ナンシー関 追悼 for 産経新聞

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 「オレ、ナンシーの葬式には出そうな気がするなあ」

 そんなことを本人によく言っていました。朝、彼女の担当編集者から訃報を聞かされて、まずそのことを思い出しました。今から6、7年前、某女性月刊誌連載の対談で毎月顔をあわしていた頃のことです。

 「ナンシーに顔を彫られると不幸になる」などというありがたくない噂が立ったのも、その頃です。実際、当時はあたしも公私共に荒れ模様で、「なんか、あたしと仕事すると大月さんロクなことないっすねえ」と、あきれられていました。時事問題をネタにした対談でしたが、彼女のあの調子で毎回やりこめられながらも、彼女の健康状態はずっと気になっていました。実際、あのガタイ、あの風体でしたから、こりゃ心配するなという方がムリです。

 訃報は常に大文字です。彼女もまた、「ユニークな消しゴム版画家」「辛口のテレビコラムニスト」、といったもの言いで語られ、追悼されるのでしょう。もちろん、それは間違いではない。世間にとってのナンシー関とは、おおむねそういう書き手ではありました。

 でも今、ナンシー関がいなくなった、ということは、単に雑誌界隈がおもしろくなくなる、といったこと以上に、実はかなり大きな思想的事件だということを、心ある人たちはそれぞれしっかりと感じているはずです。それはたとえば、三島由紀夫が割腹自殺し、連合赤軍あさま山荘で籠城し、オウム真理教が無差別テロを展開した、それらとある意味匹敵するくらいの大きな時代の転換期を象徴するできごと、になるはずです。

 彼女が斃れた、ということは、80年代出自の価値相対主義思想の、その最良の部分が失われた、ということに他なりません。笑わないで下さい。これは本気です。そのことの意味を、これからあたしたちは深く思い知ることになるはずです。