「貧乏」の変貌――深夜の消費、あたらしい家族

 深夜の郊外型ディスカウントショップに、出かけたことはありますか?

 店舗名だと、たとえば「ドンキホーテ」。略称「ドンキ」。こうこうとあかりのともった駐車場つきの大店舗は二十四時間、若い衆のたまり場と化していたりします。

 首都圏に限ったことでもない、その他の地方でもこのタイプの店は最近、増えていると思います。コンビニエンスストア、ではない。といって、いわゆる旧来のスーパーマーケット、でもない。業態としては明らかにディスカウントショップ。そのために店内の品物の配置はスーパーみたいな整然としたものではなく、まるで倉庫と見間違うばかりの雑然さです。衣料品の隣りに最新型の電化製品が、そしてその向かいにはクスリや食料品が、といった商品世界の約束ごとを無視した品揃えは、慣れない眼にはめまいがしますが、しかし常連客に言わせるとそれがまたいいのだとか。

 観察してみるとこのテの店の客層、単にそういう若い衆というだけでなく、男女ペア、それも小さな子どもを連れた組み合わせが結構目につきます。と言って、「家族連れ」でもない。分譲マンションや建売住宅がこれまで当たり前に想定してきたような定番の「家族」から、この「ドンキ」系店舗の常連はよくも悪くもずれています。また男女共に、タトゥー(入れ墨、ではない)をしている若い衆が街なかよりも高い確率で目立ちます。いずれこれまでの「家族」の手ざわりとは違う何ものか、があり、その何ものか、と、この「ドンキ」系店舗の雑然さとはある必然によって結びつけられている――うまく言えませんがそんな印象が強いのです。

 彼らの多くはクルマでやってきます。これら新しいタイプの深夜型ディスカウントショップに代表される店舗に収斂されるような「消費」のスタイルは、クルマと携帯とそこに規定されるいまどきの郊外型の暮らしの必然として生み出されたものらしい。けれども、狭い部屋の中にこれらディスカウントショップで買った“もの”がうっかりと増えてゆく――そういう日常、そういう暮らしのありようについて、うまく表現する言葉やもの言いをあたしたちはまだ持っていません。かつてならば確実に「貧乏」と呼ばれていたような内実が、しかし実態はそんなに「貧乏」ではないままに、ある種の美意識の変貌、日常意識の変形といったものをもたらしている気配。

 核家族を「家族」のモデルにして考えてきた「消費」のパラダイム自体が、どうやらここにきて最終的に変わりつつあるらしい。それは、昭和初年から根強く続いてきた“マイホーム”幻想の最終的な崩壊でもあり、高度経済成長の“豊かさ”がニッポンの大衆社会のすみずみにまでほんとうに浸透した、その結果なのだと思います。

 中古ながらクルマを持ち、携帯に月何万円も使い、頻繁に海外旅行に行き、「家族」で深夜のディスカウントショップに出かけ、居酒屋兼用の大型ファミレスでだらだらと団欒する「貧乏」――そういう「家族」、そういう新たな社会のユニットの「貧乏」について、つぶさに言葉にしてゆく必要を最近、あらためて強く感じ始めています。