「上げ馬神事」の事故について・雑感

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 馬を2mほどの高さの、ほとんど「壁」に等しいところ駆け上がらせる。というよりも、人間たちがまわりで寄ってたかって囃し立て、無理にでも押し上げるのが見せ場になっているという神事が、警察に告発されたという件について、言っておかねばならないことがありそうなので、あらためて少しだけ。

三重県桑名市で行われている「上げ馬神事」は動物愛護法違反の疑いがあるとして、保護団体が6月初旬、神事の関係者130人超を三重県警に刑事告発した。


 神事は、武者姿の若者が騎手となって約2メートルの土壁を駆け上がり、豊凶を占う。県によると、少なくとも江戸時代からは続いているとされ、無形民俗文化財に指定されている。


 コロナ禍での中断を経て、今年5月に多度大社で4年ぶりに開催された。骨折した馬1頭が殺処分されたことや、馬を棒でたたくなどの行為が「虐待だ」などと批判を集めていた。」 https://www.bengo4.com/c_18/n_16173/

 いまどきの情報環境のこと、その神事の様子を収めた動画も主催者側からのものも含めて複数公開されていて、中には骨折してその後殺処分になったという馬の姿も映り込んでいるものもあり、「お酒を無理矢理飲ませて、物で殴り、蹴り、急坂を竹でお尻が傷付くくらい殴って無理矢理上らせ、壁をよじ登らされ、骨折したら殺処分する、馬虐待祭りをしている三重県多度大社」(あるTweetより)といった非難、批判の声が山ほど寄せられることになりました。

 果して「動物虐待」にあたるかどうか、などの法律的な判断はともかく、ごく素朴な感情として、これを「かわいそう」と思うのは自然でしょう。まして、骨折して「殺処分」という結果を招いたとなれば、これはもう否定的な方向に収斂してゆくのもある意味当然かもしれない。

 だから、単なる事故というだけでなく、犬や猫に代表されるいわゆるペット動物をものさしにした「いきもの」一般に対するいまどきのわが国世間一般が抱いている気持ちとそのまま地続きになって、「いきもの」を理不尽に「かわいそう」な目にあわせた結果「死なせてしまう」という、ほぼ無条件に「許せない」というレベルの感情を一気に喚起させる事案になってしまったところがあるようです。

 そんな感情を最も端的に引き受けてくれるわかりやすい語彙として「動物虐待」があり、また、何よりもそれは昨今、ポリティカル・コレクトネス的な文脈での「正義」の意味あいもまとっている。さらに、そのような「正義」である分、非難や批判の感情が実際の行動にまでつながってゆく回路のハードルも昨今は下がっていますから、「犯罪」として「告発」することなどへのためらいも薄くなる――そんなこんなの要因が複合して、これはことさらに「炎上」しやすい事案になってしまいました。

 馬や牛、鶏などの家畜を、犬や猫などのペット――愛玩動物と同じ「いきもの」としてだけ見ることが、素朴な感情としてはともかく、法律も含めた現実の社会的なたてつけの文脈で見る場合、それ一辺倒で押し通してしまえるものかどうか。ことは肉食の是非から動物にとっての「権利」の問題、さらには環境問題その他、いずれ大きな拡がりをもつ一連の問題群に連動してゆくことは明らかです。だからこそ、動物愛護団体が主体となった告発にまで行動が喚起される。そのような意味では、いまどきのわが国の社会にとっての「正しさ」を、その現われ方も含めて考えねばならない、うっかり大きな問題をはらんだ事案になってしまったようにも見えます。

 ただ、それら大文字の大きな問題に舞い上がって事態がもみくちゃにされてゆく前に、まずは具体的な現実のできごととして、地元に根ざした「神事」にまつわる事故として、考えようとすることも必要です。その場合、大きな問題化されて煽られた結果の「炎上」という事態に眩惑されて、ことを解決してゆく際の補助線として本来考えておかねばならない小さな問いがいくつか見落とされているように思えます。


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 まず、馬をしてあの「壁」を駆け上がらせる、苛酷な神事の形態が本当に昔からの「伝統」なのかどうか。現在のあのような形になるまでの経緯や、その背景などはどれくらい明らかにされていて、その上での「神事」であり「伝統」であるという意識が、地元の当事者の人たちの間に、果してどれくらい共有されているのか。

 そもそも、競走馬あがりの馬、つまり腐ってもサラブレッドの軽種馬を使ってあのような壁を駆け上がらせるのは、明らかに無理があります。でも、かつての農耕馬、ある時期まで普通にいて普段から仕事に使われていたような駄馬の類を使っていた頃はどうだったのか。もしかしたら、同じ神事であっても、その形態などは違っていたかもしれない。

 馬といういきものを、農耕であれ使役であれ、地元で実際に飼養して日常的に扱っていた経緯は、どれくらいあったのか。そもそも、わが国の場合、農耕馬であれ何であれ、いきものとしての馬がふだんの地元の暮らしの中からほぼ姿を消して久しいはずで、そのような経緯の中で「伝統」の「神事」として継続されていた、あるいは継続しなければならなくなっていた事情というのは、どのようなものだったのか。それは、地元で支えられている「神事」というだけでなく、すでにある程度広く世間に知られるようになっていた、いわば「観光」資源にもなっていたらしいことにも関わってきます。そのような中で、「苛酷」がことさらに加速させられていったところはなかったか。つまり、かつては行なわれていなかったようなエスカレーションが加わり、歯止めがきかなくなっていったようなところはないだろうか。また、「神事」であり「伝統」であるということで、無形民俗文化財に指定され、「観光」資源にも昨今なっていたのなら、行政側からもそれなりの支援をしてきているはずで、今回の告発にも三重県知事がコメントせざるを得なくなっていたように、そのような文脈からどのようにこの行事の存続や維持に関わってきていたのか、その間の行政レベルでのコントロールの問題も出てきます。

 一般的に、このような馬を使う神事やお祭りの類には、昨今、JRA(日本中央競馬会)やNAR(地方競馬全国協会)などを経由した補助金助成金の類もつくようになっていて、これは公営競技としての競馬の利益を社会に還元してゆく事業の一環でもあり、有名な相馬野馬追やチャグチャグ馬コなども含めて、わが国における馬と人とのつながりを反映したこれら伝統的な文化財の維持に大きく貢献しているのは確かです。「神事」も「伝統」も文化財も、これらの環境があって初めて維持存続可能になっているという側面もまた、見落としてはいけないことのはずです。

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 ただ、最も本質的な問題は、先にも触れたように、いまどきのわが国の日常生活から馬が姿をほぼ消してしまって久しいことです。

 そんな中、いきものとしての馬を実際に使おうとすれば、現実問題として競走馬あがりの軽種馬か、でなければいわゆるポニー種系統の馬しか調達できなくなっている。さらに、暮らしの中で馬に実際にさわっていた世代も高齢化し、世を去り始めている中、そもそも馬といういきもの自体どういう性質のものなのか、犬や猫などよりはるかに実感が伴わなくなっている上、その適切な扱い方もすでにわからなくなっていたりもする。

 もちろん、乗馬や競馬関係の人たちが支援して基本的なことをレクチュアしたり、努力はされていますが、もとが競馬のためだけに馴致調教されてきていた競走馬のこと、単なる草競馬といった系統の行事ならまだしも、今回のような目的にいきものとしての馬を使い、実際に扱わねばならない場合には、いろんな意味での「危うさ」が伴ってきます。

 自分が最近、たまたま縁あって某県で見せてもらった神事も、神社の参詣路のほぼ直線一ハロン(200m)程度の最後にやはり坂があって、それを一気に登らせるのが見せ場になっていました。神事として馬をこのように使って見せる形態自体、中部地方から西南日本にかけてある時期以降に整えられ、定着していった経緯があるように思われますが、このあたりはさらに広汎な調査と考察が必要でしょう。

 そこの場合、上げ馬神事のような「壁」の登攀ではなく急坂程度だったので、競走馬あがりの馬たちでも何とか駆け登ることができるものではありました。それでも、地元に馬の扱いのわかる人がすでにいなくなって、いったん途絶えかかった、それ以降に地元の文化財に指定されたことなどもあり、「観光」資源として行政が注力、それなりに見物客も増えて呼び物になっていったのですが、地元としては年に一度のその神事のためだけに普段から馬を飼養しておかねばならず、人手としても金銭的にもそのような余力のある家はもう少ないのに、それでもとにかく行事として維持存続はしなければならないという縛りがかかっています。

 一方で、地域として、地元として活力があるからこそ、このような神事もまだ維持できているという事情もあります。実際、運営に現役の若い世代も多く参加できるような条件が揃っている地域でないと、神事であれお祭りであれ、このような「伝統」行事はいまどき続けることはできなくなっている。また、そういう活力のまだある地元だからこそ、今回のような問題も起こり得るわけで、なるほど、これはいろいろ現地ならではの事情が輻輳しているなぁ、と、あらためて痛感しました。そのような意味で、これは今回の多度町だけの問題でもない側面もあるでしょうし、だからこそ、地元の事情を十分にくみとった上での、行政も含めたきめ細かなコントロールの必要なところでしょう。

 と同時に、「動物虐待」反対を問答無用の「正義」とした非難や告発の類には、どこかで自省と歯止めも必要です。馬がらみということでは、一昨年の春、北海道帯広市ばんえい競馬における能力試験で「馬の頭を蹴った」ということから同じように「動物虐待」と非難され、動物愛護団体も関与して一時、問題化された事案もありましたが、その際も、動物愛護団体を主体とした市役所へのクレームが殺到したことが、事態をいたずらに全国化させるきっかけになっていました。「かわいそう」一辺倒、家畜も動物園の動物も、全部「いきもの」ひとくくりにペットと同じように考えてしまいがちな、いまどきわが国世間の心の習い性は、それらいきものと共に仕事をし、共に生きる現場の個別具体の事情をもあらかじめなかったことにして暴走する「善意の傲慢」「正しさまかせの暴力」を本質的にはらんでいます。

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 こと馬に関して言えば、競馬だけは近年、またこれまでにない異質な人気の拡がりを見せるようになっています。ゲーム「ウマ娘」をきっかけに新たに競馬に興味を持つようになった世代が、馬券の売上げに直接貢献しないまでも、カメラやグッズ片手に競馬場に押し寄せ、また充実されてきたネット環境を介して全国の競馬を視聴し、時に100円でも馬券を買い、また、かつて活躍していた人気馬たちの情報などにも自在にアクセスするようになっている。それによって、いきものとしての馬そのものについての暮らしの中での実感や経験、それらに裏打ちされた知識などはないまま、いわばコンテンツとしての馬を「見る」ことについてのリテラシーをあげてきています。このような事態の是非はともかく、日々の暮らしの中からいきものとしての馬がほとんど姿を消してしまっても、世間の意識、人々の想像力の上でのそのようなコンテンツとしての馬は、これまでとは違った位相での確かな形象として、いまどきのわが国の世間の想像力の舞台に定着するようになっているところもあるようです。

 いずれにせよ、そのような情報環境の〈いま・ここ〉において、現実のいきものとしての馬を「神事」として文化財として維持継承してゆく過程において正当に位置づける手立てというのは、単なる法律上の操作とそれに見合った型通りな小手先の対応を介してでなく、また、「動物虐待」という大文字の「正しさ」まかせの非難や告発沙汰の果てのなしくずしとしてでもなく、わが国の社会において馬なら馬といういきものがどのようにわれわれ人間と共に生きてきた経緯来歴を持ち、それらの大きな歴史文化的な背景の上に個別具体の現在として眼前にあるのか、そのようなゆるやかで間口の広い問いをある程度の常識として共有した上で初めて、〈いま・ここ〉に根ざした真に有効な施策として結実してゆけるものだろうと思っています。

「一見勝之知事は6月13日の定例会見で、十数年で4頭がけがをして殺処分となっており「事故の頻度が多い。主催者側に何らかの対応が考えられないかと言った方がよい」と述べた。同19日には県や神社、神事関係者らが「事故防止対策協議会」を開き、壁の構造を見直す方針を確認したという。」

*1:弁護士ドットコムの依頼原稿の草稿。掲載時は編集部とのやりとりでだいぶ形が変わったけれども。 king-biscuit.hatenablog.com www.bengo4.com