「貧乏」は存在する

 ニートだ、ワーキングプアだと、話題の「格差」をめぐってはなぜか、カタカナ言葉ばかりが飛び交います。

 問題は正しく「貧乏」のはず。ただ、その「貧乏」がこれまでとは異なっている、そのことを政治家も官僚も、学者もマスコミも、誰も穏当な言葉にすることがしない、できない。だから、慣れぬ横文字から引っ張ってきてむりやり現実に当てはめようとするばかり。かくて、言葉と現実は肉離れを起こしたまま問題は先送り、その現実を生きざるを得ない等身大の気分だけはずっと宙ぶらりんでさまよっています。

 食えない、住むところもないような「貧乏」、だけが問題ではない。そんな「貧乏」観からはずれた、しかし確かにある眼前の事実。携帯やパソコンを操り、衛星放送の受信できるテレビを持ち、エアコンや給湯器を備えた部屋に住み、軽自動車の一台も乗り回し、それでも、たとえば身の回りに百円ショップで買ったものや、コンビニやスーパーのプラスチックのトレイばかりがうっかり増えてゆくような、そんな種類のニッポンの「貧乏」、「豊かさ」の中の新たな貧しさこそがもっと正面から言葉にされるべき、民俗学者はそう思います。

 高度経済成長の「豊かさ」がどのように日々の暮らしを変えていったのか、その結果どのような「現在」に至ったのか、わがニッポンの知性ってのは、それを落ち着いて言葉にする作法を見失っています。「文科系」への信頼の失墜。それは〈いま・ここ〉が野放しにされ、制御不能なまま放置されることでもあります。

 「貧乏」は存在する。ただし、これまでのような形ではなく。公共事業と補助金で食いつなぐしかなくなった地方と大都市圏との「格差」の来歴さえ、誰もつぶさに教えてくれない。公務員だけが「勝ち組」とされる社会など、「美しい国」になれるわけがない。そう、もっと言葉を、身近で等身大のもの言いを、です。