんな単細胞な態度ではメディアの現場に身を置くこともできなくなって行ったわけですが、しかし当時はまだ、メディアの自意識はその程度に牧歌的で、ある部分では均質でもあり得た、と。

 それはもちろん、活字のリテラシーを前提にしたある種の選民意識であり、同時にその思い込みに見合った責任感覚もまだ共有されていた状況でのことです。表出されている思想的な立場がいかに対極にあるように見えていても、その背後にはこのような「活字」に依拠する者であること、そのように「活字」を読み、書き、そのことによって織りあげられてゆく意識を共に持つ者――もっともあっさり言ってしまえば「知識人」であり「インテリ」であることの共通感覚がしっかりとまだ根を張っていた。この時期、立花隆が発揮し始めていた不思議なオールマイティーさを考える時には、このことを見逃すわけにはいきません。

 「田中角栄」というのが、そのような「戦後」を生きてきたニッポン人のココロのまるごと総体が紡ぎ出したような、それ自体が幻想であり伝説でもあるような存在だったとして、一方で、そのようなとりとめなくもただならぬ存在に釣り合うだけのココロの積分値として、何か依代もまた必要だった、と。その求められた地点にたまたま、さまざまなめぐりあわせで行き当たったのが立花隆だったのだ、と。

 もちろん、それは立花隆以外の誰か、でも構わなかったようなものではあります。事実、立花ほどの「伝説」喚起力は持てなかったものの、それに近い立ち位置にいた書き手は他にもいる。ただ、彼らは純朴なまでに政治的でした。たとえば、ルポルタージュかノンフィクションか、といった、今からすればどうでもよさそうなレッテルの違いまでを材料に、同じく当時そのような文春vs.朝日、という構図の中に否応なしに巻き込まれた書き手であった鎌田慧などの場合は、好むと好まざるとに関わらず、はっきりと一方の側(「朝日」サイド)に立ち続けることになりましたし、何より当人自身、そのような立場からの文春批判を繰り返しています。あるいは、当時はまだ「新聞記者」として何らかの影響力を行使し得る立場にいた本多勝一なども、その脈絡に便乗して「文春」イコール「保守/反動」という煽りを、それはもうあきれるくらい繰り返し行なっている。事実、新聞・雑誌の大方は言うに及ばず、当時まだたくさん存在していたその他さまざまな言論誌、思想誌などの論調もまた、そのような雰囲気――メディアの舞台で増幅され、濃縮もされた左右対立図式と、その図式によらないことには眼前の事実からいくばくかの手ざわりさえも獲得できなくなっていた状況に寄り添うようなものに、良くも悪くもなっていました。


 なのに、これは意外なことと言ってもいいのでしょうが、立花隆自身はそのような、当時のメディア状況に現われた対立図式に自ら依拠して何か直接ものを言うようなスタンスを、少なくとも表立ってはとっていない。

 たとえば、元文春の社員であり、退社後も主に文春のまわりでずっと仕事を続けていたにも関わらず、注目される大仕事になった田中角栄研究が文春社内で必ずしも一枚岩で支持されたわけでもない(だから文庫版は講談社で出されている)ことについても、彼ははっきりとそのことを批判したり愚痴ったりはしていない。まあ、社内にいた分、微妙な人間関係とかもからんでいたから、と斟酌するのも常識でしょうが、にしても、ロッキード裁判をめぐる渡部昇一などとの大論戦でははっきりと自分の立場を示してわたりあったことを思えば、そういう当時のメディア環境にからんだ対立図式についてほとんど何も具体的に言及していないのは、ちょっと意外な印象があります。こんな具合です。

角栄研究」の筆者として私はしばしば激烈な新聞批判の言を吐くことを期待されて困ることがある。私は日本の新聞に対して、それほど激しい反発感を持っていない。一口で言えば、「まあ、こんなとこだろう」という一語に要約できるなかばあきらめ、なかば消極的評価といった心情をもっている。

 まあ、なんとも超然としています。実際、今読んでも拍子抜けするくらいのものです。

 それは一見、「俗なことには関わらない」という、古典的な知識人の美意識のようにも見える。旧制第一高校の寮歌『嗚呼、玉杯に花うけて』の有名な一節、「栄華の巷低く見て」という、あれですな。

 でも、「俗なこと」に対する好奇心というやつは彼の場合、自分でも認めているように人一倍旺盛なわけで、だからこそ先の人物ルポのような仕事にはとてもうまくはまる。第一、仕事とは言いながら、週刊誌の記者やアンカーをずっとやってきたのだから、俗なことが本質的に嫌いなはずはないんだけれども、でも、そういう俗な部分はあくまでも客体、この自分が取り扱うべき対象として存在するのであって、そこから逆にこの自分の実存が深刻な影響を受けることはない――うまく言えませんが、何かそんな一線が彼にはどうやらはっきりとあるように思えます。こういうどこか職人的なプラグマティズムというか、良く言えば洗練された政治性に裏打ちされた、フリーランスで仕事をしてゆくことについてのある強靱な自制力というのは、当時のような皮相な政治主義全盛の状況では、殊に際立っていたはずです。

 新聞報道と雑誌報道の特質の違いを手際よく整理してみせ、そしてそれぞれが「近代」のメディア環境の発達の中でどういう役割を担ってきたのか、さらにそれが現在ではどういう変動の中にあるのか、などについて全面展開してみせた『アメリカジャーナリズム報告』(穏当なバランス感覚に立つ書き手としての立花の、最良かつ最後の仕事のひとつと思います)の中の考察の部分は、そういうフリーランスの仕事人としての彼の、仕事=ビジネスとしてのジャーナリズムの現在を計測する眼の確かさを証明しています。そのような眼で状況を的確にとらえ、しかし、ありがちな「批判」の高みにゆくことなく、その中で最低限着実に仕事をこなしてゆくマネジメント感覚も共に備わっていた、と。いやあ、こりゃちょっと勝てません。「田中角栄」という、ニッポンの「戦後」そのものの内側から紡ぎ出された壮大な形象に釣り合うべきカウンターパートとは、実にそのような資質、体質といったものの上に初めて成り立つようなものだったようです。

 かくて、インテリである、ということを共通感覚として、ルポ/ノンフィクションという分野における文春と並ぶもうひとつの主要な勧進元に名乗りを上げ始めていた講談社も、講談社ノンフィクション賞という、後発の賞に箔づけするのに立花隆というブランドを利用するようになります。そのように新聞から雑誌、おそらくは報道部主導のテレビメディアに至るまで、いわゆる「マスコミ」の表芸としての「報道」に携わる者たちの世界観において、立花隆はオールマイティな通行手形として流通するようになりました。「伝説」が立ち上がってゆく素地は、ここに十分に整えられたわけです。

 このあたりの「伝説」の「伝説」たる所以を見るには、彼の「盟友」筑紫哲哉の彼に対する評価が最もわかりやすい。

 彼が、立花の「田中角栄研究」にすさまじい衝撃を受けた、というのはその後も随所で語っていることですが、その評価の文法とは端的に言って、ニッポンのジャーナリズムに「フリーの、独立した人格と能力を持ち合わせたジャーナリストが育っていないこと」をあげながら、しかし、立花こそがそういう「個人」だから素晴らしい、といったものです。「個人」に対比されるのはもちろん「組織」なわけで、組織だからこそできる仕事の水準もあれば、逆に個人であるからこそ乗り越えられない壁というのもある、そういう当たり前に仕事をして生きて居るならば、どんな場所であってもそれなりに思い知っているはずのそういう留保など、この筑紫の「評価」にはありません。だから、そのような組織に属しながらジャーナリズムに携わっていた自分たち(言うまでもなく筑紫は、朝日新聞ワシントン支局でウォーターゲート事件を経験した、バリバリの政治部記者あがりです)は「個人」としての立花の仕事に衝撃を受けた、と。

 立花隆の「田中角栄「金脈」研究」が徹底的にチームワークであり、そのワークを支えたのも文藝春秋なり講談社なりの「組織」であり、もっと言えばメディア市場の中に成り立っている営利企業である、ということを、筑紫のこの評価の文法は全く考慮していません。まるで、『真剣十代しゃべり場』にアホ面さらす十代のガキのような単細胞丸出し、「文学」丸出しのルサンチマンです。おそらく、組織の中の個人としての自分に、朝日新聞記者筑紫哲也は居心地の悪さをずっと感じていたのでしょう。そんな彼の眼に立花隆はスーパーヒーロー、理想的インディペンデントの「個」として映ったのでしょう。そしてそれは筑紫ひとりでなく、当時メディアの現場で組織人として仕事をしていた者に、最大公約数の気分であったのでしょう。そこからは、フリーランスとして生きることを選んだ、選ばざるを得ない自分というものも前向きにあきらめながら受け入れようとしていた、そんな立花の「個」に間違いなくはらまれていたはずの微妙な陰影やなどは、ただおのれの立ち位置に居直っただけの、のっぺりとした単色に塗りこめられてしまうだけです。

 このように、「フリー」の「ジャーナリスト」として、英雄として「伝説」になる前提は、そのような当時のメディア環境に生きる者たちの側に、有形無形にインストールされていた抑圧や居心地の悪さなどによって、準備されていたところがあるようです。


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 けれども、そんな状況的な要素とは別に、彼自身の書き手としての資質はまた違ったところにあったらしい。

 たとえば、一人称で「書く」ことについてのありがちな責任感とか、それに伴うプレッシャーや葛藤、そういったものとは、彼はどうやらあまり縁がない。どんな状況でも原稿をすらすらと書ける、ということは早い時期から自慢していますが、それが自慢特有のいやらしさをさして感じないくらいに、ああ、確かにそれはそうなんだろうな、と納得させられるところがある。「書く」ことは彼にとってはそんなに体重かけるべき作業でもないらしい。そういう意味では、理科系の研究者などの「書く」ことに対する身構え方に近いものがあります。

 逆に、「書く」以前の作業、「読む」ことについて最大の熱意を傾ける性癖が強い。取材だけしていて書かなくていいのだったらこんな楽しいことはない、とまで言っています。しかし、その「取材」というのは、しかし、昨今のフィールドワーク幻想などにも連なるジャーナリズムにとりついた宿痾、あの「現場」至上主義のもの言いからはかなり遠い響きがまたある。

 おのが好奇心の赴くままに調べものをし、資料を探し、必要ならばその道の専門家にレクチュアを受ける。旅にも出る。あらゆるたぐいの誤謬発生のリスクをおかしながら、ジャーナリストはただ自分の信ずるところにしたがって、歴史の原資料づくりをつづけなければならない。そんな「同時代と歴史のジャンクション」となるべき仕事を積み上げてゆくことに加担する、とはっきり言明したこの時の彼は、ウッドワードやハルバースタムといったアメリカの当時一線級の現役ジャーナリストたち(この人選が誰によって、どのようになされたのかは、また別の意味で深く興味がありますが)に話を聞くことで、初めて自分を自分で納得ゆくような形で肯定することができ、自分のやってきた仕事が同時代のジャーナリズムという枠組みの中で位置づけられた喜びを表明しています。それが「アメリカ」という、彼の世代にとっては抜きがたく存在していたはずの「権威」によって認証されたという現実は避けられないにせよ、彼のその喜びは嘘偽りのないものだったはずです。後に臨死体験を扱う場合などで、専門家たちに対するインタビューをテキストとして示しながら、それをもとに再解釈を積み重ねてゆくような手法が一般化してゆきますが、このあたりがその手法に自覚的に行き当たった初めだったのかも知れません。



 けれども、そのようにいくら現場を踏んでも、取材を積み重ねても、山ほどの資料を渉猟し多くの人にあって話を聞いたとしても、当の立花隆の内面はおそらくそれほど揺らぎはしないでしょう。

 いや、もちろん生身の人間のこと、あたりまえの動揺や葛藤はあるとしても、少なくともそれが立花隆という「自分」を、その実存を根本から揺るがしてしまうようなことにはまずならないし、だからこそ、そのような「自分」を前提にして「書く」という作業にまで響いてくるような揺らぎ方もしない、と。万一、したとしても絶対にそれを表に出さない、そんなある意味では磐石の、違う言い方をすればできあがってしまって動きようのない「個」の気配。

 これも誤解のないように言っておきますが、決して悪い意味でだけ言っているのでもない。どんな対象に接してもうっかりとカンドーしたりココロ動かしたりしない、もう少しいえば、その対象との関係において共鳴したりはしない、したとしてもあくまでも自分の内面、おのれの「個」の間尺においてのみであって、その範囲でだけその揺らがされたことをひとり粛々と処理してゆく、そんな安定度抜群な主体制御装置があらかじめ備わっている。だからこそ、ともすればうっかりベタベタに対象についてしまい、対象よりもとっとと先に自分の方がグスグズになってしまうようなその後のジャーナリズムのある部分にとりついたビョーキから、立花隆は距離を置いていられたということなのだと思います。

 対象は対象として客体化して見る、それこそひと昔前の自然科学の教科書そのまま、「客観的」に見ることに忠実に「見る」主体を作り上げてしまった、しかし本質的には純粋好奇心全開の文科系もの書き、それが立花隆なのだ、と。

 自分の体験、自分の見聞、ということをいきなり無上に大切なものなどとは決してとも思っていない。それは「自分」という存在自体、そんなに無前提に肯定されるべきものだとも思っていないからでしょうが、でも、「ワタシ」をまず肯定することから現実に向かい合うことのできない性癖を持っていたニッポンの「文学」の保守本流からすれば、この乾き具合はやはり異質です。

 そう、立花隆という人は、ニッポンのもの書きのかなりの部分が逃れられなかった「文学」幻想から縁遠い、そんな資質の持ち主のようなのです。どんな対象と取り組むにしても決して自分ごとにしない、自分という生身に引き寄せて対象を考える回路はひとまず切っておく、と。だから、私小説出自の「ワタシ」語りの呪縛のキツい、クラ~いニッポンの「文学」に足とられたりもしない。それが証拠に彼の書いたものの中に固有名詞として出てくる作家は、たとえばバルザックであり、トルストイであり、いずれとにかく堂々たる古典的「教養」主義の西欧のビッグネームがほとんど。間違いなく状況のまっただ中に身を置いていながら、ギリギリ自分の「個」の輪郭だけは絶対に揺らがない、そんな強靱で始末におえない自意識の持ち主であります。

 けれども、それこそがまさに、活字の読み/書きによってつくりあげられる「インテリ」の、ある典型的な形だったのでしょう。勤めていた文春をひょいと辞めようが、東大に学士入学しようが、ゴールデン街で小さな呑み屋をやろうが、女性週刊誌編集部でアンカーとして梨本勝その他の学生あがりのデータマンたちをうまく使いこなそうが、とにかくどういう境遇、どんな身過ぎ世過ぎをしていようとも、自分はそのように世界と関わらざるを得ない人間である、という自覚だけは決して手放すことはない。

 立花隆を「伝説」にしてゆくことになったもう一本の柱である「科学」も、そのような「個」であることの上にかけられてこそ、魔法めいた働きを示すことになります。

 「宇宙」であり「脳死」であり、取り込まれるべきもの言いは何でも構わないはずですが、いずれそういうどこか超越的な存在に対する好奇心が、価値中立的でイデオロギーフリーなイメージと共にもてはやされることによって、立花隆という固有名詞にはいつしか「ザ・知性」といった印象さえまつわるようになってゆきました。「知の巨人」というあのおおげさなキャッチコピーにしても、角栄批判やそれ以降のリクルート批判などの政治・経済系の仕事をやっているだけでは、おそらく奉られることはなかったはずです。「科学」の分野、もう少しくだいて言えば「理科系」の領域に果敢に突っ込んでいったからこそ、それらからどこか疎外感を抱いていた「文科系」がデフォルトなメディアの舞台での見られ方に、より一層のターボがかかった、と。

 立花自身の事情を考えてみても、「活字」を前提にあたりまえのように作られていた「インテリ」という自意識の揺るぎなさと、この「科学」という魔法とはなじみやすいものだったようです。とりわけ、「戦後」の言語空間においてそれは「民主主義」や「進歩」などとも手に手をとって無条件にプラスの意味を持たされるようになったもの言いでもある。もちろん、インテリ固有の事情からすれば、大正末期このかたたっぷりと刷り込まれてきた「マルクス主義」文脈での「科学」という無謬性の権化もそこには癒着、介在してきますから、補強材としてはさらに強力です。

 さらにそれらの外側で、コンピュータに代表されるような電子情報機器の急速な普及と浸透による情報環境の激変によって、それまで「活字」を軸に構築されてきていたはずの「教養」の体系そのものが崩れてもゆきました。八〇年代に起こった価値相対主義の高揚というのは、そのような既存の「教養」体系の崩壊に伴って引き起こされた価値観の大変動のひとつの現われでした。それがココロの問題にとどまらず、現実の制度の側にまで実際に反映されてゆくのはさらに少し後、九〇年代に入ってのことで、その間、バブルの崩壊といった下部構造の要因もちろんからんでいたとは言え、ここ十年ほどで積極的に進められた大学での教養課程解体などは、むしろ情報環境の激変によって引き起こされた価値観の変動が、それまである程度の自立性と閉鎖性を保証されていた「知」のインフラである大学にまでようやく波及してきた、という流れで解釈した方がすんなり納得できるようなものです。東大での「教養」ゼミを担当し、そこでの体験をもとに『東大生は馬鹿になったか』という本を彼が書くようになっているのも、彼のような古典的活字オリエンテッドリテラシーによって織り上げられた「個」が、いまどきの情報環境の激変にどんどん同調していった果ての、言わば必然のようなものです。

 「知識」が「教養」の方向にあらかじめ約束されて構築されることのなくなった状況で、全てが等価な「情報」として大容量に蓄積されるばかりになった。貼り込むべき台紙(=「教養」という枠組み)のなくなった中でブルーチップスタンプ(=断片としての知識)をためこむ速度だけがどんどん加速されてゆく、という言い方がわかりやすいでしょう。そんな本来ある文脈を喪失させられた分、一気に膨大なものと化した「情報」の海を自由自在に、しかも力強く渡り歩く司祭として、今や立花隆は語られるようになりました。「知の巨人」とは、ほどいて言えば実にそういうことです。

 なにせ、もとから活字読みとしての体力・腕力は一級品。一日十時間(こういう数字の語られ方もまた「伝説」特有です)と言われる読書量、徹底的な「調査」とそれによる「資料」の収集。閉塞した書庫でじっと資料を漁り続けるその姿は、それこそ新たな情報環境を象徴するメディアとなった観さえあったインターネットとも、ごく自然になじめるような感覚を育むものだったに違いありません。とうとう、インターネットは神である、とまで口走り、ビル・ゲイツに対しては得意のインタビュー手法も空回りして無残にすれ違う始末。

 この時期、「臨死体験」を扱い、インターネットにいれあげるようになってから急にヘンになった、という意見が、活字読みの間の立花評価には結構あります。トンデモ入ってるじゃん、というミもフタもない、しかし直感的にはおおむね正しいコメントなども、ちらりほらりとささやかれるようになってきている。さすがにまだ表立って語られてはいませんが、でも、そういう意味では、確かに「伝説」はその寿命をひとわたり終え始めているんだなあ、と思うところがあります。

 ただ、これは擁護じゃなく聞いて欲しいのですが、おそらくこれって、立花自身がヘンになった、というよりも、むしろ、そのヘンであることがそれまでよりもはっきりと誰もの眼にバレるようになってきた、と言うべきなのではないでしょうか。

 ヘンかヘンじゃないか、ということで言えば、立花隆は初手からヘン、なのです。で、ここもあわててつけ加えなければならないのですが、それは活字の読み書きによって作り上げられた「個」というものが、世の大方にとって本質的にヘンである、というのと、おそらく同じことです。問題は、そのヘンがうまく世の役に立つようにセッティングされ、活用されてゆくような環境がどうやらそれまでとは変わってきてしまった、そのことがまだうまく言葉にされていないことです。

*1:サブタイトルは……純粋好奇心の全面開放がうっかりと「伝説」になっていった、その事情

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