政治と宗教、のいまどき

 宗教と政治、という、このただでさえ脂っこくもしちめんどくさいふたつの領域が、共に重なってさらにめんどくささ自乗になる案件が、この夏このかた、浮上してきてました。

 もちろん、これは何も「宗教」だけではないわけで、「社会」であれ「文化」であれ何であれ、いずれ日本語の熟語自体の本質的な性格だったりするらしいのですが、それにしても、です。ことこの「宗教」という漢字2文字の熟語については、その記号としての単語とそれがさししめす中身や内容とのかけ離れ具合が、おおげさに言えば歴史的にもほんとにさまざまな難儀を現出させてきているんだなあ、と改めて思ったりします。

 他でもない、例の「安保法制」、一部では「戦争法案」とも呼びならわされていた法案の審議過程で、反対を叫ぶ市民運動の中でもメディアの舞台を介して割と話題になって注目されていた若者たちの運動。「シールズ」とか銘打っていたようですが、あの若者たちの背景に何やら「宗教」の影がちらほらする、といったことが、例によってのいまどきの情報環境のこと、SNSその他webを介した世間で露わにされて情報として共有されていった、という顛末のことです。

 ごくざっくり言うと、その運動の中心にいてメディアの前面に姿をさらしていた幹部級の若者たち(多くは大学生ということでしたが)の経歴その他をあたってみると、キリスト教系の学校、それも全寮制の環境で教育を施しているような高校などから、やはりミッション系の大学などに進学した子たちが眼につく程度に多かった、というお話。もちろん前提となっている情報自体、既存のメディアを介したものなのですが、それにしてもそれら情報を素材としてその背景や出自来歴まで相互に検索をかけてあぶり出すことが容易になっているのは、良し悪しともかくいまどきの情報環境のすでにお約束。なまじ眼につく位置にあった運動だけに標的にされやすかったという事情もあったと思います。

 その過程で改めて浮かび上がってきたのは、とりあえず「キリスト教」というくくり方で、そこから大きくは「宗教」という、この漢字2文字のこの熟語でとりまとめられている内実が、実はこれら宗教と関わるとみなされる現象をできる限り〈いま・ここ〉の手ざわりのままとらえようとするためには、最も邪魔になっているらしい、という、日本語とそれを母語とする環境でのいずれ拭いがたい難儀でした。

 これが仏教や神道系だったら、また別の方向での解釈や意味づけも発動されていたかも知れません。けれどもとりあえず「キリスト教」で、それ経由で「宗教」と意味づけられてしまうことであらかじめある種の型にはめやすい解釈へと事態は流れていったらしい。カトリックプロテスタントか、といったごく基本的な違いについても、「キリスト教」と言われた瞬間から多くの世間にとってはどうでもいいものになってしまう。もちろん、ある種の宗教、具体的な教団やその界隈が「教育」「学校」と積極的に関わり、その経緯で「政治」にもあるスタンスを表明するための道具立てのひとつとして利用してゆく、それはキリスト教であれ仏教や神道であれ、それぞれやってきていることで、そういう意味ではいまさら珍しくもない事案のはず、なのですが、ただそれがメディアを介して改めて世間の眼にある文脈でさらされるとまた、格別の意味づけが過剰にされていってしまうもののようです。

 訳知り顔に声ひそめてささやかれる、それによってとりあえず表沙汰にならずにすんでいてそれで世間も困らないから見て見ないふりしていてくれる、そういう「宗教と政治」のコントロールの仕方/され方のままでは、もうこれから先はうまくゆかないんだろう、そういうこれまでの当たり前のまま、この先この日本の世間で宗教としての信頼を具体的に維持し回復してゆこうとすることは、もうあり得ないんだろうな……そんな感慨を正直、抱きました。

 宗教は政治と不即不離である。いま初めてそうなったわけでは全然なく、これまでもそしてこれからもそういうものである。胸を張って誰にもわかるような言葉ともの言いとで、そういう当たり前を説得してゆく、そんな態度を腹くくって自分たちのものにしてゆくことが、宗派や教団などの違いを超えたところでの、いまどきの日本の宗教全体に切実に求められているのだと思います。