忘れられたもうひとつの馬、そして競馬――坑内馬、アラブ競馬、他

坑道を石炭はこびつつおもよせて
いななき交わすよごれ馬はも


死にてより時はすぐれど馬小屋に
なほ棄てられしよごれ馬はも


死馬のあたまおしさげ小台車に
馬蹄ははこぶつば吐きつつ *1

 明治末から大正初期にかけて、雑誌『アララギ』に投稿された山口好という炭鉱労働者の短歌です。作者自身、九州の炭鉱に生まれ、若くして亡くなった人だそうです。

 ここで歌われている馬は坑内馬。炭鉱の坑内で使役されていた馬で、狭い坑内で働かせるために多くは体格の貧弱な馬が送り込まれていた由。もちろん、陽も射さず換気も悪い劣悪な環境で酷使されますから短命で、坑内からあがって野外へ出ると新鮮な空気がうれしいのかみないななきあった、と当時の記録には記されています。最近、美唄や歌志内あたりのB級グルメで「なんこ」というのがありますが、あれはもともとこれら坑内馬の内臓を味噌で煮込んだもの。共に働いて斃れた馬たちの供養でもありました。

 馬もまた、人と共に働いた。同じ家畜とは言え、牛に比べてなおその「使役」の部分での親密さは格別なものがあったようです。そういう感覚は、同じ大きな生きものであっても、「個」として見るかどうか、それだけこちら側の心理や感情といった「内面」をそれらに投影する度合いが高いかどうか、に関わってくる。とは言え、内地と比べて馬が日常にいる風景となじみ深かった北海道ですら、今や馬がそこにあたりまえにいた頃の記憶は薄れ始めています。と同時に、共に働いた、という部分の共感や同情、連帯感といったものもまた、馬という生きもののイメージからも蒸発し始めているようです。

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 働く馬とは日常ではまず農耕馬、使役馬、馬車馬の類でした。軍馬というと、騎兵が全盛の頃は戦場を駆け巡る軽種馬でしたが、後には武器や荷物を運ぶための輓馬や駄馬も含まれるように。これらの中には日本釧路種、という十勝で開発された独自の血統までありました。競走馬は文字通り競馬に使われる馬ですが、しかしその競馬自体、今みたいに平地の駆けっこというだけでもなかった経緯もありました。このように「馬」という言葉ひとつとっても、その向こう側の「歴史」はすでに遠景です。

 そのような意味で競馬もまた、歴史の中に繰り込まれ始めています。眼前に走る馬はただの競走馬でしかなく、日々の暮らしの中で共に働く可能性もある大きな生きもの、ではすでにない。ましてゲームその他で育った若い人たちにとっては、それすらあらかじめヴァーチャルな、モニタ画面の向こう側の現実としてしか認識されていないかも知れません。
そんな現在、われわれは今ある競馬とは別の、もうひとつの競馬、があったことを忘れています。忘れている、というか、もしかしたらあらかじめ憶えてもらってすらいなかったかも知れない。その程度になかったことにされている、すでに歴史の彼方に小さい遠景でしかなくなっている競馬。競走馬の代名詞になっているサラブレッドを使わない、もうひとつの競馬、です。

 ばんえい競馬? それもあります。国内はもちろん、世界でもたったひとつ帯広競馬場でだけ今も元気に開催している、あの大きな馬を使った重いそりを輓く競馬。あの「ばんえい」というもの言い表記も、できれば「輓曳」と古い漢字表記にしておいてもらいたいな、と個人的には思ってるのですが、それはともかく。なるほど、あれも確かに今ある普通の競馬ではない競馬、ではあります。

 それ以外にも、違うかたちの競馬はこの国にはありました。たとえば、繋駕速歩。この「けいが」という発音の表記も「輓曳」と同じく古いものです。ソルキーという軽い馬車を曳かせた馬を駆け足でなく、速歩で走らせる競馬。世界の多くの地域では未だに盛んですし、昭和30年代後半までは今のJRA(中央競馬)でも番組にあったのですが、今ではもうよほど好きな人でないと、知識としてすら記憶されていないでしょう。

 そんな中でもうひとつ、見事に忘れられている競馬がある。忘れられているだけでなく、意図的になかったことにすらされている。同じ平地の馬場での馬の駆けっこでありながら、サラブレッドじゃない馬を使ってやられていたもうひとつの競馬、アラブ競馬です。

 「アラブ」と呼ばれる馬種を使った競馬。純粋種じゃなく、正確には「アングロアラブ」と呼びます。純粋アラブ種とサラブレッドとの言わば雑種。フランスで生産が始められたと言われますが、このアングロアラブ種、かつて軍馬華やかなりし頃は将校乗馬として重用されていました。なにしろサラブレッドが配合されているので脚さばきも軽く、動きも優美で軍人たちに好まれた由。「軍馬」とひとことで言っても、騎兵以来の乗用馬としての誇りもはらんだ輝かしい馬種だったようです。

 戦後、日本の競馬が軍馬改良のための「国策」という戦前までの縛りから解放されたところでもう一度、戦災地復興などの目的で再開しようという話になった時、戦争で国内の馬資源が足りなくなっているのでアングロアラブ種を競走馬に積極的に転用、活用したというのが、このアラブ競馬のおよその経緯です。

 戦前の国営競馬では、主にサラブレッド種の競馬をやっていました。厳密な血統管理の上で人為的に改良されてゆく種としてサラブレッドの飼養自体、三里塚御料牧場小岩井農場などごく一部の限られた牧場でやられていた特殊なもので、またそんな希少種を使う競馬だから「軍馬」として優秀な血統を選抜するための必要悪として例外的に存在を許されていました。

 ただし、それ以外の競馬、いまの地方競馬に連なるいわゆる草競馬では、馬種や血統などの管理制御は相当にゆるやか、はっきり言って「何でもあり」な状況もありました。場所によっては農耕馬に毛の生えた程度の普通の〈その他おおぜい〉の馬たちが、同じくそこらの普通の馬好き、同好の士の手で調教され、運動会さながら駆けっこをしていた、そんな小さな競馬もまた日本中にありました。今ある地方競馬の多くは、そんな小さな競馬のなれの果て、おそらくは最期の姿です。またその分、何もサラブレッドだけが馬じゃない、といった感覚も長くそれらの仕事の現場には残ってきたようです。

 ともあれ、戦後の日本競馬の半分は、そんなアラブ種の競走馬が支えてきました。特に、地方競馬はアラブなくして開催できなかった時代が長く続きました。競馬場だけでなく生産地も同じこと。サラブレッドは繊細で神経質で養うのにも手がかかり、何より値が張ったので初期投資が必要で零細農家では手が出しにくい。けれども、アラブは比較的おとなしくタフで飼養管理にもそれほど手がかからなかったので、競馬の隆盛と共に競走馬需要が急増した高度成長期には、折からの減反政策ともあいまって、道内でも半農半馬のような形でアラブの生産を手がける小さな馬産農家が増えてゆきました。むしろ、馬を扱い生産する農家は戦前から、道内では十勝を中心にたくさんありましたが、サラブレッドを扱う農家は一部の例外的なものでした。今ある日高の「馬産地」の、サラブレッドがたたずむ風景も、実はそのような過程で作られてきたものです。

 その時代、1頭のアラブを生産したのが縁でそれが競馬場で走り、好成績をあげ、その兄弟姉妹や一族もみなよく走り、繁殖牝馬種牡馬になってもまたいい仔を出し……そんなサイクルをたどってみるみるうちに大牧場になってゆく、言わば「わらしべ長者」のような図抜けた成功譚も現実のものになりました。タガミホマレ、イナリトウザイ、ミスダイリン……それら当時のアラブの名馬たちの名前と共に、それをきっかけに牧場を大きくしたそれら「アラブのわらしべ長者」たちの名前は、今でも日高界隈では根強く記憶されています。当時言われたという「アラブカネ持ち、サラ貧乏」というもの言いは、決しておおげさでも、また華やかになりつつあったサラブレッド中心の競馬へのアイロニーでもなく、高度経済成長期から70年代にかけての生産地の拡大期において、リアルな現実を反映するものでした。

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 そんなアラブ競馬も、今ではもう事実上の終焉を迎えています。

 JRAがアラブ番組を廃止したのが1995年。それでも地方競馬ではアラブ資源が重要という認識が農水省にもJRAにもあったのですが、当の地方競馬が右へ倣えでそれに追随、雪崩れ現象は生産地にも波及してアラブ資源の淘汰が進行、ついに2005年の福山競馬場を最後にアラブ独自の番組編成はなくなりました。今いるアラブ競走馬たちはみな、ですからサラブレッドと混合の競馬を走っています。

 現在、アラブの現役競走馬は全国で6頭。広島県福山競馬場に5頭、門別競馬場に1頭、これだけです。いずれも高齢で、おそらく向こう1、2年のうちに姿を消すことになるでしょう。もともとサラブレッドに比べてスピードに劣り、なおかつ今や高齢馬ばかりのアラブ現役馬たちの姿を競馬場で見られるのも、あとわずかです。

 とは言え、実際に馬を眼にしてもサラブレッドとの違いはわかりません。われわれ素人だけでなく、プロの調教師や騎手が見てもまずわからない。かつては、もっとアラブらしい体型というのもあったといいますが、70年代あたりを境に大きく変わってゆき、牧場で一緒に放牧されているのを見ても見分けがつかなくなってゆきました。

 ですから、今や「アラブ」と言ってもそれは競馬新聞の馬柱での、血統表記の字面だけのこと。目の前にいる大きな生きものとしての馬、としてはサラブレッドと何も変わるところはない。ばんえい重種馬のような巨大な身体でもなく、またある種の乗馬のような変わった毛色をしているわけでもない。ただの軽種馬、ほんとに「馬」でしかない。

 けれども、そんなただの「馬」でしかない〈いま・ここ〉の向こう側に、確実にある歴史が、現在に連なる来歴が存在する。戦後の日本競馬を底辺で支えてきた馬種として、競馬が間違いなく地域に利益を還元し役に立っていた時期の、その貢献の半分に間違いなく寄与してきた生きものとして、きちんと今のわれわれの記憶にとどめておく必要がある。単なるノスタルジーや、消えゆく存在への愛惜、といったありがちな水準だけでなく、かつて共に働き、それぞれの土地で未来を切り開く仕事に従事してきた大きな生きものの、種としてのひとつの転変を引き受ける責任という意味においても、「忘れずに記憶しておこうとすること」、そのために「かたちにとどめて記録しておくこと」の大切さを、改めて考えなければ、と思っています。

*1:馬「丁」、の誤植ではないかと思われるが、留保。