書評/J・ドレイプ『黒人ダービー騎手の栄光』

Black Maestro: The Epic Life of an American Legend

Black Maestro: The Epic Life of an American Legend

 

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 いい記述だ。翻訳もいい。いや、原文を読んだわけではないけれども、馬のまわりに生きる連中のはらむあの空気や気分、身のこなしからその場の匂いといったものまでが、おそらくできる限り微細に、ゆったりと紙の上に刻み込まれているはずだ。でなきゃ、こんなせりふが、さらっと書きとめられるはずがない。

「競馬場じゃ人はみんな平等なんでして。人が平等になる場所が二つある――一つは競馬場で、もう一つはほとけが眠る土の下。」

 ジミー・ウィンクフィールド。ケンタッキー生まれのジョッキー。黒人。十九世紀末に生まれ、二十世紀の前半に活躍、アメリカから革命前の帝国ロシアに渡り「黒いマエストロ」と呼ばれた。革命で追われてポーランドからフランスへ。アメリカ七州とヨーロッパ七カ国を股にかけ、黒人への差別にあらがいながら、競馬こそが自由、神様がくれた稼業と信じて生き抜いた、その記録だ。これまで表だって語られなかった彼の生の軌跡を、チームを組んで数年がかりで掘り起こした著者たちの苦労は、間違いなく報われている。 

 競馬に国境はない。あるのは、やくたいもない政治のきまりごとが作り出す窮屈な壁や障害だけだ。それをいつも身ひとつでかろやかに乗り越えてゆくホースマン=「うまやもん」たちの自由闊達は、日本にもまたあり得た。戦前、満州樺太、上海などで競馬をしてきた競馬師たちはいくらもいた。ただ、彼らの生を、その軌跡をこのように紙に書きとめようとする者がいなかった、それだけだ。だが、その「それだけ」が、乗り越えようのない距離を、また眼前の競馬にもたらす。役人が「国際化」に浮かれて衰退しつつある日本競馬に最も欠けているものが何だったか、心ある競馬好きならば読み取れるはずだ。