パソコン入れました

必要に迫られてとうとう仕事場にパソコンを入れた。笑ってやって下さい。小さなノートパソコンでも、反・電脳主義者としては童貞破りの如き一大決心でありました。

ワープロと比べると本当に「重い」。いや、本体の重さのことでもないし、よく言われる「速さ」のことでもない。入力するキーの動きに反応してくれるその感じが、機械的というか物理的というか、何にせよそういう具体的な「力」に対応していない印象が奇妙なのだ。その手ざわりのなさと、画面の上で実際に実行されているバテレンの秘法に等しい尋常ならざる事態との落差が引き出す不思議な「重さ」の感覚。これはこれまで「便利」の一言で片づけられてきたような、機械テクノロジーのもたらす身体感覚の拡張の限度をひとつ超えた代物なのだとつくづく思う。

どういう理屈か知らないが、ソフトを立ち上げる時などに何かの拍子で数日前に開いたファイルの一部がパッと断片だけよぎったりすることもある。こういうのってこいつの中で脳ミソみたいに記憶がよみがえったりしてるんだろうか、やっぱりこりゃただの機械じゃない、勝手に暴走しやがったらおっかないぞ、などとどんどん“こわい考え”になってゆく。精神衛生上、はなはだよろしくない。

同じ機械でも、構造がシンプルな段階の「マシン」にはこういう違和感はないように思う。たとえば、長年使っているリコーのワープロなんて、たいてい手荒な使い方をし倒してきたけれども、けなげにもそれが原因でトラブったことはない。一般向けでないビジネス機のせいかメーカーのサポートがないに等しくて、消耗品から周辺機器までべらぼうに割高なものを買わされるのがつくづく業腹だが、もしもソフトだけ別売りしてくれるようなら、多少高くてもパソコンに組み込んで使いたいくらい身になじんじまってる。仕事の道具に対する信頼性ってのはそういうもんだ。

道具には道具の明快さがきっと必要なのだ。それを使っている自分の見てくれや格好をいちいちイメージしないと本当に買おうと思えないような道具は、きっとその人にとってはまだ必要のない、ちゃんと道具になれない“もの”なのだ。ブランド品にしてもパソコンにしても同じこと。そういうブランド品を着るワタシ、パソコンを使いこなすワタシ、という、結局は「ワタシ」の“おはなし”をつむぐダシにしかならない。そういう本末転倒の「ワタシ」のまつわり方があらわになっているからこそ、ブランド品に血道をあげるオバハンも、うつろな眼をして秋葉原をうろつく電脳漬けの若い衆も、同じくカッコ悪いのだと思う。

具体的で素朴な「必要」という最も美しく明快な理由を問われないまま買われる“もの”たちばかりが身の回りにあふれた「豊かさ」なんて、やっぱり貧乏なのだ。身についた「必要」によって“ものたちを制御してゆく知恵をそろそろ本気で取り戻そうとしないと、このとりとめない「豊かさ」から本当の「ライフ・スタイル」を作り出すことなんてできないままだ。