田母神騒動の本質

 現役の航空自衛隊幕僚長が、個人名で政府見解に反する歴史認識を示した「論文」を発表したことで物議を醸しています。メディアでこのところ騒がれている、田母神幕僚長の一件。当人は即刻解任、更迭され、なおかつ国会で参考人招致まで受けて、でもその場でも全く怖めず臆せず、悪びれることなく自分の主義主張を再度、堂々と披瀝、むしろ質問糺弾する側の野党議員の方がしどろもどろで、少なくとも上演としては幕僚長の優勢勝ち、だったような。このへんからもう、トホホ感横溢、ではあります。
 この一件、主にふたつの争点で取りざたされています。ひとつは「シビリアンコントロール」という点、もうひとつは「個人の表現の自由」という点。で、前者に反する、というので政府は更迭を決断したわけですし、一方後者は当の幕僚長自身がこの立場に拠って「何が悪いんでしょうか?」状態。もちろんこれを擁護、応援する世論というのもいまどきのこと、以前よりずっと強い声になってきているのも事実ではありますし、また当然、「歴史認識」という点で許し難い、こんな意見を持つこと自体が言語道断、という「良識」も相変わらずあるわけで、このあたりいくつかの焦点をめぐって問題の位相が錯綜しています。
 あたし的には単純明快、中身の是非以前にこれは明らかに政治的発言なわけで、現役の職業軍人(でしょう、やっぱり)の、それも幕僚長なんて高級幹部が個人名でうっかり表明しちゃいけない、まずはそれだけです。その意味で、麻生首相以下、与党内閣の判断はとりあえず妥当。意見の内容がどうの、論考の水準がこうの、といった問題じゃありません。制服着た現役が政府見解に(それがどんなに不合理なものだろうが)に真っ向から反する発言をすること自体、不用意不見識だということです。
 これはまだほとんど言われていませんが、かの幕僚長の中では、役割としての「軍人」、職業人としての意識を、「個人」としての意識が呑み込んでしまってたんだなあ、ということを感じます。たとえば最近、裁判の事例で判決に際して裁判長が何やら説教めいたことを垂れるのが増えてきていますが、そういう風潮ともどこかで通底しているような。つまり、「個人」として素朴にもの申したい、何か言いたい、という欲望が、どういう理由でか職業人として守るべき「タテマエ」を知らない間に凌駕してしまっている。「ホンネ」(とされるもの)は常に正義であり、それを「個人」の名の下に表明することが「表現の自由」だ、と。まさに戦後民主主義の極相が、官僚や政治家はもとより、いまや法曹や軍人、医師などの領域にまであらわになり始めた、ということでしょうか。
 ただ、彼らが職業人としての「タテマエ」を守ってみせる、そこで頑張れなくなっている理由には、その「タテマエ」の向こうに「ホンネ」を忖度してやれるだけの世間の側もなくなってきていることもあるはずです。みなまで言うな、おまえのキモチはわかってるぞ――それがあるからこそ、「軍人」も軍人でいられるわけで、いずれにせよ、仕事をめぐる世間との信頼関係の変貌というのももうひとつ、今回の騒動に隠された大きな問題だと思っています。