あたしの「網野史学」

*1

f:id:king-biscuit:20190117005255j:plain

 電話の向こうで、いつも会う時よりも少しだけ低い、でもやはり心地よい太さのあの声が響いていた。

「オーツキ君、悪いけどそれはダメだ。できませんよ」

 20分くらい、いや、もしかしたら30分以上、受話器を握っていたかも知れない。この世代の年長者に対してまずは長電話と言っていいやりとりの中、型通りの無沙汰のわびから近況などのとりとめないやりとりをさしはさみながら、折りを見て何度も繰り返すこちらのお願いごとに対して網野善彦は、そこだけ声をはげますようにして応えていた。こちらのいつにない執拗さに呼応して、同じく何度も何度も。

「君とだったらいくらでも話をしたいし、直接顔をあわせて尋ねてみたいこともたくさんあるんだ。それだったら僕はいつでも時間をとるけれども……」

 それは僕だってそうですよ、網野さん。僕が生来のおっちょこちょいでお祭り好きなすっとこどっこいなのはもうよくご存じでしょうけど、でも、伊達や酔狂でこんなことに首突っ込んでるわけじゃないんです。僕なりの目算や志があってのことなんで、そのあたりはきちんとお話しておきたいと思ってますから。

 そうか、それはぜひ聞きたいな。近いうちにどこかで会って話をしよう。いや、ほんとになんで君がいきなりそんなことを始めちゃったのか、僕も膝詰めで話を聞かないといけないなあ、と思ってたんだよ。わかりました、ぜひそうさせてください。僕もそれは望むところですから――そんなやりとりで話は終わった。

 いきなり、じゃないんですけどね、網野さん――ほんとはそう言い足したかったのだけれども、それは言葉を呑み込んだ。

 いまから8年前、確か96年の夏もおわりくらい、だったと思う。あたらしい歴史教科書をつくる会、の事務局に身を置いていた時に、網野さんに電話をした、その時のことだ。


●●

 当時、藤岡信勝西尾幹二らが中心になって立ち上げたあの、あたらしい歴史教科書をつくる会、に、あたしは関わるようになっていた。

 その時、網野さんにかけた電話の用件とは、つくる会の勉強会で話をしてもらえないか、という依頼だった。

 中学校の歴史教科書問題に端を発して、藤岡信勝言うところの「自虐史観」を相対化してゆく運動を展開してゆくだけでなく、実際にあたらしい歴史教科書をつくる、ということを公にしていた以上、そのための準備もしなければならない。とは言え、当時のつくる会の中心メンバーにいわゆる歴史の専門家はほとんどいなかった。歴史学のみならず、広義の歴史まわりの学問、「日本」にまつわる人文科学の現在の研究水準がどんなものか、必要ならばその道の専門家を呼んで話を聞く機会をつくろうじゃないか――おおむねそういう意図で研究会というか勉強会の企画が当時、つくる会内部で持ち上がり、その人選もあれこれ相談されるようになっていた。その程度に、立ち上がった当初のつくる会、というのは、よくも悪くも学者の集まり、大学のセンセイたちの素朴な寄り合い、ではあったのだ。

 秦郁彦さんの話をゆっくり聞きたい、芳賀徹さんもいいぞ、いや、考古学関係の最先端も知っておかないと……そんなやりとりが交わされる中、網野善彦さんを呼びましょうよ、とあたしが提案した。いま、あたらしい歴史の教科書つくろうってのに網野さんの仕事を考慮しないってのはあり得ないんじゃないですか。おお、それはいいねえ、僕もぜひ話を聞いてみたい、まずそう言ったのは西尾幹二だった。でも、どうだろう、あの人は思想的にうちとは相容れないんじゃないか……そんな懸念も当然出た。岩波から本出してる人だし、もともとバリバリの共産党員だったはずだし……

 いやあ、みんなちいせえちいせえ、そんなチンケな理由で門前払い食わせるようなオヤジじゃないですよ、網野さんってのは、と、口もとまで出かかったのをぐっと辛抱して、多少は面識もありますからあたしに交渉させてください、と言った。それで電話をかけることになった。

 正直、七分三分でダメかな、と思ってはいた。でも、つくる会網野善彦にレクチュアを請うってのは悪くないし、何より本気でこの先教科書ひとつこさえようとするならそれも絶対に必要なことのはず、という確信も同時にあった。引き受けてくれればよし、もしダメでも、つくる会、とそれに呼応し始めていた当時の世間の雰囲気に対して、網野さん自身がどういう風に思っているか、そのことを聞き出すいいきっかけになる――そう思っていた。

 だから、電話をかけた。かけて、長電話になって、用件自体は結局断られた。けれども、つくる会にあたしが首突っ込んでいることについて、何かものすごく気になっているらしいこと、それだけはよくわかった。わかって、そのわかった分だけ安心もした。そうか、やっぱり気になってるんだ、と。



●●●

 あたらしい歴史教科書をつくる会、に対する逆風は、当時すさまじいものがあった。

 いわゆる論壇、ジャーナリズム界隈は言うまでもなく、学界となるとほぼ完璧、まるで申し合わせたように見事なまでに総スカン。まして、歴史学の表看板掲げた人たちなどからはもう問答無用で罵倒が噴出していた。そういう過剰な反応自体が、民俗学者としては興味深かったりしたのだけれども、真面目な話、彼らそれまでの「インテリ」カルチュアに安住する者たちの側は、言説の表層のところでそれまでの右翼/左翼、保守/リベラル、といった図式を引きずっていたのは確かとは言え、そればかりでなく、彼ら彼女らのそのような反応のさらに根っこのところには、「保守・右翼=アタマが悪い」という隠微な差別意識、ある種のインテリ特有の権威主義がねっとりとまつわりついていることを、あたしゃ強く感じていた。

 実際、つくる会を批判すること、が何かものを考えていることの証明、自分のアタマの良さのアリバイ、といった趣きは、若い世代になるほど露骨にあったし、同様に、それに対抗する「保守」の側が、ともすれば「朝日・岩波・NHK」といった図式で乱暴にひとくくりにして敵視しがちなことの不自由も、つくる会を語る言説の表層とは別に、その奥に仕込まれているそういうある種の文化的な差別構造に反応してのこと、という側面もまた確かにあった。その意味で、近年インターネット上で取り沙汰される「ウヨ/サヨ」という図式にしても、既成の「右翼/左翼」図式に加えて、さらにそれまで表だって言葉にされてきにくかったそういう文化的な差別構造までが反映されたもの言いになっているのだと思う。

 そんな中、網野さんはちょうど『日本の歴史を読み直す』(筑摩書房)を出した頃で、つくる会などとはひとまず違う方向から、それまでの「日本」、それまであたりまえとされてきた歴史の相対化を、いわゆる知識人よりもさらに一般の、それこそ世間に向けて発信するようになっていた。当時、はっきりそう言明されることはまだそれほどなかったけれども、当初の予想を超えた広がりと勢いを持ち始めていたつくる会に代表される「保守反動」の側に対抗できる頼もしい対抗馬として、ジャーナリズムも含めた既存の学界、論壇の側から「網野善彦」がかつぎ出され始めらていたことは、当時の状況からして明らかだった。

 けれども、マルクス主義史観全盛の下、観念的な大文字の世界観ですべてを取り仕切ろうとしてきた戦後の講壇歴史学に対する根本的な懐疑から学界を「おりて」、史料に対する微細な読みと、柳田国男というよりも渋沢敬三系の民俗学的な目線を身体ごと自分のものにすることによって、ひたすら自分の信じる歴史の〈リアル〉を追い求めてきた網野さんと、同じくそのようなそれまでの“公”と化し、学校を培養基にマスメディアやジャーナリズムとも複合しながら、それら情報エスタブリッシュメントの言説ともなってきた「戦後」の「歴史」に対する異議申し立て、という意味を持っていたつくる会の運動との間に、メディアの舞台で割り振られているほどの距離や差異があるとは、あたしには思えなかった。だから、つくる会に対して網野善彦が実際にどういうスタンスをとろうとするのか、それは個人的にも知りたいところだった。


●●●●

 いまからすると自分でも考えられないことなのだが、その頃のあたしには、国立歴史民俗博物館助教授、というもっともらしい肩書きがくっついていた。

 国立の、それも実態はともかく、ひとまず歴史についての専門機関という看板背負ったそんな肩書きのまま、あの運動に関わることは、公私ともどもしちめんどくさい軋轢にさらされることは火を見るよりも明らかだった。実際、網野さんに電話をしたその時点では、まだはっきり決めてはいなかったけれども、ああ、こりゃいずれ腹くくって出処進退明らかにしとかないと収拾つかないことになるな、という予感はすでに持っていた。ちなみに、歴博の館長だった石井進さん(ああ、この人もすでに故人だ)に、書式も何もわからないまま、とにかく辞めます、ということだけをしたためて「辞表」を館長室に直接持ってゆき、どっちにせよこれじゃ受け取れないから事務方に書き方を習ってきなさい、と、デキの悪い小学生並みの諭され方をされ、ついでにあの能面の翁のような得体の知れない笑顔でさらっと「僕もそのうちこういうものの書き方を、あなたに習わなきゃならなくなるでしょうから」と言われてこっちが面食らったりしたのは、それからすぐ後、その年の暮れだった。

 実はそれよりさらに前、まだ巣鴨にあった東京外語大の隅っこで助手をしていた時に、歴博から来いと言われて、このまま万年助手でいいや、と勝手に決めていた人生に青天の霹靂、柄にもなくおのが身の振り方にひとり悩んでいた時にも、白状する、網野さんにはそっと相談していた。93年の、これも夏ごろのことだった。

いわゆる学問世間じゃ捨て育ち、制度がらみの人並みの師弟関係などはないに等しいあたしだから、こういう時に相談できる人など限られている。厚かましいと思いつつ、実はこんな話があるんですけど、と打ち明けたあたしに対して網野さんは、「ご存じのように僕は歴博とはいろいろ因縁があるから、どうこう言えないけれども……」と苦笑まじりに前置きしながら、こう言ってくれた。

 いまの民俗学の状況や歴博の内部事情などを考えると、君みたいな人を呼ぶというのはかなり異例のことだと思う、あれだけ図体の大きい組織だし、亡くなった坪井洋文さんの言いぐさじゃないが、「天領」の共同利用機関だから、大学にいるようなわけにはいかないだろうけれども、でも、向こうもそれだけ切羽詰まってのことなんだろうし、何より、君のような悪党がああいうところに行って大暴れするのは僕も見てみたい気がする。大変だろうけど、行ってひとつ思う存分暴れてみなよ――そう言われたのだと勝手に解釈した。もっと端折って言えば、「死んでこい」ってことだな、こりゃ、と。

 その背中の押し方、ことばへの力の込め方に、窮屈な大学渡世で身体の硬直しちまったそこらの学者などとはまるで違う、身をもって「自由」を獲得してきた知性、おのれの身ひとつで〈リアル〉をかたちにしてきた言葉本来の意味での、そう、民俗学的身体の気配があった。師弟でも、上司と部下でも、もしかしたら先輩後輩でさえもない、何というか、活字を読み、人とまじわり、世間を意識しながら学問をすることでおのれの「自由」を獲得することができる、そんなささやかな信心一発でつながった仲間同士、いわば戦友間の身体張ったソリダリティの気配。

 「インテリ」だの「知識人」だのといううすら恥ずかしいイキモノは、もしかしたらそういうソリダリティを介して初めて、かろうじてまっとうに肉化でき得る可能性を獲得できる、ことの本質としてそういうたよりない存在なのかも知れない。そしてそれは、世間での世渡り、身すぎ世すぎがどうであれ、文字を読み、ものを考える、そういう営みの中でうっかりと編み上げられてきてしまった「自分」を抱え込んでしまった者同士の静かな信頼、うわずらぬ交感、いや、敢えて言挙げしちまえばおそらく義侠心なんてものまでももろともにひっくるめた何ものか、を媒介にして初めて、あり得ない夢のようにはかなく立ち現れる。

 だからこそ、なのだ。

 あの世代にしては大柄な図体にどんぐりまなこ、興至れば、うほほほほ、と口すぼめて笑ってみせる笑顔に、小さな研究会や何かの集まりなどで接するたびに、なんだか夢路いとし師匠みてえだな、とあたしゃひそかに思いつつ、すでにそこら中でほめそやされていたような文脈でのエラい歴史学者、近寄りがたい碩学、なんて感じたことは、申し訳ない、一度たりともない。だから「網野先生」なんて呼び方も金輪際しなかったし、何よりする気にならなかった。ただそういう種類の「自由」を、身体張って求めようとしてきたわがままオヤジ、おのれの信じる学問にそういう風に精進することで立派に「自由」になれることを期せずして体現してくれていた知性のひとり、としてだけ、あたしゃ網野さんに接してきた。

 その御仁が「死んでこい」と言うのだから、しゃあねえ、こりゃ火事場に飛び込むしかないわな。

 で、眼をつぶって歴博に飛び込んだその結果、なんだかんだのめぐりあわせで「つくる会」に首突っ込むことにまでなったのは、網野さんにとっては予想外だったかも知れない。「実はお願いが…」と切り出したあたしの用件をさえぎるようにして、「いや、僕の方こそ君に会って直接尋ねたいことがあるんだ」とたたみかけてきたあの電話のあの調子は、たとえば、そうだな、たまに駄菓子のひとつもやって頭をなでて目をかけていた親戚筋の悪童が、気がついたら予期せぬ悪さをしでかし始めているらしい、何かそういう感じ。いつになく早口でせきこむように電話口で話かけてくる網野さんのそのたたずまいに、ちょっぴり申し訳ない、と思いながら、なんかくすぐったいような微笑ましさも同時に感じていた。

 あのね、網野さん、それはあなたが身体ごと示しUてくれていた「自由」、あなたがあの時に背中押してくれたことの必然だったかも知れませんよ――そう言いたいところはあったのだ。つくる会に関わるようになったのも、決していきなり、なんかじゃないですよ、と電話口で言いかけた理由というのも、実はそういうことだったりしたのだ。


 思えば結局、網野さんと直接言葉をかわしたのはあれが最後、だった。

 一度会って話をしよう、どうしてつくる会に関わるようになったのか、その理由もゆっくり聞かせて欲しい、というその約束も果たせぬままに、日々の雑事にとりまぎれていった。

 その前後から、歴史教科書問題に対する網野さんのスタンスがメディアを介して表に出るようになっていた。というか、つくる会が引きずり出した歴史教科書問題を軸にした論壇、ジャーナリズム、出版界隈での七転八倒の中に、網野善彦も本格的に巻き込まれていった、という方が正確だったと思う。何より、本来は絶対にニンではない近・現代史にまでうかつにも言及し、つくる会などがあたらしい歴史教科書をつくると言うのなら、自分がもっとまともな通史を書いてやる、と言わんばかりの勢いで、岩波新書の「日本社会の歴史」三部作(と言うほどの大層なシロモノでも正直、ないと思うが)などを続々と刊行し、自ら「こわれたレコード」と自嘲しながら請われるままに大向こう相手の本を出してゆくようになる、そんな「老い」のありさまは、たとえば晩年の柳田国男が高度経済成長のとば口で性急に自分の「日本」を語ろうとし始め、『海上の道』というおのれの浪漫主義全開な、その意味では正しくブンガクな、けれども学問的には粗っぽさ丸出し、厳しい言い方をすれば勇み足だらけな、しかしまただからこそ読みものとしては魅力的な大著をひり出した、そんな民俗学的知性にとっての「老い」のルーティンとも、あたしの眼にはどこか重なって見えてもいた。

 そのうちに、網野さん、肺ガンらしいよ、という話を風の噂に耳にした。ああ、やっぱり、と思った。何かに駆り立てられるようにあんな「啓蒙」系の本を立て続けに出してゆくのには、絶対何か理由がある。たとえ本人がそうと意識していなくても、身体の方は敏感に察知していたりする。その程度に、知性の「老い」というやつは因果なものらしい。

 だからこの二月、訃報に接した時も、あたし個人としてはそれほどの衝撃はなかった。ただ、そのような「老い」に駆り立てた理由の側に、片棒担ぐ立場にいたことについて、会ってゆっくり話をする機会をとうとう持てなかった、そのことについての前向きな後悔だけを自分の中で、ひとりそっとかみしめた、まずはそれだけだ。


○●

 網野善彦が亡くなってから、都内の大型書店では軒並みフェアが行なわれた。

 いわゆる文科系の学問、出版業界界隈で「人文書」とひとしなみに呼ばれてきたような分野がいまや決定的に棚落ちして、その市場を最終的に失いつつあるこの時期に、そのような追悼フェアが大々的に行なわれるような書き手は、もしかしたら網野善彦が最後かも知れない。

 たとえば、丸山真男が死んだ後もそんなフェアはほとんどなかったし、吉本隆明だってこの世を去ったとしてももうそこまでのショックは市場に与えられないだろう。何より、彼らの仕事が輝いていた時期があったとしても、それはすでに過去のこと。活字メディアがあたりまえに“エラいもの”とされ、文科系の教養が威風堂々、ご威光を保ち、ましてインターネットなどはまだ影も形もない、そんな〈いま・ここ〉とは情報環境がまるで違っていた正しく「むかし」のことだ。これから先、近い将来に、もし亡くなったとして書店でここまでの規模でのフェアが開かれ得る「人文書」の書き手というのは、そうだな、せいぜい山口昌男立花隆くらいのものじゃないだろうか。

 書店だけでもない。未だ存続しているのが謎な書評紙の類や、同じく市場的にはほとんど存在意義を喪失している文芸誌などでも追悼文が掲載されていたし、それらの系列のメディアのいちばん上澄みとして、新聞の文化欄、学芸欄でもちょっとした特集がしつらえられていた。体調がよくないと伝えられてしばらくたっていたから、通信社配信のものも含めて「予定稿」として準備されていたものもあったはずだが、何にせよ、そういう「人文書」に対応する文科系のメディア系列がにわかに発熱し、反応しているのが明らかで、そのこと自体、網野善彦という存在が大学や学問界隈のみならず、出版・ジャーナリズムも含めた世間にとってどういう意味をもっていたのか、を問わず語りに語っていた。

 「読書人」という人種がある程度、はっきりと想定できるかたちと規模とで読書市場に存在し得たのは、いつ頃までだったのだろう。いずれそういう「読書人」にとってのたしなみ、読んでおくべき好ましい本として、網野善彦の著書は受け入れられてきていた。それは「人文書」のジャンル、文科系と呼ばれてきたある種の〈知〉を補助線として成り立つ現象でもあったのだと思う。

 そう、〈知〉の80年代状況、「ニューアカデミズム」だの「ポストモダン」だのといった意匠と共にいたずらに盛り上がった当時のあの雰囲気とは、そのような「人文書」をよりどころにしていた文科系の教養に舞い降りた、言わば“ええじゃないか”のようなものだった。

 歴史学文化人類学、考古学に哲学、文学、思想史、さらには不肖、民俗学なども恥ずかしながら末席に居流れ、書店ならば「人文書」のコーナー、大学ならば文学部とその周辺にばらまかれているような、理工系は言わずもがな、同じ文科系とて経済学や政治学、法学に経営学といった分野に比べれば明らかに“役立たず”と認識されていたそれらの領域が、まさにその“役立たず”であることに開き直って一気にはじけることになった。それは、「ポストモダン」も「ニューアカ」も、高度経済成長によって蓄積された「豊かさ」が社会の下部構造、日々の具体的な暮らしの局面においてだけでなく、思想や言論の水準にもようやく影響を与え始めた、そのことの表現だった。現実政治において自民党一党支配が崩壊し、現実の政治の局面で「五五年体制の終焉」が言われるようになるまでにはさらに数年。いずれそういう「戦後」のパラダイムが社会のさまざまな水準で別の局面にゆっくりと移行してゆく過程での、まさに“ええじゃないか”のような祝祭的熱狂。

 そんな同時代の空気の中で、網野善彦もまた、にわかに活気を帯び始めていた「人文書」市場の優れた商品として市場に登場し、「読書人」たちに読まれていった。網野善彦に限ったことではない。思想や言論が活字由来の幸せな共同体の内側でまどろんでいられた時代ならばいざ知らず、少なくとも70年代以降、「豊かさ」を達成してしまってからこっちの日本語の版図での知的表出については、そういう〈知〉の消費財としての側面を欠落させたままでは、どのような「評価」ももはやあり得ないはずなのだ。


○●●

 一時期、網野善彦の本がいちばんよく売れるのは、実は霞が関の官庁街である、という話が、まことしやかに語られていたことがある。半ば都市伝説かも知れないと思いつつ、ああ、そうかも知れない、と感じる程度に、その話には真実味があった。

 同時に、大学の歴史学の講座の研究室では、網野善彦の本は読んではいけないものになっている、ということも言われていた。大学院生が網野の本を引用したら、そんなもの引いたら修士論文を通してもらえないぞ、と “忠告” された、という話もあった。一時期の山口昌男がまさに全く同じ語られ方をされていたのを、あたしゃ実際に聞き知っているから、これまたひとつのフォークロア、なのだろうけれども、それでも、そのように語られてしまうことの意味、というのもまた同時にある。

 後者はともかく、前者の、官公庁界隈でよく売れた、という話の方は、当時、網野さんのまわりにいた編集者たちに尋ねてみても、決して嘘ではなかったらしい。網野さん自身、90年代にさしかかるあたりから、官庁筋からの講演依頼が目立つようになってきていた、とも。だとしたら、90年代を通して同時代の重要な思想的モティーフになっていった「歴史の見直し」というやつも、メディアの表層とはまた別に、そのように見えないところでの同時代の“気分”の底流があったということだ。

 それまでの歴史学の枠組みのルーティンで語られる「日本」、「戦後」の枠組みの内側で生成されてきた“とりあえずそういうことにしておくのが正しい”とされてきたような「日本」が、もうそのままでは役立たずになっていることが、思想だの学問だのと関係なく日々を暮らす普通の人たちにとってまでも、素朴な生活感覚としてうすうす感じ取られるようになってきていた。

 けれども、そのような流れを「右傾化」とだけ解釈したがる向きが考えがちなように、何も絵に描いたような“保守反動”のヘンな連中が突如として日本に増殖したわけではないし、国民の多くがそんな厄介な思想沙汰に関心を持つようになったわけでもない。まして、ネットやマンガに影響された馬鹿な若い世代が軽挙妄動したわけでもない。

 ゆっくりと、しかし確実に、誰もが無関係でいられないような速度と浸透力とで、時代は変わってゆく。人が棲む社会が「変わる」とは、いつの時代もきっとそういうことだ。

 その当時の網野読者たちというのは、おそらくそういう「人文書」の「読書人」の中核だったはずだ。たとえば、履歴書の「趣味」の欄に「読書」と書くことが単なる約束ごとではない、ほんとに本が好きで、活字を読むことで自己形成をしてきてしまった知性の群れ。「網野史学」を支えたのはそんな読者たちだった。

 四十年以上前、六〇年代の始めに日本にやってきたアメリカの社会学者デビッド・リースマンは、都市圏の学生はともかく、地方の労働者や農民たち(もちろん実態としては、ある種の、と限定つきだったろうが)までもが自分の本(当時、翻訳されて広く読まれていた『孤独な群衆』)を読んでいて熱心に質問してくることに素朴に驚いていた。そのようにおのが生活と直接関わらない、“役に立たない”はずの教養にうっかりと魅きつけられる人たちを、それまでとは比べものにならない規模で大量に生んだのが、高度経済成長の「豊かさ」に他ならなかった。それから二十年ばかり後、網野善彦を熱心に読んだ人たちというのは、かつてそんなリースマンを驚かせた無名の「知性」、にわかに増殖し始めた草莽「読書人」たちの末裔だったのだと思う。


○●●●

 「でもね、網野さんの名前が一般の読者にほんとに知られるようになったのは、むしろ晩年なんだよね」

 網野善彦のまわりで永年仕事をしてきた、それこそ折り目正しい「人文書」編集者のひとりはそう言う。

 70年代後半からぼつぼつと、東大出版会や岩波などから、それこそ箱入り、パラフィン紙のカバーのかかった正しい専門書を出し始めた網野さんは、80年代に入ってから、平凡社小学館、さらにはもっとささやかで誠実な版元から、少しは一般の「人文書」市場に向けた本を書き始めるようになる。

 「僕は啓蒙的なものは書きません、って言って、それまではそういう注文を断ってた人なんだけどね。変わったのは、名古屋(大学)から東京に出てきた頃からかなあ。短大生(神奈川大学短期大学部)に講義しなきゃならなくなって、自分の言葉がそのままじゃ通じないことに気づいて、普通の人にわかるように“伝える”ことに目覚めたみたいだったね」

 箱入りパラフィン紙ぐるみのいかつい専門書だけがまっとうな本、という感覚からすれば、平凡社の単行本でも十分に「啓蒙的」だったはずだ。そして、「網野史学」が狭い学界にだけ向けられた専門書のパッケージングから、「人文書」の読書市場=「読書人」たちに注目されるきっかけになるようになっていったそれら著作の背景には、同時に彼ら「人文書」に特化した編集者たちがいた。世代にして、いま四十代後半から五十代以上。当時はまだ三十代そこそこで、彼らは網野さんのそれらの仕事を世に出す手伝いをしていた。それ自体は網野善彦というひとりの研究者のものに他ならなかった「網野史学」を、同時代思想として流通させてゆく際に、重要なコンバーターの役割を果たしたのが彼らだった。

 「いくら売れたと言っても、80年代の著作はせいぜい一万部、よく売れても二万部までだったはずだよ。もちろん、当時の読書市場での部数だけど、普通の人に名前が知られるほどじゃなかった。講演も多かったけど、でもだからって、テレビなんかにバンバン出るような人じゃなかったし。やっぱり“学者”だったってことなんだよ」

 『蒙古襲来』『無縁・公界・楽』『異形の王権』……「網野史学」が学界のみならずジャーナリズムを巻き込んで「読書人」たち――活字を一次メディアとして自意識形成してしまった「知性」の群れを瞠目させた一連の仕事は、しかし、“売れた”としてもその程度、「人文書」の文科系教養に依拠した層に対して、だったということらしい。それに対して90年代、筑摩書房の「日本の歴史を読み直す」や岩波新書の「日本社会の歴史」はいずれも数十万部と言われる正真正銘のベストセラーになっている。その間、わずか十年あまり。だが、その“落差”の意味は、しかし網野さん自身の内側でどのように意識されていたのだろうか。晩年、何かに駆り立てられるように大文字の「日本」を語ろうとしたあの大童とは、「戦後」の終焉があらゆる局面で次々とあらわになっていった90年代状況に、網野さん自身も、そして「ポストモダン」な80年代状況においてこそ立ち上がってきた「網野史学」もまた、巻き込まれざるを得なかったということなのだと思う。

 ほどいて言えばそれは、活字が未だ活字として自立して情報系の上位に位置しているという約束ごとが、ある程度の実態としても、そしてまたイデオロギー=幻想としても成り立ち得ていた最後の時期から、それが解体され、ひとつ異なる情報環境へと時代が移行してゆく過渡期に、“売れる”知的商品として消費されてゆくサイクルの真っ只中に図らずも位置したひとりが網野善彦だった、ということでもあるだろう。「網野史学」とはその過渡期をまたがざるを得なかった文科系の学問の宿命の、おそらくは最も輪郭確かな表現のひとつである。だから歴史学以下、それぞれの学問世間でのローカルルールでの正当性や評価うんぬんでだけ「網野史学」をとらえようとする態度自体、まさに「戦後」の内側から未だ逃れられていないことを裏返しに証明している。

 確認しておこう。そういう〈知〉の80年代状況、そしてその後90年代にかけての出版やジャーナリズムも含めたメディアの変動、まさに「戦後」の終焉の微細な過程から一本、くっきりと補助線を引いておかないことには、網野善彦がどのように読まれ、どのように同時代の知的版図に影響を与えていったのか、についての穏当な解釈は困難になる。「網野史学」というもの言いも、そのような視点を介して初めて未来に役に立つものになり得る。ジャーナリズムの都合でだけ「リベラル」史観の旗手、「右傾化」の風潮に歯止めをかける「良心的」な文科系的教養の守護神、といった装いで勝手にうっとりと語られるのは、網野さん自身にとってもはなはだ迷惑なことのはずだし、何より、彼が望んだはずの「自由」の志に最も反することだと思う。


○●●●●

 だから、「網野史学」の「評価」というのは、いまのところそういう “商品” としての網野善彦の部分をうまく対象化できないまま、おおむね不幸な当惑の中にある。

 まだ東京外語大にいた92年、仕事で網野さんにインタヴューする機会があった。その時、彼は自分がいかに網野善彦になっていったか、について淡々と語ってくれた。つきあいはあっても、まとめてそういう話を正面から尋ねる機会はそれまでなかったから、あたしとしてもそれは仕事というより、個人的にとても愉しい経験だった。その時の対話をまとめた原稿に、あたしゃこんなコメントを添えている。

 「あのね、網野さんがホッホッホと笑うときは何かをごまかそうとするときだからね」 阿部勤也さんの言である。この世代の知性の、親友同士のジョーキング・リレーションというのは、他人が聞いていても心地よいことが案外多い。それはきっと「知性」というものを獲得してしまった同時代に対する、ある風通しのよい信頼を前提にしたものなのだろう。たとえば30年後、ジャンクフードを詰め込まれるような不用意さで「知性」を食いちらすことを宿命づけられてきたわが世代の人間は、閉じた身内ぼめではないあのような親密さの表現を、あのようにこともなげにやってのけることが、はたしてできるだろうか。

――『別冊宝島167/学問の仕事場』JICC出版局 1992年

 30年も必要なかった。それからわずか10年ちょっと。閉じた身内ぼめ、どころか、自分たちがどういう同時代、どういう大きな流れの中に置かれているのかさえも察知できなくなっちまったひからびた「知性」ばかりが、もっともらしく「網野史学」を云々し、「継ぐ」だの「乗り越える」だのと右往左往している。

 狭い歴史学ローカルでの「評価」ならば、それまでの良くて敬遠、悪く言えば政治的黙殺に近い扱いから風向きが変わり、亡くなる前あたりから盛んになってきてはいた。明らかに『国民の歴史』を意識していたフシのある『「日本」とは何か』(講談社 『日本の歴史』シリーズの00巻として上梓)の最終章などでも自身触れているように、歴史学関係の学会中枢部分においてさえも、相次いで「戦後歴史学」を「総括」する動きが出てきていて、その動きに呼応して「網野史学」の「評価」もまた、それまでになく高いものになり始めていた。文科系の学問自身が、ようやく「戦後」のパラダイムの内側にあった自らを自省し始めた、と、ひとまず言えるのだが、しかしそのような動きに呼応することでしか「網野史学」に対する「評価」の視線を投げかけられなかった構造的不自由の意味について、当事者たちの多くはほとんど気づいていないか、あるいは気づかないふりをしている。そして、制度としての歴史学は、文科系の学問は、これまでと同じように不自由のうちにいぎたなく延命してゆく。

 「人文書」商品としての「網野史学」の最大の魅力とは、思いっきりおおざっぱにくくってしまえば、「既成概念の解体」だった。もっと下世話なもの言いを擁するならば、大文字の「歴史」に対する最上級の、そして渾身のツッコミ、だった。

 その意味で、価値相対主義の嵐が吹き荒れた「ポストモダン」な80年代状況との親和性が高かったのも半ば必然だし、またそれは、微細な個別具体の水準にとどまり続けることで大文字のイデオロギーの側を一点突破で撃ち抜いてゆく、あの民俗学的身体に宿る〈知〉の習い性にも規定されていた。襖の裏貼りや反故の山から、時には偽書とされるものまで含めて全てを「史料」としてとらえなおし、海や河川、市場や流通、制度のくびきからはずれざるを得ない異形の者たちの側から、「歴史」の〈あたりまえ〉を別の現われに変えてゆく営み。こういう言挙げが許されるのだとしたら、学問がブンガクの側に、西欧由来の借り物の文科系的教養が日本的な脈絡での自生のヒューマニティーズの方へと、みずみずしく変貌をとげてゆこうとする際に必ず垣間見せてくれる野放図な「自由」を、「網野史学」は体現していた。

 けれども、だからこそ、なのだ。

 それは決して「体系」になじまない。徹底的に一人称、わがまま勝手で稀有な「自由」が、現世のさまざまな不自由と引き換えにかろうじてはらみ得た〈知〉の営みであって、しかしそれ以上でも以下でもない。学会や大学の講座で講じられ、制度に承認され、安定的に受け継がれてゆくようななにものか、とは本質的に異なる。まして、いわゆる教科書、大文字の“物語”の構築にそのまま直接寄与できるようなものでも、おそらくない。ことの良し悪しとはひとまず別に、本質的にそういうもの、なのだ。

 だが、いま、このタイミングで「網野史学」を「評価」しようとしている者のほとんどは、そのような「自由」のもたらす〈知〉とおのれの現在とをつきあわせる器量を欠いたままだ。歴史学にせよ何にせよ、そのような制度としての学問が未だ市場として存続できるかのような振る舞いで「網野史学」を取り扱い、そして、しかつめらしく評定し、時に重箱の隅をつつきまわしては、そこに宿ったなけなしの「自由」をおのれの間尺に切り縮めようと四苦八苦する。

 その意味で、歴史学者以下のいわゆる学者だけでなく、中沢新一あたりまでがそういう「評価」に参入しているのは象徴的だ。『すばる』では「僕の叔父さん」という人を食ったタイトルでの「追悼」沙汰の連載が始まり、それだけでもまだ飽き足らないのか今度は赤坂憲雄との対談本まで出した。しかも、タイトルが「網野善彦を継ぐ」。オウム真理教にうっかり関わってあっぱれ天下の思想犯、立場的には2.26事件での北一輝に等しい、というのはあたしの年来の持論だけれども、そんな思想的な大事件を巻き起こした顛末さえも未だきっちり清算していない、最低限おのれの世渡りの中でさえもごまかしたまんまの、あの中沢新一が、「歴史」の胸ぐらつかんでブンガクの側に引き寄せようとする、「網野史学」のその蛮勇一点において最もナイーヴに反応しているのは、当人がどこまで意識しているかどうかはともかく、ひとまずさすがとしか言いようがない。

 むしろ、彼の亡くなる一年足らず前に出た、中村政則と永原慶二の対談「歴史学は時代にどう向きあってきたか」(『週刊読書人』2003年5月9日)の中での、「網野史学」に対する評価などの方が、皮肉なことにあたし的にはしっくり響いたりする。

 共に講壇歴史学、大学の中の「歴史学」権力の中核に居すわってきた「戦後」的エスタブリッシュメントの典型だが、ここでのふたりの、とりわけ永原の「網野史学」への視線は、すでにご隠居に等しい立場という世代的なアドバンテージもあるにせよ、いまや断末魔の文科系アカデミズムに棲息する研究者としては、むしろこのような「評価」の方がひとまず誠実なものだと思う

 八〇年代の網野が、職人や移動民の自由民的な側面を強調し、その自由は天皇が保証していた、という枠組みで中世社会像を描きなおそうとしていたのに対して、九〇年代にはいって国民国家論批判が盛んになると、地方にいくつもの「国家」があった、と言い出し、次にそれが批判されると、東の国家と西の国家、という図式にスライドしてゆく、その転変について永原は指摘し、その背後に同時代の学界や論壇、ジャーナリズムまで含めた思想的な風潮との関わりがあることも、ある程度意識されている。「国家というものの幻想性を指摘し、民衆の自由を強調するのはいいのだけれど、分散は善、統合は悪では困る。どういう統合の仕方がという視角がないと近代は論じられない」(永原)「網野史学では通史は書けないし、教科書も書けないだろうと思うのです」(中村)という評価については、あたしも基本的に共有できる。と同時に、それはつくる会が一般読者に対するパイロット版として出した西尾幹二の『国民の歴史』についても、裏返しに言えることなのだ。

 「通史」の不可能、オーソドキシーの喪失――それは皮相な立ち位置の左右を問わず、「戦後」的状況から移行しつつある現在、いわゆる文科系の学問、それこそ「人文書」という表現で「読書人」を介して世間と連携してくることのできてきた〈知〉の領域がひとしく自分の問題として直面せざるを得ないアポリアに他ならない。

 その永原慶二もこの原稿を準備している最中、亡くなった。八十一歳。網野さんの享年が七六歳。旧制高校的知性の最後の世代がこのように現世を退場してゆく時期にさしかかっていることは、このところようやくあらわになってきた「戦後」の終わり方とも決して無関係ではない。「網野史学」が過渡期の情報環境において同時代の「読書人」たちとの連携においてあやうく体現してみせた日本出自のヒューマニティーズの手ざわりを〈それから先〉につなげてゆくためには、世代と知性のありようについて、そしてそれらの相互性の上に宿った「自由」について、いま、新たに姿を現わし始めている情報環境との関係において自前で方法化しようとする意志が必要なのだと思う。

 歴史学が自由になるためには、歴史を学ぼうとする者自身がまず自由にならなければならない――「網野史学」がニッポンのガクモンの〈いま・ここ〉に示してくれているのは、きっとそのことだ。

*1:『諸君!』(文藝春秋社) 掲載原稿