永井豪インタヴュー

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●今回は映画の実写版「デビルマン」がメインの話題なんですが、せっかくですから、まずは漫画の方からお話をうかがいます。


 永井さんは、これまでギャグ漫画、シリアス物、ヒーロー物、ヒロイン物等、かなり幅広いジャンルの漫画を描かれていると思うんですが、そんな中で、「デビルマン」というのは、どのような存在として位置づけられてますか?

永井 僕はもともと、ストーリー漫画を志望していたんですけれど、いろんな事情で、ギャグ漫画でデビューすることになってしまったんですね。しかも、「ハレンチ学園」という作品がヒットしたおかげで、ストーリー漫画を描かせてもらえる希望がなくなってしまった。そんな中で、何とか自分のストーリー漫画をしっかり確立したい、そういう想いで描いた作品が「デビルマン」なんです。ギャグだけだと漫画家として長くやれないんじゃないかという、切羽詰った気持ちもありましたし、何よりこれを成功させたら、ストーリー漫画の仕事がくるだろうというつもりだったんですよ。そういう意味で、それまでストーリー漫画をずっと描かせてもらえなかったいろんな想いを、たくさんぶち込んでありますので(笑)、それまで自分の中にあったストーリー漫画に対する思いみたいなものが、全部出てる作品じゃないかと思います。

●なるほど、漫画家永井豪にとっては起死回生というか、一大モデルチェンジのきっかけになる作品だった、と。

永井 そうですね。これをやらなければ、この先、ストーリー漫画の注文は絶対こないな、と思ってましたね。

●やっぱりそういうストーリー漫画を描かなきゃ、漫画家としてやっぱりダメなんじゃないか、っていう思いは、すごく強かったですか?

永井 そうですねえ……ギャグは、自分が描いてみるまで、ギャグの才能があるとは思わなかったので。描いてみたら次々でるから、「ああ、ギャグの才能もちょこっとはあったんだなぁ」と、自分では思うんですけれども、でも、当初は目指していたものはストーリー漫画だし、手塚先生の影響とか、石ノ森先生とか、あと白土三平先生の影響とかがすごく強かったものですから、できたらストーリー漫画をを描いていきたいなと思ってましたね。

 実は僕、ギャグ漫画って当時からそんなに読んでなかったんですよ。あんまり知らなかったから、逆にそれが、それまでのギャグのパターンと違うものを描くことになったんだと思うんです。それと、ギャグ漫画っていうのは、描いてるうちに自分のギャグっていうのが、だんだんわかってくるんですよね。自家中毒っていうかね。自分はここで、こういうことで笑うということがすごくわかってきて。そうするとそれに沿って作品を作るようになっちゃうんですよね。そうすると、もう自分では笑えないんだけど、かつてここで笑えたから、ということで作っちゃうみたいな、そういう自家中毒的な症状になってくるんで。それより、やっぱりストーリーのほうが、たくさんのテーマをぶち込めるし、笑いに集約しないですむということで……。もちろんギャグが入ってもかまわないけども、もっといろんなドラマ、テーマ、いろんなものを含めて、いろいろできるのがストーリー漫画だと思ってましたので、「デビルマン」をとにかく、社会というよりは、出版社に認めさせたいというね(笑)。

●認知してもらいたい、と。

永井 そう。それによって、永井豪って作家は、ギャグだけじゃなくて、いろんなストーリー漫画を描ける要素というものを持っているんだぞというのを、はっきりわからせなきゃいけないというのが、すごい強かった。

 僕のギャグにあるのは、海外の映画の、喜劇とか、そういうのの影響でしょうね。あと、落語が好きでね、やたら落語は聞いてましたんで、そういうのはベースになってるとは思います。特に艶笑落語とか好きだったりしたんで、廓に行く話とかたくさんありますよね。そういうの、好きで聞いてました。

●わははは、バレネタ好きだったとは。ちなみに、落語はレコードですか、ラジオですか?

永井 僕はラジオの時代で、ラジオが主でしたね。ときどき寄席に何回か行ったりとか。でも、当時お金がなかったから。ラジオがほとんどだったと思います。

 自分でギャグできるなと思ったきっかけになった作品というのは、昔、ジャン・ポール・ベルモンドの「リオの男」という映画がありまして、これはまったく喜劇と謳ってないんですけど、神父のジャン・ポール・ベルモンドが、ただ、さらわれた恋人を黙々と追っかけていくだけの映画で、何のセリフもなく、ほとんど無口で喋らないで、ただ追っかけていくだけの話なんだけど、パリの郊外から南米のブラジルのジャングルの奥地まで、恋人をさらった一団を追っかけていく中で、目の前で起きた、誘拐事件を目撃したために、どんどん遠くへ行ってしまうという話なんですけど、本人が真面目にやればやるほど、見てるほうは笑ってしまうという、その形というのは面白いなぁと思って。こういうストーリー色の強いかたちで、動きのあるストーリー展開であって、ギャグというのはできるもんなんだなというのがわかって、それが、自分もギャグ漫画が描けるかもしれないと思ったきっかけですね。


●漫画の「デビルマン」を描き始められたときに、特に意識されたことってありますか?

永井 基本的には、いきなりストーリー色を強く持っていくことに、読者の拒否反応というのが怖かった部分もあるし、今までギャグやってた人がいきなりこんなこと描いても見てくれないんじゃないか、と思いましたね。それと、アニメとの競合ということもあったので、どの程度ストーリー色というか、リアル色を強めるか、というのを匙加減しながら描いてたんですよね。だから当初はギャグもたくさん入れなきゃいけないかな、とか、エッチなイメージあるからその辺もサービスしなきゃいけないんじゃないかな、だから美樹ちゃんの入浴シーンはやっぱり必要かな、とか(笑)。そういうのを考えながら、少しずつ(ストーリー色を)強めていこうと思ったんですよね。

●版元とか編集のほうから、特にそういう注文はやっぱりあったんですか?

永井 それはないです。けっこう「ハレンチ学園」やった段階で、「この漫画家はもう……何か余計なこと言ってもダメだ」と思われてましたから(笑)

●ああ、ほっとけ、と(笑)。

永井 そう。ほっといたほうが暴走して、何かメチャクチャやるだろう、面白いのを描くだろう、というふうに見られてましたので。また、「こいつは言うこと聞かない奴だ」と思われてましたから野放しにしてくれましたね。それに担当さんは、僕のことをよく理解してくれている人だったので思う存分やらせてもらえましたね。

●確か、漫画の「デビルマン」の前に「魔王ダンテ」とか描かれてたじゃないですか。あの作品などは「デビルマン」の下敷きになってるように思うんですが、そのへんの経緯はどうだったんですか?

永井 子供のときにダンテの「神曲」とか、そういうのを読んで、地獄の世界とかを描いているのを面白いな、というぐらいには感じていたんですけれど、自分でテーマとして、それを思い切り出そうとは考えてなかったんですね。

 「魔王ダンテ」のときは、当時たくさん、こまかいギャグ漫画を描いて、小さいキャラクターばかり描いてたので、そのフラストレーションがすごくて(笑)、何か反対のでっかいやつを描いてみたいなという思い、それと「何描いてもいいから連載してくれ」と言われたときに、小さいコマでゴチャゴチャ描くのはもうイヤだという思いが強くて。それで、ゴジラみたいな怪獣ものをやっていいですか、と編集長に言ったら、「あ、やってください」と言われたので、当初は怪獣ものというかたちで考えていたんですけれど、これは、怪獣物のまんまではゴジラの二番煎じと思われておしまいになっちゃうなと思って、それで何か新しい、怪獣ものとは違う要素をテーマ的に入れなきゃいけないなと思ったとき思いついたのが、「神曲」で見た氷づけになってるサタンの姿だったんです。そのことを思い出して、「ああ、そうか」と。ああいう魔王を中心にすえたら、今までの怪獣ものと一線を画すことができるんじゃないか、と。深く考えたわけじゃないんですけど、描いていくうちに、何かそういうテーマが出てくるんじゃないかなぁ、と思って始めたのがあの「魔王ダンテ」だったわけなんです。それが「デビルマン」にまで昇華していくかたちになるとは自分でも予想してなかったんですけどね。、 その「魔王ダンテ」をみた、東映のプロデューサー、当時東映動画だったんですけれど、いまの東映アニメーションのプロデューサーさんがきて、「あれをもう少し、アメリカン・ヒーローみたいにならないか」ということで、「デビルマン」のテレビ・バージョンが始まったんです。それをこんど自分で漫画で描くことになったとき、普通のアメリカン・ヒーローじゃつまらないなということと、掲載誌が「少年マガジン」にお願いしちゃったんで、当時、「少年マガジン」は読者の年齢が高くって、大学生も読む漫画誌ということで売ってましたので、だったら大学生が読んでも納得いくヒーローにしなければいけないなと考えたとき、アメリカン・ヒーローみたいにパンツを履いたキャラクターじゃダメだろうということで、リアルな、毛むくじゃらみたいなのを考えて造形したのがデビルマンなんです。

●ああ、そういう経緯だったんですか。ただ、わりと読者的にというか、「デビルマン」に接した世代からすると、アニメのほうが印象強かったと思うんですけども。

永井 そうですね。だからアニメを見てから漫画を見て、「あれ? これ、ずいぶん違うじゃないか」っていうショックを受けた人が多かったと思うんですけどね。アニメのほうは、最初に言うと、こういうプロットで、こういうような展開でいきますというのを、一応ラインみたいなのを、脚本の辻(真先)さんと話し合って、「一応これで行ってください」ということでお願いしておいて、自分で裏切ったわけですから(笑)。

●ああ、そうか(笑)。でも、それはひどい話だなあ。

永井 ひどい話ですよね。だから、担当してたプロデューサーの人がね、「この飛鳥了って何ですか?」って(笑)。「こんな設定なかったじゃないか」、と。

●でも、どうなんですか? 本来のかたちとしては、永井先生としてはやっぱり、漫画の、紙の上のほうが本当の「デビルマン」という意識はありますか?

永井 う~ん……実際のところを言うと、アニメのときはそういうふうにお願いをしておいても、実際に描くとなったら足りないものがあるということに気がついちゃったんですよね。それは、ひとつには、「少年マガジン」で描くときに、読者層が、ちょっと年齢が高いなっていうことと、お茶の間のファンとは、やっぱりもうひとつ……このまんま行ったら、これは「マガジン」の読者が馬鹿にするだろうな、というふうに思ったことと、それから、こういう異常な世界に行くには案内役がどうしても欲しい、主人公を案内するキャラクターがいるな、ということで飛鳥了を設定したんですけどね。だから、飛鳥了の役割はその世界観の入り口までの言わば案内役で、デビルマンを変身させてそういう世界の中に連れ込んだらお終いだと思っていたもんで、ほんとは地下室のところで死ぬつもりでいたんですよね。そういう役割に設定して。それで次の回で死んだことにして物語を動かそうとしたら、全然進まないんだよね、話が(笑)。「これはマズイなぁ…」と、やっぱりこれは一回生き返らさないとどうしようもないな、と。それで病院で、実は生き残ってたんだという話からスタートしたらうまく動き出して……。そしたら、どんどんどんどん飛鳥了の役割というのが大きくなっていって、最終的にサタンにまで繋がっていってしまったんですけど。

●それはもうむしろ、永井さんの意図を超えたところで物語が動き出しちゃったわけですね。

永井 そうですね。それとキャラクターの強さだったと思うんですけれども。やっぱり自分で作ったキャラクターでも、運の弱い奴は死んじゃうんですよね(笑)。「あ、こいつ、こんな途中で逝っちゃった」みたいなのがある。早く死なすつもりでいたキャラクターなのに、もう最後まで生き残って、「おいおい、主人公より最後まで生き残っちゃったじゃないか」みたいなね。

●うはははは。でも、それは予期しないものでもあるし、でも、読者とのフィードバックみたいなのも当然あるわけですよね?

永井 それもあると思いますけどね。でも、読者のことは、そんなに見てなかったと思うんですね。やっぱり自分の中で、どんどんどんどん膨らんでいっちゃう……。「どうしてこんなにこのキャラクターが膨らんでいくんだろう」と、「こいつが動かないと話が進まないな」というようなのはずっとあった。そうすると、「彼は何者だろう」というふうに、自分の中で疑問が出てくるんですよね。そうすると、性格づけから何から、どんどん深くなっていっちゃうし、実はこの主人公を動かしているのは、操ってるのはこいつじゃないかというところにきちゃって、サタンというイメージが固まっていったんです。

●じゃあ、設計図ができていたというよりも、そういうふうにしてどんどん変わっていったという。

永井 変わっていきましたね。むしろ途中まで何も想定してなかったという……(笑)。

●ある意味、それだけ大きな世界観を提示しているっていう自覚は当時ありましたか?

永井 そこはないんですね。どんどんどんどんエスカレートしていくなかで、広がっていってしまったという。「どこまで広がるんだろうな」っていう、自分の中でも、恐ろしいものを感じながら広がっていっちゃったという感じですね。

●でも、それは楽しかったでしょ?(笑)

永井 楽しいですね。ひとつ行き詰まってひとつ広がると、バァツとまた世界が広がって、その快感ってすごいですね。「ああ、そうか」って、自分で理解して。「ああ、こういうことなんだ!」と理解できるとね。そういう段階が、ものすごく作品を作るうえで面白かったですね。


●そういう思い入れの強い作品が、今回、実写映画化されたわけですけど、映画化については?

永井 実写にしたいというのは昔から思っていたことなんです。というのは、自分はイメージするとき、漫画でイメージするというより、頭の中では実写の映像としてイメージしてることが多いものですから、いずれ自分の作品は実写化したいな、という気持ちがすごく強かったんです。ただ、昔は「デビルマン」というキャラクターは、実写では難しいだろうと思われていたんですけれども、今はいろんな特殊撮影やCGがここで発達したので実現可能になって、本当に嬉しく思っています。自分の頭の中にあったイメージが、ちゃんと外に、他の方が観られるようなかたちになったんだなぁ、と。もちろん、映画ですから2時間の中に漫画のすべてをぶち込むことはもちろん無理なわけで、漫画の原作とは微妙に違うところもあるわけですけれど、それでもテーマというか、「デビルマン」で自分が訴えたかったものは、しっかり表現してもらえてていて、非常に感動しました。

●撮影現場も何度も見学に行かれた、とうかがってますが。

永井 ええ。「大丈夫かなぁ……」と(笑)。CGとかは現場ではまだ見られないし、とにかく撮影現場だけでは、どこまでの作品に出来上がるんだろうかとか、ちょっと不安になったところもありましたけども、監督の熱心さとかはとても伝わってきました。僕もビデオの監督をしてますんでわかるんですけど、しついこいくらいに何度も撮り直している姿をみて、ああ、これは最終的に良いものになるんじゃないかなぁ、というふうな期待感は持ってました。

●ご自身も、神父役で今回ご出演ということですが。

永井 神父の役を振られて、「えーっ」と思ったんですけれども、衣装を着てみて、案外似合うかもしれないな、思ったりして(笑)。自分が映画に出て撮られることって、ほとんど少ないですから、とにかく映画に出られるだけで嬉しいというのがあるんですけどね(笑)。ただ、本当のことを言うと、撮影現場の雰囲気が大好きなので、とにかく楽しかったというほうが先で、自分の役がどうのこうのまでは考えが及ばかったという感じです。

●特に印象に残ったシーンというのは、あります?

永井 う~ん、そうですね。CGもすごかったんですけども、やっぱり牧村家の悲劇とかは、けっこう心に刺さったですねえ。それから、漫画にはない部分で、ミーコとかススム君が活躍してくれたので、それはすごく良かったなあ、と。牧村家のやさしさみたいなものを、その二人に愛情を注ぐことで表現できたっていうところが、すごくジーンときましたねえ。あと、やっぱりラストの……CGではありますけれど、天使と悪魔の戦いというか、サタンとデビルマンの戦いのシーンはすごい面白いし、人類が柱になってるああいうイメージというのは、本当に「デビルマン」の、「神曲」的なイメージというか、まさに天国と地獄みたいな、そういう雰囲気がすごく出ていて納得いく絵になってたと思います。

●でも、あのラスト・シーンは原作と違いますよね(笑)。あれには、何か注文とかっていうのは……。

永井 いや、特には出さなかったですけれど、あれによって、ひとつの希望が見えてよかったと思いますよ。僕の原作のままあそこで終わると本当に「人類滅亡じゃん」という……(笑)。

● まあねえ、ミもフタもないというか……。

永井 救いがないですからね(笑)。だから、映画ではあの二人に未来を託してくれたので、嬉しかったですね。

●ああ。そこはやっぱり漫画に「児童漫画」って夢のあった世代の作者の倫理なんですかね。子供のために良いものを描こうというモチベーションを、おそらく永井さんの世代とか、もうちょっと上の世代の漫画家の方とか、すごく多かったと思うんですよ。今でもそれは、先生のなかでお持ちですか?

永井 あるんでしょうね。 ただ僕の場合は、僕より上の世代と若干ちがうのは、子供を単に「子供」と見てなくて、子供というのは明日には大人になる、大人の予備軍だというふうに、常に見ているんです。そういう意味で、大人になったら子供の気持ちというのはひとつの区切りで見てしまうんですけれど、そうじゃなくて、自分が子供でいたとき何を考えていたかな、と考えてみると、けっこう大人と対等のつもりでいたんですよね。みんな、子供のときは「早く大人になろう」とか、「大人になったらもっといろんなことができるんじゃないか」とか、そういうのも含めて、もっと面白い世界があるんじゃないかとかね。そういうのを常に求めていましたから、大人予備軍としての子供ということでは、僕は、エッチなこととかね、暴力的なこともけっこう子供だって見ていいんだということで描きますけど、それは、そういうものを一切を与えちゃいけないという考え方では、その子が大人になったときに、世の中の現実との違いに愕然としてしまうだろう、という懸念があるからなんですね。あまりに免疫力がなくて、逆におかしくなっちゃうだろうな、と。それよりも、そういう大人の社会の毒というのは、小さい時から少しずつ与えてゆけば薬になるし、それによって対応法もどんどんどんどん自分のなかに出てくるし、自分と社会の関わりというのも、すごくわかるようになるし、社会とどう折り合いをつけていくかということも、つくっていけるんですけれど、無菌状態でいきなり社会の中にポンと出されたら、もうショックでね、「え-、オトナってこんなヒドいことするの」とか(笑)、「こんなふうに戦わなきゃいけないの」とかね、そういうことでメゲちゃう人が多いと思うんです。だから僕は常に、子供は子供として見るんじゃなくて……子供として一生いられるわけじゃないんですから、やがて出ていかなければならない、子供の社会から飛び出していかなければいけないということで、そのための準備期間だと思ってますね。だから大人の毒を少しずつ与えられるようにしようと、常にそういうふうに考えて描いてます。

 ひとつには、白土三平先生の作品というのは、貸本漫画で言うと、当時わりと一般書に入ってこれなかったんですけど、それも、僕も中学ぐらいまでは悪い漫画だと思ってたんですけれど、それを読んだときに、歴史の真実みたいなものをするどく描いているわけで、「こんなヒドいことが戦国時代にはあったんだ」というようなかたちで提示されてるから、そのとき「すごい、人間ってここまでやるのか」とか、「ここまで残酷なのか」とか、そういうものをすごく勉強したわけなんで、そういうのは、自分も読者に与えなければいけないんじゃないかなというふうに思ってます。

●やっぱり、ミもフタももない話のまんまじゃ終われないというか……。

永井 そうですね。やっぱり映画って、観客が出てくるときに何か「はぁ~っ……」って落ち込んで出てくるんじゃ、あんまりかなと思いますし(笑)、そこに希望があったというところで、いいんじゃないかなぁと思いましたね。


●CGなどの発達によって映画化が可能になったというお話があったんですけれども、「デビルマン」の造形は寺田克也さんがデザインで入ってらして、映画になって、今まで二次元だったデビルマンというものを、三次元のデビルマンをご覧になって、その造形に対する印象はいかがですか?

永井 僕は寺田さんの絵がもともと好きだし、またその他のキャラクターをやってくださった衣谷(透)さんも好きなので、何の違和感もないんです。とにかくカッコイイなぁという感じです(笑)。昔、僕が三十年前に描いたときには、ここまでリアルっぽく描くと、逆に読者がついてこれないんじゃないかという気持ちもあったんですけれども、今だったらこれぐらい造形しなくちゃいけないんだろうなというふうには思いますので、このデビルマンは大好きです。

●今回、このデビルマンの造形もすごいなぁと圧倒されるんですが、シレーヌもかなりすごいですよねえ。漫画のころから、圧倒的なビジュアルデザインという感じなんですけれども、このイメージってどこから出てきたものなんですか。

永井 シレーヌは鳥の妖怪というか、もともとはセイレーンっていう妖精なんですね。普通に鳥のデザインを最初はしてみたんですけれど、何かつまらないなあ、と思って、とにかく当たり前なことを避けようと。羽根は背中から生えるものとか、手についてるものとか、そういうイメージをまず捨てようと思って、いろんなところに羽根を移してみて、「あ、頭にあるのが一番カッコイイなあ……」と思ってああなったんです。頭に羽根があるってこと自体考えられない……、いったい筋肉なんかどうなっているんだろうとか(笑)、そういうことを考えるとあれってありえないんですけれど、でも、それによって今までにない造形ができるなということで造ってみましたので……。あと、綺麗な女性で、白い羽根でというような天使的なイメージが、悪魔でいながら天使的なイメージもある、いい造形になったんじゃないかなと思います。今回は富永愛さんがやってくれてますが、綺麗ですよね(笑)。やっぱりシレーヌの格好って、女性は皆やってみたいんじゃないですか、一度は。男性の人気も高いですけれど、女性の人気もシレーヌって非常に高いですよね。

●今年は「デビルマン」「キューティーハニー」「けっこう仮面」と、永井さんの原作の映画化がすごく多くて、永井豪イヤー2004といった感じなんですが(笑)、それについてはいかがですか?

永井 「デビルマン」が映画化になったことと、僕の他の作品が一緒に映画化されてゆくというのも、やっぱりここで脚光を浴びたから、他の作品もどんどん引っ張られていってるというのはあると思います。ただ、作品的には「キューティーハニー」とか「けっこう仮面」のほうが先だったかもしれないけども、やっぱり、核には「デビルマン」という作品が動いたっていうことが大きいんじゃないかと。

 これは自分でもよくわからないんですけれども、世の中の流れとして、僕の作品の雰囲気みたいなものが、また必要な時代になってきているんじゃないかな、ということはあると思うんです。ひとつには、世界中全体がちょっとキナ臭くなって戦争なんかも多いですし、日本も、昔だったら、他所の国の戦争なんてほとんど関係ないと思っていたのが、実際にはいろんなかたちで世界情勢に影響を与えているというのが、いまはもうはっきりわかる時代になってきたじゃないですか。情報量も多い時代ですから、遠くの、中東の戦争も自衛隊がああいうかたちで出て行ったり、これは自分たちも無関係ではいられないというのが、誰もが感じてることだと思うんです。それが「デビルマン」の中に描かれているテーマとも関連しているわけですし、そういう意味で、今という時代が「デビルマン」を求めてくれたんじゃないかという気がしています。

 ただ、ここまで、こんなに悪魔を描くことになるのは、何かやっぱり故あることじゃないかと何となく思ってます。前世に縁があるんじゃないかと。きっと、負けた連中の側にいたか、あるいは当時同情してたとか、わからないですけれど、何かそういうのを知ってて、自分のなか、心の奥底にそういうものを秘めてたから、こういうふうに出てきたんだと思います。役割が与えられたというかね。

●実は今回、映画化に際してハリウッドからもオファーがあったって聞いてますけれども。

永井 ええ。具体的に名前を出すわけにはいかないんですけれども(笑)。とにかく「やりたい」ということで、三、四回話をもらいましたよ。そのたびごとに、脚本を何本もいただいたんですけどね。

●それは同じ製作会社というか、同じプロデューサーサイドからですか?

永井 脚本までいったのは同じ方だったんですけれど、脚本家は2、3人変わりましたかね。でも、わりと……全然ちがうものに(笑)。要するに……

●永井さんの思っているイメージとは、また違うものになっていた、と。

永井 ええ。まったく違いますし、名称的にも「デーモン」が使えないとかね。とにかく「悪魔」というものに対するこだわりとかがすごいんですよ。やっぱり、キリスト教国的なイメージが邪魔するのかなという……。悪魔は悪魔で、悪魔が主人公になるなんて考えられないという感じです。

●ああ、「悪魔」はもう絶対「悪い」存在なわけだ。

永井 そう、絶対悪い。絶対悪だから、主人公になるなんてありえないということでね。若い人はその辺わりと柔軟なんですけれど、少し上の、お金を出すような人のところにいったら、必ずダメになったりとか(笑)。だから「デビルマン」って、そういうものじゃないんだ、と説明しても、なかなかわからないし、あと作品的にも、やっぱり「悪は最終的にはやっぱり滅びなければいけない」になっちゃう(笑)。

●ハリウッドだなあ(笑)。でも、滅びちゃ作品にならないですよね。向こうとしては「スパイダーマン」とか「バットマン」とか、ああいう感じにしたかったのかなあ。

永井 かも知れませんね。要するに、歴史にデーモンなどは存在しなかった、化石がない以上おかしい、とかそういうことになってきちゃって、存在したとしたらどういう立証が必要で、とか、とにかくそういうところから話がどんどんどんどん横道に……いつのまにか違う話になって、砂漠の真ん中で怪しい宗教集団がいて、とか。もう全然ちがう話なんだよね、それは(笑)。制作資金とかはおそらく相当出たと思うんですけど。やっぱり「これじゃ、ろくなものにならないんじゃないかな」いうので、お断りしたという形にさせてもらいました。

●でも、アメリカ以外でも、フランスとかで「デビルマン」はけっこう受けたりしてたみたいじゃないですか。

永井 そうなんですけどね。アメリカはテレビが三大ネットワークの放送コードがすごく難しくて、そういうアニメなんかだと、暴力シーンいっさいダメみたいな決まりがありますから、「マジンガーZ」でも「デビルマン」でも、そういうネットワークにはかからないでローカル局のケーブルとかのレベルでしか放映できなかったので、ヨーロッパみたいな大きなヒットにはならなかったんです。

 逆にヨーロッパではネットワークに必ず入って、視聴率70パーセントか以上叩き出したので社会現象になったらしいんですよね、フランスなんかは「グレンダイザー」が「ゴールドラック」というタイトルでものすごいヒットしまして、それはもう毎日、新聞で論争が繰り広げられてたりしたようです。

●それは何が論点だったんですか?

永井 やっぱり暴力……バイオレンスということだったらしいんですけれど。ま、日本だと「ハレンチ学園」がそういうことで、僕はものすごく新聞を賑わせたんですけれど(笑)、海外ではロボットのバイオレンスで、「ここまで子供が見ていいのか」とかね。


●では最後に、「デビルマン」を楽しみに観にいらっしゃるお客様にメッセージを。

永井 「デビルマン」、つまり悪魔という生き物を主人公にするということで、ずいぶんと誤解されがちなんですけれども、要するにこれは「悪魔」=「悪」という意味合いではなくて、人間が武力を持ったときの姿を「悪」として、「悪魔」として描いているという、そういうイメージとしての「悪魔」なので、そこを理解していただいて観てもらえると、この作品というのは、すごい深いものがあるというのがよくわかるかと思います。

 僕の作品の中では、たとえば「マジンガー」もテーマ的に、神でも悪魔でもなれるよというかたちでロボットを与えられるんですけれども、運良く彼は敵が現われたおかげで(笑)、正義のために戦うみたいな、正義のヒーロー的なスタイルを取れたけれども、もしかしたら、悪の権化として葬られたかもしれないという(笑)、そういう両方の可能性が選択肢として常にあるよ、という、大きな力とか、大きな武器を持つ者は、常にそういう選択肢を迫られるということがテーマになってますね。

 不動明なんかでも、こういうすごい力を持たされたときに、明自身が良い少年でなければ、どんなふうにその力を使ったかわからないという、そういう要素があると思いますね。それこそ本当の悪魔になったかもしれないという……。

 それから「デビルマン」のなかで敵役としてサタンが出てきますけど、サタンはもともと天使ですけども、天使も悪魔も実際一緒という観点で、それまでの「天使はとても美しいもので、悪魔は醜いもの」ということじゃなくて、人間以上の力を持った者ということでは、同じ者であって、それだとどっちが都合がいいかで、「悪」にイメージ化されたり、「善」にイメージ化されたりしたんじゃないかと思うんですよ。サタンが叛乱を起こして神と戦って破れたということになるんですけど、敗れた者はたいてい「悪」にされるんですよね。それは日本の歴史をみても一緒で、戦いに負けたものは「鬼」だの「○○」だのというふうにされて、それはみんな滅びた、戦いに敗れた民族のことなんですよね。

 だから、サタン=堕ちた天使というふうなことではなくて、サタンにはサタンの主張があるし、常に戦い、戦争ということを考えると、どっちの国にも必ず言い分があるし、どっちの国も自分の考えを信じているし、どっちの国も自分のほうが正義だと思っている、と。それが、今のイラク戦争なんか見ててもよくわかる構図なんじゃないかと思います。「デビルマン」で描いたそういうテーマが、いまの時代になって、すごくわかりやすく見えるようになってきたんじゃないですかね。

 誰もがいろんな戦いを戦っている。それは直接戦う(「デビルマン」の主人公の)不動明のようなかたちになるかどうかは別にして、そういう戦いや戦争という現実にいろんなかたちで関わっていかなきゃいけない。同じ時代に生きてる以上は、戦争や何かが起きたときに、いろんなかたちで、皆「デビルマン」のようになるんだよというのを理解して観てもらえると、僕の伝えたいことがうまく伝わると思います。

*1:実写版「デビルマン」のプロモーション出版企画での、ライターとしての (なんちゃってカメラマンとしての写真撮影もコミでの) インタヴュー仕事ではあった。周知のように、公開後、希代の駄作とさんざんな評判になったけれども、制作側の想いや思惑みたいなものは当然、それら「結果」とは別のところであれこれ蠢いていたわけで、自分的には永井豪さんにじかに話を聞ける機会を持たせてもらったことで、ありがたく満足している。