ボランティア=義勇兵、である

 

 

 

 ボランティア、なんて呼ぶから心得違いも出る。かつては「義勇兵」と訳されていました。「義」に勇む。いい表現じゃないですか。こういう翻訳を可能にした明治時代の日本人ってのは、まっとうな国際感覚してたんだなあ、と思います。

 義勇兵なんだからそりゃ危ない。いくら憲法九条を日夜勤行、信心深く唱えたところで、世界はそんなこと知ったこっちゃない。死ぬことだってある。ましてや、渡航危険度世界トップクラスのアフガン。そんな土地で敢えて義勇兵として長年活動してきた中、今回遭難した伊藤和也さんは、彼の「義」に殉じたと言えましょう。農業技術の指導をしていた由。属していた団体はもともと医療活動から始まったNGO。「平和憲法」に信を置いた「義」によるボランティアだからこそ地元の人々の「信頼」を得ていた、それはある程度事実でしょうし、何より、その行為に向かわせるものはひとまず「善意」、ではありましょう。

 ならばなおのこと、そのボランティア=義勇兵の名にふさわしい程度の軍事的な知識や訓練を施してから送り出す、そんな選択肢は全くなかったのでしょうか? 丸腰の「善意」と、地元民との「信頼」だけで身を守れると信じるのはご自由ですが、「義」と「善意」だけで同胞をこの未だろくでもない世界に放り出す、そのことに対する責任感の所在ということになると、はて、どうもよく見えてきません。

 「アフガニスタンにもその国民にも今回の事件についての糺弾はしない」と、当のNGO幹部は海外メディアの前で英語でタンカを切ってみせました。その表情に、紋切り型な外務官僚の答弁などとまた別の意味での、「善意」で人を死地に追いやる立場の「いやな感じ」を抱いたのは、さて、あたしだけでしょうか。