ネット=ひきこもり、説って……

 没落しつつある中流階級の不安が、より低層へとはけ口を求めてファシズムに……というのが、学校で習ったファシズムの定義、ってやつだったような。こういう定義の場合は、たいていワイマールドイツが引き合いに出されていました。いやもう、はるか昔、三十年近く前のハナシではありますが。

 昨今、評論家や文化人がよくしたり顔でのたまう、「ネット右翼」なんて「ひきこもり」の「無職」の「ニート」が主体、ってアレも、理屈としては案外まだこのへんが下敷きになってるんでしょうか。実態としてほんとにそうか、となると、何も統計をとってるわけでもなし、確かな証拠は案外ない。なのに、どうしてそういうイメージを自分たちが抱いちまってるかについては、自覚なし。無知な大衆、愚昧な民草を見下す視線がありありなのも、どうやらご存じない。

 そもそも、インターネット、についてのイメージが、どうして「ひきこもり」と直結してしまっているのか。考えてみたら謎です。

 ひとつには、「おたく」のイメージが下敷きになっているのだろう、というのはある。パソコンに淫してしまうような連中=「おたく」、というのが先立っているのでしょう。まあ、確かに、かつてのラジオ少年、少し長じてアマチュア無線にはまったり、ラジコンの類に趣味を求めたり、さらにはバイクにいれあげたり、と、オトコのコってやつは機械いじりが大好きなのが必ず一定量いる。初期のパソコンってのも、確かにそういう機械いじり好きの脈絡にあった。それはまあ、理解できる。

 思えば、もっとさかのぼってガキの頃に怪獣好きだったか、それともメカ好きの方か、ってのも、案外重要な人格の分かれ道、だったりします。怪獣好きは今だとムシキングに血道をあげるんだろうし、メカ好きは一時期チョロQやらミニ四駆にハマっていたようなタイプのような。あたしの年代だと、それこそウルトラマンにハマるか、サンダーバードに惚れるか、の違いってやつですかね。ちなみにあたしゃウルトラマン-怪獣系、ってのはどうも敷居が高くって、サンダーバード-メカ-軍事トリビア経由で、なぜか天文と芸能(落語その他)と競馬に行った、という感じなんですが。

 ともあれ、そういうメカ好きから機械いじり系に行った層のその上に、さらにアニメだのマンガだの、二次元系の趣味ってやつも相乗りになって、それは同時に文科系よりも理科系工学系の世界観とも融合して……とまあ、ネット=「ひきこもり」=「おたく」 という図式へと至るおおざっぱな見取り図を描けと言われれば描けなくもないのかなあ、と。

 でも、だからといって今の情報環境で、インターネット=「ひきこもり」の「おたく」、というのは、あまりにもずさんというか、まわりが見えていないとしか言いようがない。少なくとも、ネットを介して見えてくる空間のとりとめない広がりについて、素朴に畏怖し、そして瞠目するというところがなさすぎる。当たり前ですが、そんなにわかりやすく単純なわきゃないし、だったら誰もネット以降の現在について考える時にこんなに苦労はしないってもんで。

 某巨大掲示板、何かというと「ネット」のダークサイドの象徴かつ典型のように言われるかの2ちゃんねる、でも、サーバ単位でアクセスする人数についておよそのところが推測できる仕掛けはすでにあります。書き込む人についての情報で整理するわけですが、板によっては半径数千人。それが繰り返し書き込んでいたりというアクティブがいるわけで、一説には、書き込んでいるようなアクティブはROMっている「観客」のせいぜい二割まで、とか。ということは、数千人の板ならばその五倍、もっと多めに見積もっても七倍くらいまでがいわゆる「住人」ということになるんでしょうか。

 これが「祭り」になるとまた話は変わってくるのでしょうが、ほとんどはそんなに一個所に集中するような事態にはならない。多くはニュース系の板で話題が沸騰、そこからまたそれぞれの専門板に還流して広まってゆく、というのが通常のありようのようではあります。

 だから、ネットの世間、住民たちの動きを眺めて、あ、ひきこもりだ、とほんとに思ってしまうのなら、まず何より、その思ってしまう自分について静かに省みる必要があるんじゃないかと。同様に、これは昔からある「右翼」はアタマが悪い、社会性がない、という前提のステレオタイプも。いや、それはある部分で確かにそうだったりするわけですが、でも、目の前で起こっていることについて何か意味を与えて「解釈」を発動しようとしている、まさにその自分自身の「解釈」装置のからくりみたいなものをもう一度相対化してみる、そんな努力が一番いま、必要なんじゃないかなあ、と思います。

 2ちゃんねる、は、おそらく日本最大のポータルサイトになっている。ニュース系の素材ならば何より強い。もちろん虚実入り乱れているのは言わずもがなですが、とりあえずスポンサーの類からはちょっと距離を置けている、そのことがまず大切じゃないかと。広告をとり、サーバを貸し、商売はしているけれども、いわゆる表のメディア、マスコミのようにスポンサーという神、の差配には従っていない。少なくともそういう部分は留保されている。それが管理人の偉大さ(笑)によるものか、それとも単なる偶然の積み重ねの果てにたまたま成り立っているようなものか、そのへんの判断はまた微妙ではありますが、いま現在のありようとしてはそんなものか、と。

 この春先くらいから、でしょうか、表のメディアがネットで取り上げられていた素材からニュースに持ってゆく、そんな手癖がはっきりと一定量を占めるようになってきた、そういう印象があります。少し前なら、「なんだ、ネットでネタ拾いかよ」とじきに揶揄されていたようなものですが、しかしそういうツッコミもあまり見られなくなってきた。それはひとつには、その取り上げるマスコミの側の身じまいというか、処理の仕方がうまく情報環境になじんできたから、という部分があるように思います。もっとわかりやすく言えば、ネットの「名無しさん」と同じ目線から記事を書こうとするようになってきた。具体的には、「マスコミ」という特権性、固有名詞にいきなりあぐらをかかなくなってきたところがあるなあ、と。

 それは、信頼されるマスコミとしての品位がなくなってきた、散漫になってきた、ということと裏表でしょうが、それでも、マスコミがネットをとりあげた、というだけで何か騒ぎになったような状況はもう過去のものかも、ということは指摘しておいていいでしょう。それくらい、ネットは〈いま・ここ〉の情報環境に平然と組み込まれて、目の前にある。そのことを素朴にまず認めた上でないと、この先もうどんなメデイアもジャーナリズムもヘチマもあったもんじゃないんでしょう。

●編集後記

 とある原稿仕事で、「総務省よ、この際もうめんどくさいからいっそ言論弾圧してみたら?」という趣旨をちょろっとさしはさんだところ、ものの見事にクレームがついて、編集長まで引っ張り出してのすったもんだのあげくに、結局はその部分は削除。「マスコミ自ら言論弾圧してみたら、などは絶対に許せない」とまあ、シャレにならない理屈で編集部から叱られました。

 

 言論の自由をタテに売国報道に奔走して恥じないアホなマスコミなんざ、一度試しに言論弾圧してみたらいい、ほんとにその自由に身体張って抵抗するマスコミがどれくらいいるかわかるから、という意味だったんですが、そういう文脈は読み取ってもらえなかったようです。

 

 まあ、こういうトラブルはあたしゃもう慣れっこですが、でも、朝日や講談社ならともかく、一応は保守の看板で信頼得ているようなメディアでさえも(というか、だからこそ、かも知れない、とあたしゃ思ってますが)、こういう「優等生」の呪い、ってのは意外なところで重篤なものだったりします。WILLあたり喜んで読んでるようないまどきの若い衆なんざ、ちょっと仕掛けたらいくらでも同じような能書きに雪崩をうつ可能性があるんでないかなあ、と、ちょっと鬱になりました。