「戦国自衛隊」という記憶の大きさ

 まずおさえておきたい。半村良原作『戦国自衛隊』の第一部、というか本編は、小説としてよりも、79年、あの角川映画による映画化で最も世間に広く知られるようになった。

 演習中にタイムスリップに巻き込まれ、歴史に翻弄される伊庭三尉率いる一隊の物語は、戦争と歴史を、そして何より自衛隊をそのように、エンターテインメントの素材として使い回すことに未だためらいと気後れがあった当時のニッポンにおいて十分に衝撃的だったし、実際、今でも多くの人にとって、「戦国自衛隊」と言えば、千葉真一演じる伊庭を中心にしたアクションシーンの数々が鮮烈に記憶に残っているはずだ。原作である小説版と映画版とのズレについてはその頃からすでに指摘されていたが、それでも、人々にとっての最大公約数の「戦国自衛隊」という記憶はやはりあの映画版が媒介であることには違いはない。

 間違ってはいけないのだが、そのことは、決して活字=小説に対する映像=映画の優越を示すものではない。活字から映像、さらにはさまざまな表現に翻訳され、コンバートされてゆくことと共に、それらの全てに読み手=観客/消費者として介在する名もない同時代の国民全ての「読み」と、その結果の伝承と記憶をも含めた膨大な過程のまるごとをこそ、正しく「作品」と呼ぶのだし、そう呼び得る器量があって初めて「歴史」もまた、いきいきとしたものになってくる。それらの過程の初発の地点にやはり小説が「原作」としてあったこと、それは正しく活字の栄光、である。

 実際、それまで、映画やテレビにおける自衛隊と言えば、かのゴジラに始まり、「地球を侵略」しにやってくる怪獣たちと戦うくらいが精一杯の存在だった。同時代の環境で軍事を語ること、自衛隊に言及することは何も国会議員や官僚だけでなく、多くの国民にとっても意識の外、誰が決めたわけでもないタブーではあった。

 そこを、「エンターテインメント」を掲げた角川映画が、千葉真一の身体を武器に一点突破をかけた。当時から、やれバカ映画だ、荒唐無稽だ、SFの風上にも置けない考証ぶりだ、などとさんざんに言われてもいたが、しかしそれでも伊庭三尉以下の自衛隊がカッコよくて、映画としてオモシロいのはどうしてくれる、というわけで、後に迷走を極めることになる角川映画としても、最もイケイケで勢いのあった頃の忘れられない一本と言っていいだろう。今回、映画『戦国自衛隊1549』としてリメイクされる「続編」が可能だったのも、そういう国民の記憶としての「戦国自衛隊」がその程度にはかけがえのないものだったから、なのだと思う。

 もちろん、79年当時とは、自衛隊をめぐる時代状況が大きく変わってしまっている。それは誰もが気づくことだろうし、作中、それが最前提となって物語は組み立てられている。何より、半村良自身がすでに他界しているのだ。だからこそ今回は正しく「原案」とクレジットされているのだが、民俗学者としてはそんなあたりまえの評論家的な考証とは別に、先に言ったようなただ大きな過程としての「戦国自衛隊」の今日的再生の方にこそ注目し、わくわくしておきたい。


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 今回も、まず映画で作品に触れ、次にマンガ版になじみ、といった経路で、新しく「戦国自衛隊」のことを知る新しい観客も、たくさん生まれることだろう。けれども、できれば活字の小説――ノベライズ、と呼ぶみたいだが、そっちの方にもできれば眼を向けて欲しい。個人的な感想で言えば、この小説版の味わいというのは、マンガ版とも、そしておそらく映画そのものともまた違う、良い意味での〈リアル〉が宿っているテキストになっていそうだからだ。

 戦闘シーンの描写にしても、マンガではさらっと描かざるを得ないディテールが文字の速度で書き止められ、同じ場面の中に埋め込まれていることによって、ある意味では映像よりも雄弁に「痛さ」や「凄惨さ」が、それらも全部ひっくるめた臨場感が伝わってくることもある。何より、隊員ひとりひとりの生活背景などについても、案外ていねいに書き込まれていることに書き手の誠実を感じる。たとえば、物語の始めの頃、伏見城攻めで初陣の恐怖に震える小杉二士についての書き込み。

「彼は母子家庭でしかも一人息子だった。自衛隊には自分の意志で入隊した。もともと進学できるほど頭も良くなかったし、手っとり早く家計を助けるためには就職難のこのご時世、自衛隊に勝る就職先はなかったというだけの話である。彼は佐世保出港の折、わざわざ見送りに来た母親を安心させるため、朝鮮半島沖で釣った魚をみやげに持ち帰ると約束したものだ。彼の母親は福岡市内で小料理屋を経営していた」

 たったこれだけの記述だが、マンガでも映画でもこういう箸休め的な脇道を脚注のようにいちいちさしはさむことは構成的にも、また編集技術的にもしにくいはずだ。活字がリニアー=単線的なメディアで、それに対して映像がより包括的かつ直感的で、といった能書きはよく言われるが、しかし、活字メディアゆえの読み手との交感とそこから派生する広がりの持たせ方というのもあり得る。そのような広がりを可能にしたのが、他でもない高度経済成長期の「豊かさ」だったりするのだからして。

 資本主義の果実は想像力の領域にも波及する。国力とはそのような領域も含めての謂だとすれば、ハリウッド映画もまたアメリカの国力に他ならない。「豊かさ」が可能にした国力の発現としてのサブカルチュア。小説のみならず、映画やマンガ、ゲームに音楽……それら全ての複合的過程の現在もゆったりと視野におさめた「ニッポン」の現在を見せてくれるひとつの例として、新しい「戦国自衛隊」にひとりの「読み手」として向かい合いたいと思っている。

 今回は、陸上自衛隊全面協力でロケが行われた、と聞いている。それだけでも時代は変わったんだな、と改めて思う。願わくば、あのランボーのようなベタベタのヒーローではなく、「豊かさ」の中、あたりまえにひよわでナイーヴないまどきのニッポン人、としての自衛隊員たちが、野蛮な先祖の生きる「歴史」の前で示す葛藤や躊躇をも描き切るだけの勇気をはらむことを、ニッポンの周囲がざわめき立ち始めたこの時期だからこそ、敢えて期待したい。