男らしさ・考 vol.1~10

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 九州はしみじみと異国だ――だいぶ前、ある原稿の冒頭にそう書いたことがある。今でも十分にそう思っている。

 全く縁がないわけではない。亡くなったオヤジは若い頃八幡で働いていたし、母方がもともと九州の出。親類縁者は今でも結構九州にいる。小さい頃から家の中では九州なまりが飛び交っていたし、法事で集まるのもほぼそちらの人間。そんなこんなで、九州の匂いや気分が自分の中に地味に浸透している、という自覚はある。

 けれども、あたし自身は九州に住んだことがない。東京生まれの関西育ち、高度経済成長期の転勤族一家の典型で、大学に入るのでまた東京に舞い戻ってそれ以降、基本的に生活基盤は首都圏のまま。暮らしの中で九州を呼吸した経験は残念ながら、ない。

 なのに、と言うか、だから、と言うべきか、九州は気にかかる。普段は忘れているのだけれども、何かの拍子に物陰からそっと顔をのぞかせる。ああ、そこにいたのか、という感じなのだ。

 十五年ほど前、小倉と北九州界隈にある時期、集中的に通った。まだ大学の教員をやっていた頃だ。

 あの「無法松」をめぐる調べもの。日本の「男らしさ」の原型のように語られている「無法松」のイメージが、原作の小説から映画に、そして戦後さまざまなメディアを介して流布されてゆく過程でどのように時代や世間との関係で整えられ、変わっていったのか、民俗学の眼の高さで考えてみよう、という目論見だった。成果は後に『無法松の影』という本になったけれども、当時まだ西鉄路面電車が走り、駅周辺も再開発が進む前の小倉の街並みをうろうろして資料をあさり、時に昔を知る人たちを尋ね歩いたりもしながら、改めてその異国ぶりについて意識するようになった。




 九州の異国ぶり、それは近代の先進地域だったことに関わっている。

 鉄と石炭。そして港湾と船、軍隊……いずれそんな途方もないもの、うっかりと身の丈を超える大きなこと、に日々真正面から向き合い、肌を接して暮らさざる得ないような、とりあえずそれまでの日本にはなかった環境。だからこそ、それらと釣り合うだけの「男らしさ」というやつもまた、良くも悪くも過剰にとぎすまされてゆかざるを得なかった。そんな「近代」に向かい合わされることにおいて、確かに九州はある時期まで、日本で最も最先端の地域だった。それら西方から押し寄せる近代に、東京を中心とする新しい「日本」は、陰に陽に刺激され続けていた。

 明治も十年代になり、二十年近くたつと、焼け野原だった江戸も少しずつ復興を始め、姿を消した武家に代わって新たな人口が流れ込むようになる。特に、書生と呼ばれた若い衆が地方からたくさん入ってきて、新たな文化、風俗を担っていった。そんな中、九州出身の書生たちの立ち居振る舞いは相当に異様だったという。

 朴歯の下駄、太い羽織の紐に腰には手ぬぐい、往来でも高歌放吟してはばからず、懐には匕首を呑んで、肩を怒らせまなじり決して集団で行動する若い衆。後に旧制高校に代表される「バンカラ」の原型、いわゆる「硬派」カルチュアの源流だが、そんな「豪傑」ぶりが称揚される気風は、箱根から東にはあまりなじみのないものだったらしい。

 当時、薩摩出身の書生の下宿に呼ばれると、芋を食うか、稚児を食うか、と挨拶されて面食らった、という話も残っている。有名な兵児二才(へこにせ)の制度に育まれた若い衆の共同性。同じ頃、東京市中の警官の多くが薩摩出身だったということも、彼らの身振りが過剰になった背景にあったかも知れない。

 大学で教えていた頃、そんな話を講義でした時、ちょっと年輩の中国の留学生が言った。

「センセイ、紅衛兵ってちょうどそんな感じでした」

 歴史を〈いま・ここ〉につなげてゆく、こういう感覚を民俗学者はちょっと大事にする。



 明治になるより前、幕末の段階ですでに九州は異国だった。維新当時の何でもないエピソードにも、そのような微細な違和ははらまれている。

 当時、幕府の旗本たちは太平の世に慣れて華美に流れ、三尺もある刀に優美な拵え、細工を施した異様に大きな鍔をつけてみたり、と、格好ばかりつけてものの役に立たなかった。今ならさしずめ暴走族の竹槍マフラーみたいなもの。「いろに持つなら彰義隊」とまで歌われたというあの彰義隊にしても、上野のお山でいくさの前は腰に手を当てたポーズでしきりに強がって見せていたが、大村益次郎の大砲一発でちりぢりに敗走。

 徳川三百年、幸せな繭玉の内側で、用の具体から離れた美意識や価値観を増幅させていた当時の幕府側に比べ、九州および西南雄藩の体現していた近代とはそのように身も蓋もなく具体的で、かつ過剰なものだったらしい。それは単に西欧の技術を早くから学び、体得していたというだけでもなく、それらを身につけて使い回す等身大の、最も生身の水準においてもまた、意識や身振りも含めてのっぴきならない変化がすでに起っていた。

 そのような異国の異族が大挙して江戸を占拠、社会の制度から風俗まで何もかも一変させてゆく。武家同士ならば一応の読み書きはできる。漢語の素養を共通項に話もできよう。だが、末端になれば素性もあやしい者まで平然と混じっていた当時のこと、江戸の地つきの町人たちとは、まず話し言葉からして通じにくかった。彼らが官軍の合い印として肩口につけていた錦の布きればかりを狙ってかすめとる「すり」が出没、これがまた江戸っ子から大いに喝采を浴びて錦絵にまでなったのも、やはり前提にそのような、「西からやってきた近代」に対する違和が横たわっていたからに他ならない。

 西欧の歴史学者などには、この戊辰戦争を「南北戦争」と表記する人もいる。異なる文化を持つ者同士の内戦、という意味を含ませているのだとしたら、納得できるような気もする。



 「近代」は人を過剰にする。うっかりと感情を高ぶらせ、身体を律動させ、時にはじけさせもする。なるべく興奮をしないように、日々の暮らしの中で日常を制御をするようにできていたそれまでとはまた別の、疾風怒濤の環境があたりまえになってくる。

 よく文明開化ということが言われる。新橋と横浜に鉄道が通り、ガス灯がともり、煉瓦造りの洋館が並び、鹿鳴館では夜ごとの舞踏会……教科書の影響もあるのか、そんな明治のイメージが未だに強い。けれども、鉄道が本当にインフラとして機能し始めるのは、ある程度路線が整う明治三十年代からだ。馬車の代わりに人力車を発明し普及させてゆくことで近距離輸送は何とか支えたけれども、それは後の自動車の出現に際してネックにもなった。長距離輸送が鉄道からトラックにシフトしてゆくのは昭和三十年代のこと。実際、それら陸のインフラ整備の過程よりも先に、海を往く小さな船に焼き玉エンジンが積まれたことの方が、「近代」の実現という意味では大きかったかも知れない。

 近代とはそのようにあらかじめやってきていた。黒船がいきなり海の向こうから運んできたもの、というだけでもない。その程度には、われわれの歴史の常識というやつは、案外たよりなかったりする。

 九州出自の「バンカラ」の系譜もそのような明治に、ゆっくり立ち上がり始めた「近代」を書き割りとして東京に、そしてそれらを介して輪郭を整え始めた「日本」へと根をおろしてゆく。それは、旧制高校経由で「学校」を経由したエリートの「硬派」カルチュアへ、一方ではそれ以外の領域、たとえば巷の不良少年から身ひとつで世渡りする職人衆、工場や軍隊で働く労働者などを介して、「男らしさ」の雛型として世に流れ出していった。もちろん、それはそのような「男らしさ」を望ましいものとして見る、異性も含めた「世間」の視線とも関わっていたし、「近代」の前にはおんなもまた平然と「男らしさ」を身にまつわらせていったりするのだが、そのあたりの話はもう少しゆっくりと。



 たとえば、「九州男児」というもの言いがある。そんなの、いまどきもう死語に等しい、という人もいる。おそらく、現実はそんなものだろうと思う。

 けれども、未だにイメージとしての九州に、この「九州男児」はまつわってくる。実際、九州の出身で、東京であれどこであれ、よその土地で「九州男児」を持ち出されて当惑した経験のある人は、かなり多いはずだ。

 曰く、酒豪である、曰く、亭主関白で男尊女卑、曰く、口より先に手が出る、曰く、すぐ大声を出す、曰く、奥さんに靴下をはかせてもらっている、曰く、メシ、フロ、ネル、しか言わない……どうかすると昨今は、明太子が好物で豚骨ラーメン以外は受け付けない、といった話までつけ加わる。なるほど、当惑もするだろう。まして昨今のこと、男女共生社会だのフェミニズムだのと言われれば、九州男児と言われることはそれ自体もう時代遅れ、女性のみならず社会の敵のごとき意味になりかねない。自他共に認める九州男児ぶり、にそのまま安住していられることは、それがイメージとして出回っているだけに、どんなに男前でも今の世の中、難しい。 

 イメージというやつは取り扱いがデリケートだ。ひとりひとりを見ればイメージ通りでないのは当然だとしても、それら個別具体を含み込みながらイメージは増幅されるのだし、その過程に生身の個人もまた常に巻き込まれる。真実かどうか、という検証をいくら厳密にやっても始まらないし、それはイメージに過ぎない、と頑固に否定してみたところで、なおのこと意味がない。イメージもまたこの社会の一部であり、現実である。たとえ実態とかけ離れたイメージであっても、人々が何らかの確かさ、ほんとらしさを感じて共有し、使い回している限りにおいて、それもまた〈リアル〉なのだ。

 「九州男児」という〈リアル〉は、ならばなぜ、実態としてはほぼ過去のものになったらしい現在もなお、未だにイメージとして共有されているのか。それはどういう経緯、どういう来歴を伴って現在に至っているのだろうか。



 いま、九州男児、と口にしてみる。どこか気恥ずかしい、落ち着かない。

 何も「九州」に限ったことでもない、昨今、その「男」であること自体が、はなはだ風向きが悪い。男らしさ、女らしさ、のその「らしさ」がけしからぬ、そんなものは後から強制されたもの、男も女も生まれた社会と文化の中で「らしさ」が決められているに過ぎないのだから、とかなんとか、もうどんどん叱られる。意見される。いきおい、口ごもるしかなくなる。

 そんな「らしさ」を前提に作られる性別を「ジェンダ」ーと呼ぶそうな。そんな抑圧からは、さあ、自由になるべし――「ジェンダーフリー」のかけ声は、学校でもすでに公認のお題目になりつつあるし、また、その是非についての口角泡飛ばしての議論もかまびすしい。そんな大層なハナシなのかなあ、と、つぶやいても詮無いこと。「正しさ」だけを求める大文字の議論沙汰の前で、この身の屈託や葛藤は常に置き去りにされたままだ。

 思えば、最近「九州男児」を全国的に印象づけたのは、あのヒロシだったかも知れない。「ヒロシです……」で始まる九州なまりのトホホなトークで人気が出たお笑い芸人。元は売れないホストだった、というふれこみで、そのホスト時代のどうにも情けない、貧乏くさいエピソードなどをぼそぼそと語る。少し前、似たような芸風のつぶやきシローが、栃木なまりという全国的にはもちろん、地元関東圏においてもすでにイメージが結びにくい言葉遣いが裏目に出たのに比べて、「九州」のイメージ喚起力は未だ健在、と思わせてくれた。

 あんなの全然九州弁じゃない、イメージとしての「九州」に過ぎない、という批判はごもっとも。何より、彼自身、九州出身であることを表に出して勝負していたわけでもない。しかし、ああいうはなはだ「男らしく」ない、情けないキャラクターにこそ、あの九州なまりが必要だったとは言えないか。



 ヒロシのあの芸は、これまで「九州男児」に象徴されてきた「男らしさ」が、観客であるこちら側に共通理解としてあることを前提に成り立っている。

 もちろんそれは、大阪人がみな阪神タイガースのファンで、お好み焼きとたこ焼きが常食で、口を開けばボケとツッコミになっている、といったイメージと同じように「嘘」であり、“おはなし”としての「九州」である。けれども、そのような“おはなし”であるがゆえに、「九州」は広く共有されるイメージにもなっている。だから、誰もがそうはっきりとは意識しないにせよ、あのヒロシの九州なまりは、元ホストというふれこみとあいまって、そんなイメージとしての「九州男児」を裏返しに想起させるものになっていた。

 どだい、「九州男児」とホストという取り合わせが異化効果。それは、もっと広げれば夫婦漫才の定番、口やかましい女房にやりこめられる亭主、という取り合わせから、あるいは、同じく最近ワイドショーやバラエティで流行りのあの「鬼嫁」などにも通じるような、いずれ「強くて賢い女、と、本当は情けない男」という、男女をめぐる関係性を表現するある種のフォークロア(民話)にまで関わってくる、そんな王道の型通りである。

 「男らしさ」の象徴たる「九州男児」が、しかし実は女々しい、情けない、ということはこれまでも言われてきた。それはたとえば、なんだかんだ言っても本当はあたしがいなければ何ひとつできない、メシを作ることはおろか、パンツのありかひとつ知らないままなんだから、といった、女たちの側から発されるもの言いで。家の中のこと一切を女房に任せっきりで、家の外で社会の側からて求められる「男らしさ」と裏腹に、プライベートの等身大の部分でははなはだ情けない、何もできない子供のような存在。もちろんそのことは、男たちの側もどこかで認めていた。認め、そしてそういうもの、と心中ひそかに甘えてもきた。



 「強くて賢いしっかりものの女、と、偉そうなことを言っても本当は情けない男」という型通りは、まず「お笑い」として成り立ってきた。いわゆる夫婦漫才がその代表である。

 口うるさく機転の利く女房に、たいていは大柄でやや鈍重な亭主役がさんざんやりこめられるというスタイルは、今ならば宮川大助・花子のコンビがすぐに思い浮かぶだろうし、若手で人気の南海キャンディーズも、実は同系統に分類して構わない。年輩の方ならば、島田洋之助・今喜多代正司敏江・玲児などの名前を思い出すかも知れない。

 さかのぼればそれらは、戦前、昭和初年のミスワカナ・玉松一郎のコンビから、はっきりとその輪郭を現わし始めていた。ワカナは安来節出身の芸人で、一郎は無声映画の楽士でチェロ弾き。メガネをかけアコーディオンを抱えた一郎(かの道頓堀の食いだおれ人形のキャラとも通底する)に、小柄で立て板に水のしゃべりが武器のワカナの取り合わせ。売れない頃は大陸まで巡業していたが、なぜか九州で人気に火がついたあたりも興味深い。芸能史的には夫婦漫才と共に音楽漫才の原点でもあるのだが、最近ではむしろ、森光子の舞台『おもろい女』のモデル、と言った方が通りがいいのかも。思えば一方ではロングランで『放浪記』もやっているし、森光子、案外あなどれない。

 それまでの太夫と才蔵、三河万才以来の古臭い芸能を、背広を着た普通の人の立ち話の水準に一気にコンバートさせた漫才作家秋田實の「革命」は、日常の話し言葉による会話をそれまでと違った形で人々に意識させることになった。最も日常でありプライベートであるはずの夫婦の会話もまた、そのような「革命」の中で平然と舞台にあげられるようになっていった。しかも「お笑い」という脈絡で。



 タテマエとしての「男らしさ」「女らしさ」は、昭和初期、それまでになかった規模で相対化されることになった。多くの人が日常で経験し感じていたホンネの部分――実は男って情けない、を「お笑い」という約束ごとの中で解放してみせる。夫婦漫才のフォーマットはそのように受け容れられた。

 もちろん芸能のこと、そうは言いながらもほんとは仲がいいのよね、と、結局は「夫婦」という日常をまとめてゆく形の解釈になってゆくのがお約束なのだが、それでもそこに至るまでに、それまで形に現れることの少なかったホンネの部分が顔を出すようになったことの効果はまた格別。タテマエとして日常の中に安住していた「男らしさ」もまた、それまでと違った様相を含み込み始めてゆく。

 そう、「男らしさ」を相対化してゆく「強い女」は、どうやらまず「お笑い」として、その姿を現わしてきた。「お笑い」という言い方が誤解を招くのならば、芸能と言い換えてもいいし、お好みならばいまどきのもの言いでサブカルチュア、でも構わない。海老茶袴と揶揄された明治期の女学生から、大正期の『青鞜』の女たち、文学や芸術を彩る才媛たちから、さらにその後のバスガールやガソリンガール……などなど、いまどきの教科書通り、学校の教室から教養番組、さらにそれこそ新聞の学芸記事などに至る脈絡の「正しさ」で縁取られた女性の「自立」の系譜とは少し別のところ、肩肘張った言論沙汰、概念と理屈で鎧をまとった思想信条の場からはピッチのずれた、いい加減でゆるくて何でもありで、でもその分世間へ浸透してゆき普通の人々の心に響く度合いはうっかりと大きかったりする、いずれとりとめないフィールドで。

 それは男の側、当時の当たり前であった社会のありようの側から「笑われる」ことによって、その男の側、世の中の視線からの認識を裏返しに求めてゆく、そんな存在でもあった。



 「強い女」の影を「男らしさ」の側、当時の世間が意識するようになってゆく、その過程もまた存在する。

 昭和初期に人々が夫婦漫才を「お笑い」として楽しみ、解釈してゆけるようになっていた、その下敷きには、たとえば「恐妻」があった。最近はもうあまり使われなくなったもの言いけれども、おおむね五十代半ばから上、いわゆる団塊の世代より前の年輩の方ならば、どこかでまだ心の中の語彙に入っているはずだ。

 この「恐妻」というもの言い、その来歴があまり定かではない。国語学者の書いたものなどを繰ると、明治時代にすでに「厭妻」という言葉があったという説もある。だとしたら、「厭」が「恐」に変化していった、その背景もまた興味深いのだが、いずれにせよ漢字の熟語。話し言葉を主体に暮らしていた当時の普通の人々のものではなく、そのような漢字、つまり書き言葉を操るような人たち、いわゆるインテリ、知識人界隈から生まれたものと考えていいだろう。

 もの言いとしての「恐妻」が、はっきり一般化するのはやはり昭和初期。言い出しっぺについても徳川夢声説、大宅壮一説など諸説ある。かたや活動弁士からその頃新しいメディアだったラジオへとシフトしていった、当時先端のマスコミタレント。かたや同じくその頃一気に市場を拡大していた雑誌を中心とするジャーナリズムの舞台で八面六臂の活躍を見せ始めていた新進気鋭のライター。メディアとそれを介する情報環境が大きく変わってゆき、本格的な大衆社会がこの国に出現し始めていた時期、活字経由の情報だけで自意識を形成してきたそれまでの知識人とは少し違う「自分」を持った彼らから、「強い女」ははっきりと視野にとらえられる。その程度に、大衆社会はあらかじめタテマエの相対化をプログラムとして持っていたらしい。

 そしてそれはまた、「家庭」という考え方が人々の心に入り込んでくることとも、微妙に関わっていた。

 

*1:西日本新聞の連載コラム。50回の約束だがある程度まとめてアップしないと脈絡がわからないだろうから、とりあえず10回ずつまとめて。イラストは、みなもと太郎さんにお願いしました。