浦安、そして船橋――「聖地」TDL①

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 東京駅の新幹線ホームで、あるいは羽田の出発ロビーで、はたまた山手線の雑踏の中で、あのでっかい耳のついたミッキーマウスの帽子をかぶるニッポンのコドモを見るのは哀しい。

 いまどき学生服やセーラー服を着た学校の、ということは当然それだけイナカの子たちの、修学旅行とおぼしき集団がひきずるようにぶら下げて歩く、ゴミ袋と見まがうあの大きな色つきビニール製みやげもの袋に「TDL」のロゴがくっきり入っているのを見るのは情けない。

 どこからどう見ても東アジアの扁平ヅラ、いまどきのこととて栄養状態だけは無駄によく、飢えたことなどあるわけもなし、その分ココロのかたちはほぼ国籍不明、まさに「地球市民」なたたずまいでシアワセそうに闊歩している風景。

 この心萎える感じは、植民地の土人を眺める気分に近い。あるいは、鹿鳴館の猿真似を目の当たりにした当時の西洋人にも、おそらくは。

 彼らはそれを「ミッキーさん」と発音する。「さん」をつけることで立ち上がる違和感は格別。それはガイジンが日本人を呼ぶ時に、苗字にとにかく「さん」をつけておけばいいと思っての「○○サン」というあの発音、あの気分にきっとかなり近しい。

 とは言え、ディズニーランドの横暴が帝国主義だの何だの、そんな能書きなんざすでに耳タコ。ひと昔前のサヨクが目に見えるビンボと抑圧がなくなってきたのにつれて、今度は文化侵略だ何だと新たなメシのタネを探し始めてこのかたの定食メニュー。理屈と膏薬は何とやら。かくて、コカコーラとマクドナルドとミッキーマウスは「米帝」の象徴となった。いまさらさかしらにそんな理屈をこねたところで、それがどうした、この植民地のシアワセは微動だにしない。土人万歳。ドキュン上等。眼前の事実はその程度に〈リアル〉だ。

 オーライ、ならばそのシアワセってやつと、いっちょがっぷり四つに組んでみようじゃないか。いまのこのニッポンをいちばん誠実にコトバにしようとするためには、まずそのへんから始めるしかない。とりあえずは、あののっぺりと広がる土地、場所の手ざわりから。

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 千葉県浦安市――こう書いてようやく、ああ、千葉県だったんだよな、と確認する。

 いまや、浦安とはディズニーランドの別名であり、それはかなりの部分で「東京」のイメージを支えていたりもする。他でもない、「東京ディズニーランド」なのだ。それはあの地の果てのような三里塚台地の空港を「新東京国際空港」と名付けるのと同じ、それが「東京」のせいなのか、それとも千葉が悪いのか、すでに事態はさだかではない。

 だが、いずれにせよ、かつての浦安には、また別のイメージもまつわっていた。

 たとえば、山本周五郎の『青べか物語』。海苔舟の「べか」をタイトルに、若き日の周五郎が暮らした昭和初年の浦安の〈リアル〉が立ち上がる。それは浦安に限らず、船橋や木更津、いや、東京側でも芝や大森などにまで当然共通する、ある暮らしの匂いだった。もちろん、刊行されたのが戦後、昭和三十年代半ば、あの高度経済成長がうなりをあげて稼働し始めた頃だったこと、そういう〈リアル〉の中にある当時のニッポン人たちのココロにこそ、それらの記述はぐっと響いたことも忘れてはならない。

少し前まで、そこは「陸の孤島」と呼ばれていた。まわりを海と水路で囲まれ、船でしかアクセスできない場所。何も実際の島に限らず、半島や岬まわりに貼りつくように点在していたニッポンの漁村というのはかつて、どこもおおむねそんなもの、だった。

 それが東京のお膝もとにも平然とあった、そのことが多少意外だったのだろう。もともと運河と舟運によって成り立っていた水の都、江戸=東京が、その「江戸」の記憶のある部分を濃厚に宿したまま近代に取り残されていた、それが浦安であり、あるいは大森だった。

 身のまわりの風景が変貌し始める、その最初の兆しの中に、「歴史」や「文化」に対する視線というやつはようやく、宿ったりする。ふだんそんなものは知ったこっちゃない。かたちが変わり、何かが失われ始めたのかな、と思った瞬間、そんな問いがうっかりとココロをとらえる。ナショナリズムアイデンティティもまた同じ。何かに蹉跌し、立ち止まらざるを得ないことがあった時、人はおのれが何ものか、考え始める。


【TBSスパークル】1968年 千葉 浦安 ベカ舟 舟溜まり ドッグ 境川 清瀧弁財天 鳥居

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 あるいはまた、かつての浪曲師たちの間では、浦安はまた、特別のイメージで語られていた。

 浦安の寄席がいちばんこわかった、という話は、文字の記録でも口述でも頻繁に出てくる。なにせ、客が荒っぽい。いや、当時のこと、漁師町一般にそうだったのだが、それでも浦安はまた格別。気に入らなかったらやじり倒され、ものを投げられ、ひどい時には舞台から引きずりおろされテーブル掛けにションペンひっかけられるようなことも珍しくなかった。逆に、ウケたらしめたもの、やんややんやの喝采はもちろん、おひねりも雨あられと飛んでくる。それだけ「芸」に対して厳しい視線、観巧者の場がそこにあった。

 そう、少なくとも関東一円で、当時、一番厳しい寄席が浦安だった。そして、浪曲浪花節とは、そんな近代の切羽に身を置くことになった漁民と都市の雑民=プロレタリアート、の気分に支えられたまごうかたない近代の国民芸能、だった。それはアメリカにとってのブルースと、太平洋をはさんで正確に対応する。いずれ疾風怒濤の近代に身体ごと対峙する中で勃興した国民芸能を支える最も熱い「場」だったことは、いまやハイパー植民地、ニッポンドキュンの聖地と化した浦安の、隠れた栄光である。

 そんな漁師町の浦安が、漁業権を最終的に放棄したのは71年。当時、すでに沖合の埋め立て事業は始まっていて、ひとまず四年後の75年に完成。地下鉄東西線もその少し前、69年に開通している。埋め立て地の上の一夜城、蜃気楼のごとき海上楼閣、東京ディズニーランドの出現までまだ14年。しかし、地ならしはもうできたも同然だった。

 現在、浦安市は自己財源率は全国屈指、住民の年齢構成も日本全国の趨勢とは逆に、若年層比率が高いという。首都高湾岸線から西へ向かうといやおうなしに目に入る、まるで博物館の展示模型のような建売住宅の群れ。ひと区画せいぜい50坪内外、ウワモノ込みで3000万から4000万、三十五年ローンの生命保険と引き換えに手に入れるそんなシアワセが佃煮のように広がっている。あそこに凝集してきた住民たちが、そんないまここの浦安を底上げしてきた。そして、それらの街なみを抱き込むように広がる「聖地」ディズニーランド……いや、今や「ランド」ではなく、新たにできた「シー」も含めて「リゾート」と言わねばならないらしいが、高度成長以降のニッポンの体験せざるを得なかった〈リアル〉を、何か悪意が介在したかのようにそのまま、わかりやすく体現しているような場所。 とは言え、何ごとも兆しはある。20年をかけた「聖地」出現の気配、そのはじまりはいきなり浦安だったわけではなく、その少し西側、船橋からだった。

[昭和47年3月] 中日ニュース No.950_2「消えゆくベカ舟」