「いじめ」の国際化?

つくづくいやなご時世だと思う。「いじめ」まで国際シンポジウムときた。背景はよく知らないけれども、いまどきの文部省あたりが後押ししてでっちあげた代物でなけりゃ幸いだけど。

何度も言ってきていることだけど、また言うぞ。「いじめ」はまず徹底的にナショナルな問題である。今のこの「日本」という国と社会と文化の脈絡において語り、考えられるべきテーマである。いかにしんどくても第一にそこにかじりついて言葉にしようとする性根も目算も共有されていないままの議論は、いかにそれが善意でなされていたとしても、結果としては構造の中で「いじめ」を助長する側に絶対に回る。

同じ日本の中で起こっている「いじめ」の事例ですら、その背景は千差万別。だからこそひとくくりに「いじめ」なんてもの言いを持ち出すのはひとまず棚上げにして議論した方がいいんじゃないの、ということなのだ。もちろん何の効果もなく、未だに「いじめ」報道はメディアがお手軽に正義を背負う絶好の糸口になっている。

「いじめ」もそれと同じで、どれだけ切実な問題でも、それぞれの具体的な文脈や背景とつぶさに取っ組み合う構えのないままでは、いきなり「地球環境」や「いのち」や「ネットワーク」といった大文字のもの言いに言葉がかっさらわれちまう。

そんなもの、いきなり外国に学んでどうすんだよ。ノルウエーやオーストラリアやオランダが「いじめ対策先進国」っていうけど、どういう理由からなんだろ。他の国、たとえば韓国やタイやナイジェリアやコスタリカマラウイやにはいじめはないのか?

そんな状況で今度は国際シンポジウムときた。何を見ても「いじめ」に見えるというアタマの構造になっちまうと、そりゃもうこういう方向に行くのは理の当然。エイズが何やらおしゃれな脈絡に乗せられてアートがらみ、ファッション関係の新しいもの言いのようにして流通されるようになっていったのとどこか似ている。なにせ国際シンポのネタになるんだもの、「いじめ」はきっとナウいんだ、てな勘違いだって出かねない。それこそ英語で「被害者」が得意満面にスピーチしたりしてさ。そうなるときっと、人気稼業の芸能人あたりからは「あの〇〇が『いじめ』体験を衝撃のカミングアウト!」てなうわついたもの言いが週刊誌に踊ったりしてね。

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*1よその国、他人の社会に自分たちとよく似た現象を発見する、そのことは確かに愉快だ。素朴に「何だかんだ言っても人間みな似たようなもんだよね」的な肩叩き合いになってゆくのもある程度は致し方ないと思う。共通しているように見えること、同じだと思えることに早上がりする傾向が強まっている。


「みんなで考えましょう」というもの言いがある。テレビのニュースキャスターなんかは連発しているし、新聞記事にも結構見かける。まとめのもの言いとしては最も無難なものだろう。その意味での効用は最低限認める。だが、これが出ると、もともとどこまでが他人の問題でどこからが自分の問題だったのか、その遠近法がいきなり狂っちまう。

*1:原稿はここまで。以下は草稿段階で落とした部分。