「興行」の〈リアル〉はどこへ?

今度は大相撲です。何が、って「八百長」の話。週刊誌の「八百長」報道に相撲協会名誉毀損で正式告訴。賠償請求額が四億三千万円というからおだやかじゃない。一部週刊誌が以前からずっと「八百長」を問題にしてきたのは知ってますし、それも彼らの稼業。と同時に、対応せざるを得ない相撲協会の立場も理解できる。だから、ことの真偽にはあたしゃ、正直あまり興味がありません。

ただ、気になっていることがひとつ。その「八百長」というもの言いを振り回して批判している側は、さて、ならば相撲がどうなることを望んでいるのだろう、ということです。毎回毎回ガチンコでぶつかり、その結果、ケガをしたり壊れたりする力士が続出するようになるのも仕方ない、ということでしょうか。昔のように春と秋だけでない通年の六場所興行、その間に巡業もはさむ過酷なスケジュールで仕事として相撲を見せてゆかねばならない側を思えば、そう何でもかんでも「八百長」と言いつのって批判するのも、なんだかなあ、です。

「興行」というもの言いにはらまれている微妙な“あや”や“呼吸”といったものが、忘れられているような気がしてなりません。敢えて言い換えれば「ショウ」でしょうか。相撲の地方巡業に今もつきもののしょっきりを始め、相撲はまさに「ショウ」でもあります。ならばその興行として、ショウとしての「公正」とはどういうものか、というのが、実は今回、大きく問われていることです。

「興行」は一発勝負じゃない。ショウ・マスト・ゴーオン、続けなければならない仕事、稼業でもあります。相撲も野球も、サッカーも競馬も、「プロ」スポーツとはそういう側面を必ず持っている。そんな興行も織り込んだ上での「プロ」の技、真剣な「ショウ」の〈リアル〉を愉しむ器量さえも、あたしたち観客が失ってしまっては、それこそ野暮の骨頂。野暮な客しかいなくなった興行ほど、つまらないものはありません。