『データマップ日本』(NHK) のこと

 『データマップ日本』という番組を見た。かな~りおもしろかった。

 チャンネルは、NHKのBS-2。NHKとしては看板の特集番組「NHKスペシャル」(なにせ制作費が最低でも二千万だとか。ほんとかあ?)のくせに深夜の妙な時間帯だったから、再放送だろう。民放の再放送がまず期待できないのに比べて、NHKはある程度ゼニかかった番組ならばどこかできっと再放送するようになってるのは、衛星放送その他の多チャンネル化に伴うソフト不足の賜物とは言え、ありがたいっちゃありがたい。

 で、何がおもしろかったかってえと、

1) まず、いろいろな統計データを日本地図上に自治体別に色分けしてマッピングすることで、いまある日本の地域差をミもフタもなく見せてゆくという、そのいまどき愚直なくらいの手法が未だ有効だ、ってことがひとつ。


2) 次に、そういう手法に徹することによって否応なしに見えてくる「ああああ、ほんとにもうニッポンってのはえらいことになってるんだなあ」というこちら側の実感の確かさにわれながら驚いた、ってことがもうひとつ


3) そして、これが一番本質的かも知れないのだが、そういうこちら側=視聴者側の実感の確かさにも関わらず、番組自体の意図というか、作り手の側の視線がなぜかその実感と一八〇度逆に向いちまってる、ってこと。

 ひとまずこの三点が、なのであります。

 さまざまな官庁、ないしは官庁に準じる公的機関の統計データを、全国の自治体毎にマッピングして見せる、という手口は全ッ然新しくない。というか、「統計」ってのはハナッからそういうもの。味もそっけもない数字の羅列からどんな手ざわり確かな「現実」を引き出すか、というのが、そういうデータを扱うプロの腕だったりする。

 まあ、不肖民俗学なんてのはそういう数量データのリアリティの対極にあるような、自然言語垂れ流しのゆるいガクモンでありますからして、そのへん鬼門なんですが、でも、その無味乾燥なデータから引き出された結果の「現実」ってやつは、こちとらのそのゆるい手法でたどりついた先のリアリティとまるで別物なわけはないので、作法の違いはあれどいずれニンゲンの世間を取り扱う限り、どこかで必ず漸近線を描いてくれるものでもあります。

 定量的分析と質的分析の相剋、みたいなお題目が近年よく言われてますが、あたしなんぞに言わせりゃ、そんな二分法自体がいけすかないお勉強野郎の世界観バリバリなわけで、実験室での検証が命の理科系ならともかく、ニンゲンの世間を相手にするバヤイ、「データ」ってやつはそれほどゆるぎなく自立しているわけでもない。ぶっちゃけたハナシ、それを解釈してゆく枠組み自体が、この世間そのものに深~く依存しているのでありますからして。

 ともあれ、番組のハナシ。

 日本で一番ホームレスの増加率の高いのが大阪の中央区、女性ひとりあたりの出生率の一番が鹿児島県の十島村(離島ね)、老人医療費の一番高いのは北海道で、外国人労働者の増加率は地場産業の崩壊したいわき市とか鯖江市で高くて……とまあ、こういう具体性からそれぞれ現地での取材VTRがさしはさまれてゆき、それに対してスタジオでコメンテーターのコメントが、という造りで番組が進んでゆく。所ジョージが民放でやっている『笑ってこらえて』の「日本列島ダーツの旅」(あたしゃこれ、結構好きです)のNHK版、みたいなところもあったりする。

 山田洋次田中直毅、それと鳥取県知事の三人がコメンテーターみたいな形でいて、この人選からしてあらかじめ「地方、頑張れ」みたいな方向にまとめようとする意図ありありで、なんだかなあ、なんだけど、にも関わらずおもしろかったのは、さっき言った三番めの件――そういう番組をこさえる側の意図と、番組中、データマップや取材VTRその他で否応なしにこちら側が「読み取ってしまう」実感とが、きれいにあっちこっちになっちまってるところでありました。

 とにかくコメンテーターたちのコメントときたら、おいおい、その材料に対してどうしてそういうコメントになるかよ、あんたら、って代物が連発。

 たとえば、女性ひとりあたりの出生率と、世帯あたりの所得の伸びとを単純に結びつけて、「だから、景気がよくなれば子育てしようという気になる」って結論にもってくなんて、番組づくりとしては仕方ないかも知れないけど、安直すぎらあ。VTRを素朴に見ても、生活費からしてバカ高い都内目黒区と南西諸島の離島とが単に「子育てのしやすさ」だけで比べられるわけない、ってのは一目瞭然だろうに。

 岐阜の小さな縫製工場で、シナから若いおねえちゃんを働き手として受け入れているところのレポートにしても、「日本の若者がいやがるこういう仕事を、中国の若者が技術を受け継いで支えています」なんて、ココロあたたまり系のゆるいコメント一発じゃあ、見てるこちとらだってもうごまかされやしない。どう見ても、それって技術の流出でもあるじゃん。それに外国人労働者の増加率を言うなら、外国人犯罪の発生率だって言わないと納得いかないよなあ。

 ……とまあ、そういう後知恵のもっとらしいコメント抜きに、取材VTRだけを淡々と示すだけで、今のこのニッポンってのがほんとにえらいことになっちまってる、ってことはいやんなるくらい伝わってくる。スタジオでのゆるい能書きが、データとVTRの雄弁さの前にもう、圧倒的に「負けている」のであります。

 これって、どういうことか。

 思うに、素材をひとつひとつ取材してブツにして見せて、というテレビというメディアにおける基本的な「見せ方」のスキルと、それを解釈して意味づけしてゆく、番組づくりとしてはある種デスクワーク(「政治」と言い換えてもいいけど)のレベルとが、きっとズレちまってるってことなんじゃないだろうか。

 はっきり言えば、後者は未だに旧態依然、敢えてレッテル貼りすりゃ「サヨク」で「リベラル」で「良識的」なメディア世間のデフォルトのまんまで、でも、スキル通りに地道に取材してあがってくる素材はもうどう見てもそんなデフォルトじゃ解釈しきれないようなものになっちまってて、そのズレは今やこっち側のフツーの視聴者のリテラシーにおいてこそ一番リアルに見えちまうものだったりして、とか。

 別に勘繰るわけじゃないけれども、きっと同じようなことが、官庁なんかでも起こってるように思えてならないんだよねえ。政策立案に関わる官僚ってやつが、官僚的リアリズムで厖大に手もとにあがってくる統計的データに対して、あたしらフツーの視聴者程度の「リアル」も実感できなくなってるんじゃないか、という懸念。それは右や左のイデオロギーの問題というよりも、メディアの現場から官僚組織に至るまで、今や中核を占めるに至っているはずの「偏差値世代」の手癖の問題なんじゃないかいな、と、例によってあたしなんかは思うのでありますよ。

 そこら中でやられている官僚批判、マスコミ批判、ってやつが、気分としては正当でも、急所に届かないままなのも、なんかそういう今ある「批判」モード自体があらかじめ覆い隠してしまう何ものか、ってやつがあって、その部分こそがもしかしたらもっと掘り下げて考えておかなきゃいけないこっちゃないんかなあ、とか。

 メディアのあり方に鈍感な知性ってのは、もう使いもんにならんよね。あ、この「メディア」ってもの言いも要注意なんだけど。

 少し前までなら「メディア」の勝者だったはずの巨泉が、あれだけボケたジイさんになっちまってる、ってこと自体、ほんとに象徴的だと思うんだけどなあ。