「放馬」について

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地方競馬だけで事故が続いてしまっていることと、その理由についてお考えをいただければと思います。地方競馬全国協会の方は、「『河川敷のような場所』と『改善できない経営状況』が理由では」ということをおっしゃっていましたが…

 まず、確認しておかねばならないのは、馬の仕事をしている限り、放馬は必ず起こり得る「事故」、それも珍しくない事故だということです。事故ですから必ず起こる。だから、起こった後の対処も含めて、馬と仕事をしている人たちはそれらを見越して日々仕事をしています。それは地方でも中央でも、競馬場でなく牧場でもみんな同じことです。

 そう。馬の仕事の現場では、放馬は珍しくない事故なんです。

 最近「放馬」が問題になるのは、まず、昔と違って、競馬場も厩舎も都市的な環境の真っ只中に存在するようになったことで、放馬した馬がうっかり世間の日常に関わってしまうから、という面があります。

 たとえば、馬と乗用車が接触したり、住宅地の中をウロウロしたり、といった事態は、放馬自体よりその放馬した後にそのような競馬場以外の普段の日常に馬が放り出されたことが「異常事態」として認識されるから、ことさらに報道されるようになる。

 競馬場の厩舎やトレセンの中での放馬ならば世間から見えないままですし、それは本当に馬の仕事にある種つきものの事故と言っていい。ただ、それがうっかり競馬場や厩舎の外の日常に出てしまうから問題が大きくなってしまう。

 さらに、日本にはもう農耕馬その他、ふだんの生活の中に生きた馬がいなくなって久しいわけで、日常に突然現われた馬はそれ自体「異物」です。だから余計に眼につくし、人目も集めるし、だから「報道」にも捕捉される。

 地方競馬だけで事故が多い、というのは当たりまえなんですよ。中央競馬はある時期からもうずっと美浦栗東の大きなトレセンに馬たちは集められて管理され、競馬を使う時に競馬場に輸送する形になっている。一方、地方競馬の多くは今でも競馬場の中に厩舎があり、働く人たちも日々、馬と一緒に暮らしていれば、競馬もそこで開催されている。日常生活が競馬場で完結している、ある意味昔ながらの競馬場のあり方になっている。

 もっと昔は、厩舎は競馬場のまわりに散在していて、ふだんの暮らしの中に農耕馬がいるように競走馬も生きていた。「外厩」と呼ばれる形ですが、それが地方競馬の競馬場のあたりまえでした。

 今でも岐阜県笠松競馬場などにはその名残りが見られますが、日々競馬場へ馬を連れてゆく道行きがあたりまえの風景になっていても、今は昔と違って競馬場のまわりも住宅地が増えて都市化したことで、たとえ放馬したわけでなくても、その道すがら、乗用車と接触する事故も起きてしまう。

 だから、数字だけを見て地方競馬ばかりが放馬事故を起こしている、といった解釈をすることは、地方競馬の現場のあり方を知らないか、知っていてのことならば、何らかの偏った見方や意図的な解釈が前提にあってのこと、同情なき見方だと思います。

地方競馬で、放馬事故が起こらないようにできる対策について。経営が苦しいなかでも、何を優先すべきでしょうか。
・先ほどのお電話でおっしゃっていた世界とのズレについて。

 地方競馬の厩舎まわりの施設その他の改善は、できることはもちろんするべきですし、そのための財源も、売上げその他がケタ違いに恵まれた中央競馬に比べれば貧しいのは確かです。その中で手当てすべきところは手当てして、改善してゆく、それはあたりまえにやらねばならない。

 ただ、それらとは別に、もっと本質的で構造的な問題、も横たわっています。それは、馬を扱うことのできる人間が足りなくなっている、ということです。

 日本の競馬は、農耕馬その他、日常生活の中に馬という大きな生きものが事実上いなくなった社会で、中央と地方あわせて年間を通じて競馬がほぼ毎日開催されているという、世界の基準からすればかなり奇妙な競馬です。

 馬が日常にいないから、馬を扱える人もいなくなっているし、馬という生きものそのものがどういう生きものなのか、さえよくわからなくなっている。そんな社会で競馬だけが生きた馬を使って日々開催されている、ということの異様さを、少し立ち止まって考えてみてください。それこそ自転車に乗るように若い人も大人も馬にまたがることができる、そんな環境があたりまえな海外の馬文化先進国と違い、日本人はどうも馬という生きものとつきあう歴史と文化について、蓄積が乏しいままだったらしい。それでも生来の器用さで競走馬も見よう見真似で扱う技術を身につけ、競馬も開催するようになった。それでも、高度経済成長の現実は、それまで日々にまだかろうじて生き残っていた農耕馬その他、仕事をする馬たちの姿も最終的に見えないものにしてゆき、その結果、馬のいない社会に競馬だけが栄えることになりました。

 北海道の牧場はもとより、最近は競馬場でも外国人の厩務員が入ってきています。実際、彼らを入れないと仕事がまわらなくなっているわけで、競馬の売上げは一時の低迷から底を打ち、殊に地方競馬などは無観客開催でも売上げのレコードを記録するように回復しているし、競走馬のせりも売買はまた伸びてきていれば、馬主も新しい世代が参入してきている。世界で戦える日本生産・調教馬も珍しくなくなって、ファン層も競輪など他の公営ギャンブルに比べればそれなりに世代交替も進んで、またその眼も肥えてきている。一見、いいことづくめのように見えなくもない。

 ただ、馬という生きものを現場で扱い、日々つきあうことのできる人間が、この国には決定的に足りなくなっています。現場の人たちもそれは身にしみて感じている。だから育ててゆくしかないのですが、さて、それが果して間に合うかどうか。

 日本で競馬が衰退するとしたら、それは人間が要因になるだろう、ということは、もう20年以上前から言ってきているのですが、はからずもそれが現実になりつつあるのが最近の日本の競馬をめぐる現状だと、自分は思っています。

 放馬した馬が、うっかり競馬場の厩舎やトレセンの外に飛び出してきたとしても、そこらの人たちの中に馬を扱える人があたりまえに混じっていて、とりおさえて落ち着かせてくれる。そんな社会にもう一度、われわれは戻れるのかどうか。夢物語ではなく、かつての日本はある意味そんな部分も含み込んだ、ふくらみのある社会でした。でも、もうそこへは戻れないのだとしたら、われわれはこの先、果してどのようにこの馬という大きな生きものとつきあってゆくべきなのか。

 「放馬」問題というのは、実はそのような「隠された大きな問い」をあらわにしてくれる触媒のような意味あいも持っている、そう感じています。

*1:朝日新聞」の、それも東京本社の記者からの電話取材。このところ続く「放馬」事故についてコメントを、ということだったので、例によって電話取材は原則として受けない、いくつか質問項目をくれたらそれに対してしゃべった形でのコメント草稿を渡すからそれでいいなら好きにつまんでくれ、と伝えて渡したのがこれ。その後どういう記事になったのかならなかったのか、まるで音沙汰ないままなのでわからん。