「核」をめぐるタテマエの終焉

 核をめぐる議論が、物議を醸しています。何も、いますぐ核武装しよう、などとは誰も言っていないはずなんですが、こと核になると、それこそ脊髄反射で「NO」を言うアレルギーは未だ根強いようです。

 まあ、戦後このかた、核の問題にはとにかく触れない、まともに向き合わないままできたわけで、そのツケがようやく回ってきた。なにせ米軍の原潜も空母も、核を絶対に日本に持ち込んでいない(…ということになっている)、そのタテマエ一発で時の政権はずっと押し通してきた。ここにきてそんなタテマエがめでたく破綻した、それこそが「戦後」の終焉を象徴しています。北朝鮮の核実験、以て瞑すべし、かも知れません。

 その気になれば核武装できるだけの技術を日本は持っている、それは世界中がもう知っている。ならば、その「知っている」ことも含めて抑止力になるようにもってゆくのが外交であり安全保障であり、何より政治ではないですか。その意味で、これまでタテマエの自縄自縛で口に出せなかった核の議論も、さて、してみてもいいかな、という構えを見せること自体、世界に向かってひとつのメッセージになり得る。批判をしたいなら、そのメッセージの効果を具体的に検証して反論するのが本筋のはずで、それをいまさら「唯一の被爆国として」だの「憲法の精神に反する」だの大文字の能書きしか持ち出せないのが何より情けない。戦後六十年、民主主義や言論の自由などと共に、「反核」「反戦」というタテマエもまたここまで退廃していたことが国民の前にあらわになった、それが今回のこの核論議の隠れた効果だと思います。

 あ、ちなみにあたしゃ、ニッポンの核武装には現状、ひとまず反対です。理由は、手にあわぬ刃物はむやみに持たぬが吉、と。妖刀村正の伝承、ご存じですよね?