「リメディアル」のはらむ,とりとめなくも壮大な射程距離

 

 「リメディアル教育」というもの言いをちゃんと見知ったのは,恥ずかしながらここ数年のこと。97年の春,思うところあって当時勤めていた大学というか共同利用研を辞めてこのかた,丸10年の野良暮らしの後,縁あって今の職場にまた腰据えるようになったのをきっかけにいまどきの大学の現場,それも地方の零細文科系私大が現在さらされている課題に否応なく直面せざるを得なくなり,おっとり刀で情報収集してゆくうちに眼に耳に流れ込んできたような次第。

 もともと「教育」と名のつくガクモンにはとんと縁が薄く,というかむしろ敬して遠ざけ,それまでも眼前の学生若い衆を相手に日々の仕事として「大学」で「教える」ことをそれなりにこなしてきたつもりではあったけれども,そういうおのがなりわいを改めて「教育」という枠組みで考えることはしてこなかった。だから,専門的な議論に寄与できる前提も能力も当方,申し訳ないけれども持ち合わせがない。こと「教育」については大文字で何か言える分際ではないと深く自覚しているのだ。

 とは言え,「教育」はともかくその手前の「リメディアル」というもの言いには,それなりの想いはある。なので,そこに重心をかけながら,思うところを少しお話ししてみたい。     

 「リメディアル教育」に対しては昨今,大学の現場はもとよりそれらを取り沙汰するようになった世間の側からも,それまでの学校教育の階梯,義務教育から高校までの課程で不幸にしてうまく身についてこなかった学力について大学でどれだけ補修してゆけるか,といったある意味「いまどきの学生若い衆補完計画」みたいな内容で理解されているフシがある。いきおいそれは学生一般というよりも,その中でも「デキの悪い」「底辺」「Fラン」の大学生が対象のこと,といった理解にも連なっている。だから,テレビや新聞雑誌その他,世間を相手取るメディアの舞台でこの「リメディアル教育」がとりあげられることはあってもどこかよそごと,世間一般最大公約数の意識としては,ああ,そういう気の毒な若い人たちに対する特別な手当ての話ね,といった「善意」がらみの勝手な理解があらかじめ手枷足枷のごとくまつわっているように感じる。言い方は悪いが,まるで生活保護や非正規雇用の問題などと同じような箱に入れられ,大文字の「善意」のルーティンで淡々と他人事で処理されてゆく,ありていに言ってそんな印象なのだ。     

 しかし,ここ10年足らず,大学の現場に復帰して以降のささやかな見聞,それも北海道といういろいろ固有の問題を抱えている地域での個人的な経験の限りでも,この「リメディアル教育」というもの言いの内実はそんなありがちなお助け施策,デキの悪い学生若い衆への補修事業などにとどまるようなものではない。いや,そのような補修が具体的に必要なのは現状言うまでもないのだが,しかし,と同時に,そもそも「大学」という教育機関自体が,「戦後」の過程でそれなりに機能してきたらしいこれまでの習い性のままではもはや立ちゆかなくなっているという認識をまず世間との間でちゃんと共有した上でないと,たとえ全国平均にせよ進学率50%を越える状況での,もはや半ば義務教育ですらあるかも知れない高等教育というねじれた命題と直面せざるを得ないいまどきのこの国の大学をめぐる本質的な難儀は,国民生活全体の将来にまで関わる切実な問題として理解されないままだろう。          

 たとえば,ごく素朴な意味で母語としての日本語の運用能力に決定的な不自由を抱えたまま,高校の教師や保護者などのすすめるまま,考えなしに大学まで流し込まれてくる若い衆がこれほどまでに増えていること。それは学力の問題というよりも,そのような仕組みがシステムとしてすでにできあがっていて個々の意志などでは抗いにくい「自然」になっているゆえの不自由といった事情が大きいように見える。

 その「自然」に応じて抵抗なく泳ぎ,流されてゆくために最も合理的な身振りだけが「正解」として想定され,それ以外はあらかじめなかったことにされている。ことばを介してまわりの人間と関わり,生身の対面関係の個別具体をおのが身の裡,身の丈で織り込みながら日々の経験を糧として少しずつ成長してゆく,そんな当たり前だったはずの社会化の過程自体が現実と乖離した絵空事になってしまっているらしいこの現状は,単に「教育」やそれらの結果としての学力の問題などを超越した,より深刻で焦点深度の深い社会文化的な問題に向かって開かれている。

 そんな現状に対するとりあえずの作業としては,まず声を出し,おしゃべりさせることから始めている。小規模大学の利点で,多くても10人程度までのグループでのおしゃべり,つまり雑談の稽古。笑いごとではない。生身の話しことばを介した肉声でのやりとりになじめないままの若い衆が男女問わず,本当に驚くほど多い。自分の思ったり感じたりしていることを話しことばにしてつないでゆく,その部分の回路があらかじめどこかで遮断されているような症状なのだ。閉じられたチューブのような環境でとにかく「無難」にやりすごす習性だけが,まるで工場出荷時設定として刷り込まれているかのような眼前の生身の群れ。これはすでに,たまさか高校を卒業する時点での学力が高いとか低いとか,そういうこととはひとまず別の問題だろう。ことはもはや,それくらい深刻なのだ。

 ゆえに,いまや「リメディアル教育」には,もうひとつ別の意味もまた,平然と内包されてくる。

 単に「デキの悪い」学生に対するだけでなく,それ以外のいわゆるデキの良い,意識の高い,上位校にうまくなじんでゆけている,一見とりたてて問題ないように見える若い衆に対しても,同様の補修・補完計画が言わば「上からのリメディアル」として全く等価に必要らしいこと。これは決して為にする言挙げではない。この先,否応なくこの国この社会で生きてゆかざるを得ない「自分」を確認しようとする時に,誰もがまず手に取れる武器としての母語を自らメインテナンスし,時に応じてブラッシュアップしてゆくやり方を身につけること。それは,民俗学的な取材・聞き書きの作法として言われてきている〈あるく・みる・きく〉に加え,〈よむ・かく・はなす〉も含めての総合的な技法・技芸を,おのが生身を介した関係と場にもう一度役に立つよう宿らせ直してゆくことでもある。いまやそういう下ごしらえからまず手当てしないことには,たとえ「教育」の立場からどのような実践が現場で試みられたとしても,おそらくその効きは相当悪いものにならざるを得ないだろう。高度経済成長以降のわれわれの社会がうっかり実現してしまった「豊かさ」任せの大衆化というやつは,どうやらその程度に難儀で規格外れの現実になっているらしい。

 「リメディアル教育」とは,そのような意味で,単に足らない部分を補完するだけではない。今のこのような時代の情報環境とその延長線上に想定される来たるべき社会との関係において,「大学」での高等教育に見合う確かな内実を持った生身の主体・個人であることを具体的に保証してゆけることばの技術・技芸,その総合的な洗い直しによる「治療」の過程までも包含する射程距離の長いもの言いであるはずだ。いや,そうあるべきだ,と学会自らもっと大きな声で世間に向かって主張し,説得してゆく必要があるとさえ思っている。せっかくの学会組織,それも比較的若い世代の多いらしい集まりのこと,それくらいの大風呂敷でもまずゆったりと共有してみて初めて,昨今すでに陳腐化も始まっているらしいこの「リメディアル教育」というもの言い自体のリメディアルもまた,自前で可能になる。そう,もはや全ての「大学」教育は「リメディアル」でしかあり得ない,のかも知れない。