「団塊の世代」と「全共闘」㉕ ――「教養」願望、と、おたく的知性の関係

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●教養願望とオタク的情報量の集積

――でも今、浅田彰宮台真司がアニメ語るとカッコ悪いでしょ(笑)。もちろん、当人はそう思っていないんだろうけど。

 それは、教養になり得ていないんだよ。

――マンガでも一緒ですよ。浅田が岡崎京子を語ったら、ほんっっとにクソ、ですよ。


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 多分そうだと思う(笑)

――でもね、それでも浅田彰あたりはモードとしては、まだそういう古い知識人を引きずってる方なんですよ。それをもっと劣化させて朽ちさせると東浩紀になるんだけど。

 だからそのへんがきっと微妙なところなんだが、それは単におたく的な知識の総体であって、教養ではないんだよ。

――教養になりえない。いかに情報量があって処理できていても、教養というには自意識との絡み方が違う、おそらくそこなんですよ、問題は。あくまでも情報だけで、自分の生とか経験と結びつけたものになるかっていうと、ならないんだ。情報は、誰からもアクセスできるサーバとして別に置いてあるけど、それは決して自分のものじゃない。そこに特技としてアクセスすればいいだけ、と。

 そう。そこの世代的な違いがね、多分八○年代くらいからあるんだと思う。でも、それは必ずしも六○年代後半の問題ではないと思うけれどね。

――団塊の世代とそれ以降のターミノロジーが一緒じゃないか、って呉さんが言うのは、全くそう思うんですが、ただ、そのことに同時に違和感があるとしたら、その違和感をうまく自前で表出できないから今みたいな俗流団塊批判にいくんだよなあ、と思うところもあるんですよ、端から見てて。

 それは半分くらい、あっているような気がする。ただやっぱり半分であって、団塊よりももっと後まで続いているからそうじゃない、みたいなところもあるよ。多分七○年代に青春期を送ったやつにもまだあると思う。おそらく、もう少し後の世代までそういうのは続いている。

――確かに、幅はありますよね。まあ、あたしゃたまたま両方の世代が見渡せるところにいちゃってたみたいだからそのへん、かなりアンビバレンツですが。でも、それこそさっきの例でいけば、東浩紀たちには、もうわからないはずですよ。

 しかし、団塊批判をして溜飲を下げているのは、世代的には大月君の前後だよ。その頃まだフラグメントになった情報を、自分のバッグに入れて得意がって運搬しているようなやつはいなかった。そういうやつは、もっと下の世代だもの。

――自分ごととして言わせてもらえば、あたしらの頃、そういう連中が少しずつ出始めてたんですよ。でも、それはまだカルチャーエリートだったんですよね。たとえば唐沢俊一であり、岡田斗司夫なんかが典型で、まさにオタキングなわけです。外目には変なやつだけど、自分では確かにエリート意識を持っていた。その限りで教養みたいな意識はどこかであったんだと思うんですよね。


 ついこの間、岡田がどこかで号泣してた、って聞いたんですよ。どこかのイベントで「オタクは死んだ」と泣いた、って話。当人に確認はしてないけど、その話を若い衆なんかから耳にして、どういう脈絡だったのか聞いてみると、要は「エリートとしてのオタクは、もういないんだ」ってことを改めて認識したらしい。でも、そんなの当たり前じゃないかと思うんだけど、彼にしたらおそらく、それまでの世代の教養を知的エリートが担っていたように、正にある種の前衛意識を持っていたんだろうと思うですよ、そういうとんがったオタクの第一世代ですからね。でもその後、オタクもどんどん大衆化していったから、そんなことも言っていられなくなる。そのサイクルがわずか二十年で起こっちゃってる、ってことなんだろうなあ、と。



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 ああ、だろうなあ、中森明夫なんか全くそうだな。彼はわりと古いメンタリティを持っているよね。かつては新人類とか言われて喜んでいたけれど、よく考えてみるとかなり古い教養願望があった。


――そういうの引きずってますね、新人類というのは。意識してたかどうかは別に、ですが。世代的にはあたしくらいで変わらないけど、でも、あたし自身、現役で大学入ってることもあって、実世代的にはかなり上と親交している部分があって、浅羽通明なんかもそうだけど、まだそれ以前の教養カルチャーの尻尾がはっきり残っている。そのことは当時から自覚してましたね。ほんとうはあたしらの世代だと、福田和也みたいになるわけですよ。けれども、そこにもまた亀裂が生じていて、あたしゃ福田を最初に見た時なんか、ああ、そうか、知識・情報と自分との関係の付け方のこれだけ平然と違うやつが出てきた、と思いましたね。

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 だけど福田は、最近、断片化した量だけがたくさんある知識や情報もいいけれど、やっぱり古典と格闘するのは必要だって言ってるよ。自分ではセリーヌなんかと格闘している、と。意識はあるようだけど。

――言うだけなら言えますよ。でも「自分でやってるのか、今?」ってことですけどね。


 前から言ってるじゃないですか。山口昌男中沢新一に騙され、鶴見俊輔大塚英志に騙され、江藤淳福田和也に……と、その「構造」は基本的に全部一緒なんですよ。そこの落差を、見えていても大したものだと思わないがゆえに騙されるわけで。それは思えばオウムの時も一緒だった。



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 たしかに本は読んでる。けど、教養という地図があるとして、福田の立場で当然これは読んでるだろうというのを読んでいなかったりするんですよ。僕から見れば、アメリカのカルチャースタイルでやってる若い連中と同じ世界観なんです。今、ネットがあるから、アメリカあたりの若い世代の院生なんかでも、こっちの日本語で書かれてきたとんでもないものを読んでる。それこそ、僕の大学院時代に書いたようなものまで読んでて、うわぁ、こいつらいったい何をどう読んでるんだ、と思ったんですけど。

 ネットで卒論を引っ張るの?

 引っ張れます。でも裾野があるじゃないですか、フリンジの部分が。それはやっぱりそこにいなければわからないもので、そこが文化だと思うんだ。たとえば福田は、保田與重郎にはくわしい、だけどそれは復刻したからだろうって話ですよ。ぐろりあ・そさえてが保田與重郎を集めてた頃は、手間も時間もかかったけど、そういうことをしないですんで、復刻版が出たからポコッとやったんだろうって。


 西部邁さんに対してもそういう感じ、あるんです。西部さんというのは早すぎるポストモダンだと僕はずっと思っていて、ある時期長く沈んでいて、蓄積はすごいですよ。しかし当然これは読んでるだろうという本を読んでいない、橋川文三は読んでないだろうし、柳田國男は「読んでないよ」って正直に言っていた。それが、読書傾向の片寄りっていう程度ではなくて、この抜け落ち方の落差っていうのはむしろ福田和也と似ている。だからこの二人、通じたのかな、と思った。


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 そこの違和感は、僕には根源的です。つまり、たしかに団塊の作り上げた生活的なカルチャーの中で、僕たちもその連続体の中にいる、それは呉智英さんの言う、まったくその通り。でも、そこにいながら違和もあるから、なんか文句言うやつもでてくるわけで。そこの違いっていうのはそれこそオウムとかの問題に戻っていくんだけれど、なにか自意識のあり様なんですよね、もう構成のされ方が違っている。


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 たしかにね、断片的な知識をそのままたずねただけで、階層が作られていないんじゃないかな。知の階層が作られていないから不安定だ。

 そう、整理されてないでしょう。


●知識の絵図面の設計思想

 俺たちの中だったら、たとえば社会学やるなら、誰の説も誰の説も誰の説もじゃなくて、自分はウェーバーならウェーバーをやると決める。それに対してちょっと違う視点からマルクス社会学的に読んでみると、いいこと言っている。ジンメルもこれでいいんじゃないか、となる。するとマンハイムはこの辺りだな、と位置がわかってくる。

 何となくズレはあるけれど大体こういうものだっていう共通認識は、みんな持ってて、だから話ができて、議論もできてきた。しかし福田を見た時、まったく違うものが来たって思ったんですよ。なのに、上の世代がこれを評価する。なんでこのズレがわからんのだろう、っていうのがずっとあった。

 ただ、俺はそうはとらなかったな。俺は最初に『奇妙な廃墟』を読んで、コラボ(コラボラトゥール)研究をやってるわけだから、コラボを研究するっていうのは、彼自身になにか内的な基軸があって、それに合わせてやってるのかなと思った。

 うーん、自分に近いせいで余計見えていないのかな。それは僕も斟酌するけれど、でも福田だけじゃなく、近いのがいっぱいいる、宮崎哲弥なんかもそうなんですよ。本は読んでるけど脈絡がない。

 宮崎君の場合は、やっぱり幼い頃の体験があってね、家庭がどうのこうのってあって。

 言うよね、ホントかうそか知らないけど、言いたがりますよね、家庭が、って。

 それと彼は、自分は文学はわからないって、これはわりと正直に言っている。

 正直というか、ある種、政治的ともいえますが。


 まあ、俺たちの場合は文学がわからないって言うのは通じなかったんだよね。それを言うのは禁じ手だった。

 もう人間じゃないって感じですよね、当時は(笑)。

 いや、そこまでは言わないが(笑)。だから、文学、なんでもいいんだよ。自分が好きな、永井荷風でもいいし三島でも。それがわかった上に図面が書けるから、それを相手と照らし合わせた上で、その差異をどう考えるかと議論していった。

 その地図を共有していないのが、下に膨大に出てきた。

 たしかにそうだと思う。今の二十代、三十代だと、頭の中にそういう知識の絵図面ができていないんだよね。

 こっちから見てもできてない。あいつら側にあるのかもしれないんだけれど。

 それは、彼らの中でその必然性がない時代になっているような気がする。

 そう思います。必要がないからやらない。困ればやりますよ、人間。

 俺たちの場合、自分なりにたとえばマルクスを基本の重心とする配置を作って、自分はそれに対してバランスを持ったウェイトをおき、自分の人生観を作って、社会に出るなり世界を見分けたりした。今の場合は学生たちが、これも良い面悪い面あるんだけれど、真面目になっているというか、よく授業も受けて。そのままいけば普通に就職もできるわけで、自分の中で新たな社会を見るための見取り図、チャートを作る必然性があまりないでしょう。だから知的エネルギーはオタク的にトリビアなものに集中していっちゃうんじゃないの。

 量の集積はしていますよ、たしかに。今こういう時代だし、できるから。でもほんとにガサ袋に詰め込んだだけ。こっちから見てると、どう引っ張りだすんだろう、って。でもって修養になってない、昔ながらの教養、修養、自我の陶冶になってない……ものすごい言葉が出てきちゃったけど、そういう意味では、全然成長のモメントがないわけです。まあ、かわいそうといえばかわいそうです、あれだけの情報が入ってきていて、じゃあ丸山眞男まで辿り着けっていったら大変だもの。

 だから、丸山眞男を一つのアイテムって形で、たとえば政治思想史をやれといわれれば彼らはやると思うよ。その中で、でも自分なりのモチベーション、必然性と結びつけた時に、重心の置き方が各人いろいろ違ってくるわけでしょう。ウェーバーがいい人、マルクスがいい人、それぞれ自分なりに絵図面を書いて、自分はこういうのを書きましたと出せるだろうけど、先生がじゃあ丸山を読めっていった時、そこに丸山がランダムに配置されるだけで、自分なりに配置をする設計思想ってのが出てきてない。


 遠近感がない。いつまで経っても浮遊した断片がいっぱいあって、それを袋に入れて運搬しているだけ。何となく好きだってのはもちろんあるんですよ。でもそれ以上にならない。好きが構造化されないからリニアな形にならないし。

 ひとつ、外的にはインターネットで情報を入手しているということがあると思う。よく言われているように、新聞とか書籍と違って、情報が全部、等価に一アクセス、一結果にしかならない。

 もう一つは、若者たちが人との深い接触を嫌がる。自分自身が傷つきたくない、ということ。一つの構造を持った世界観を自分で作るのは大変しんどいし、自分をみつめ直すことだし、人と接触してその中で自分が絵図面を提起して相手の絵図面と照らし合わせて、さらに高次な絵図面を作っていく作業は、相手にかなり踏み込まなきゃいけない。

 で、相手から叩かれます。作らなければ叩かれない。だから表明しない。

 その通りなんだ。で、そのまま大学四年間やれば一応出席は、そのエネルギーは出席の方にいってるわけだから、適当にいい会社に就職できてしまう。

*1:挿入気味に言うておかねば勘違いされそうなので。この一連のエントリー、2006年頃の未成の仕事の草稿だったもの、為念。

*2:あ、聞き書きというか、話し手の主体は呉智英夫子でありますので、そのへんも。