競馬とブログ

 アグネスタキオン急死、のニュースが、初夏の気配の一日、競馬の世間をかけめぐりました。サンデーサイレンスの後継種牡馬として現状、おそらく最有力だったことは誰しも認める実績をこのところ残して、これからシーズンたけなわの今年のせりでも産駒がバイヤーの人気を集めること確実だった矢先だけに、驚きと共にとても残念な話でした。

 無敗の皐月賞馬、という説明がされているのを見て、そうか、大きなところを獲ったのは皐月賞だけだったんだっけ、と改めて思い返しました。情けない話ですが、同じ頃に活躍した馬ならば、ひとつ上のアグネスデジタルの方が印象が強くて、それは地方交流競走にも積極的に参戦、地方目線のあたしなどが当時そのどうしようもない「強さ」を目の当たりにしていたせいでしょうが、種牡馬入りしてからはもう比べる余地もないくらいの違いが。このへん、実際にレースを現場で眼にした馬とそうでない馬との違いが、どうしても記憶の銀幕に投影されるイメージに影響してきます。種牡馬繁殖牝馬としてどれだけ活躍馬を出してくれても、やはり多くのファンの意識にとっては、その馬は競馬場を走り、レースを介してさまざまな情報がメディアに媒介されている現役の頃のイメージが最も鮮烈なわけで、改めて、かつての「父内国産馬」という制度は、単に生産面でのアドバンテージを担保するためだけでなく、興行としての競馬をファンの目線からいきいきしたものにしてゆくためにも役立っていたんだな、と思ったりします。

 ひとつ気になったのは今回のこのニュース、スポーツ紙など表のメディアが報じるより早く、ネット上で「ニュース」として持ち回られていたことです。いわゆる個人のブログでいち早く言及され、それがネットの掲示板でニュースとして二次、三次流通していった。どうやら馬産地の牧場関係者が運営しているブログだったようですが、公式発表がされてマスコミが報じるより先に馬産地の情報として出回っていたものがいち早くネットを介して公開されてしまう、というこのからくり、何も今回に限ったことではありません。

 言うまでもなく、すでにそれら個人による情報発信のサイトは、ブログ形式に限らず、ホームページやそれに付随する掲示板の類でたくさん立ち上げられ、それなりに表のメディアに出る前の情報ソースとして持ち回られています。これは時代の流れ、情報環境の変貌のなせるわざで、新たな時代の「自然」としてうまくつきあってゆくしかないのですが、それでも、こと競馬の世界に関して言うと、すでにそれまでなかったような事態もあちこち起こってきています。

 たとえば、多くのファンもよく知っているように、現役のジョッキーや調教師、厩舎関係者でもそのようなブログを持っているのはすでに珍しくない。たとえば、前後してこのところ競馬関係のニュースとしてとりあげられた、三浦皇成騎手とタレントほしのあきの「熱愛」報道にしても、所属厩舎の調教師のブログでの発言などが二次的にとりあげられ、表のメディアとのやりとりの中でさらにニュースが拡散してゆきましたし、大きなレースでの優勝騎手のメディア上での身振りや発言がネットの掲示板で揶揄され、それに対して当人がまたコメントをブログで出してさらに事態が厄介に、といったことも、最近ではままあること。

 本来表沙汰になりにくいはずのインサイダーの話、内輪の事情がそのようなウエブ経由でうっかりと流出してゆく、そのような情報環境になってきているわけで、もちろん競馬に限らず、政治であれ芸能界であれ、あらゆる領域に平等に訪れている事態です。

 気になることというのは、このような環境における「公正競馬」のタテマエのコントロールが果たしてどういう基準で成り立っているのかいないのか、それが未だに明確にされていないらしいことです。何も杓子定規に、事前の予想行為にあたる、などと目くじら立てろ、と言っているわけではない。育成牧場のスタッフの日記などには、なかなか楽しいものもありますし、また牧場を訪れたファンの素朴な感想や印象なども、いまどきの競馬がどのような想いと共に受け入れられているのか、を知る意味でも参考になります。個人的にはあまり好きではないPOG関連のサイトでさえも、いろいろ勉強になるものは少なくない。要は情報を受け取る側、発信する側の知性と良識に基づいた取捨選択、メディアリテラシーの問題になるわけですが、ただ、「公正競馬」というタテマエのもとで成り立ってきた「戦後」のニッポン競馬にとっての「公正」とは、ほぼ主催者側が万端準備し、あらゆる可能性を想定した上で制度を整え上から一方的に与えるものであり、今のこのような情報環境での相互性などは本質的に想定されていません。ファンやその他おおぜいの、時には競馬に関係のない人たちの視線や批評眼も含めて、それらの関係の中であるべき「公正」を確保してゆく、といったメディアポリティークス、メディアコントロールの視点も媒介にした、新たな時代の「公正競馬」のあり方もまた、本腰入れて議論を始めるべき時期になってきています。