ラジオドラマのモダニズム&アメリカニズム

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 改めて言うまでもない、「うた」が生身に宿る、それは人間にとって自然な感情表現のひとつのかたちでした。おそらくそれは、時代の違いや文化、民族の差などを超えた人間本来、天然の本質といったところがあったはずです。

 ただ、それが人の耳と口を介して広まってゆく間には、その「うた」とそれに伴う気分や感覚などと共に、どこかで市場が包摂してゆく過程も介在してくる。特に近代このかた、それまでになかった飛び道具のような複製技術が現われるようになると、その過程もそれまでと違う様相を呈してきます。例によっておおざっぱ極まりない話ではありますが、この場でずっとこだわってきているお題のひとつに、そういう近代の飛び道具の介在するようになった市場に包摂されてゆく過程で「うた」がどのように変わってきたのか、ということがあります。

 たとえば、それで生身の声、生きてそこにある身によって「うたわれる」ものだったのが、文字を介して「詩」になり「短歌」「俳句」になり、さらに紙媒体に印刷されて商品として市場に流通してゆくようになる。あるいはまた、音声として記録する技術が開発されるとレコードという商品にもなれば、それを再生する機器である蓄音器の普及に伴って、それらもまた新たな市場の広がりを獲得してゆく。さらに、ラジオのような電波を介した放送媒体が出現すれば、音声そのものがリアルタイムに、それまでと異なる内実を伴う「うた」として流れてもゆき得るようにもなる。

 「うた」を商品として流通させてゆくことになるレコード産業が、20世紀の新しいメディアと技術に支えられていた限りにおいて、本質的にモダニズムに規定されていたのと同じように、ラジオもまた、新世紀の新たなマス媒体として同じ構造の裡にありました。共に「音声」と「耳」のメディアであること、そしてそれは同じく20世紀の新しいメディアとしての映画が「視角」と「眼」の媒体であったことと併せて、われわれの五感の拡張がそれまでと違う規模、異なる間尺でうっかりなされてゆく過程を、世界的な規模で同時代体験として準備してゆくことになりました。

 とは言え、このあたりのことは、単に「うた」が商品となって市場に出回るようになる、というひとことで片づけてしまっては取り落とす部分があまりに大きいでしょう。言葉本来の意味での情報環境と市場的拡がりとの関係、さらにそこに含み込まれる媒体(メディア)とそれを社会的な物量として現実化する技術的背景から、それらを享受する個々の生身の読み手や聴き手、「うた」を受容する関係や場の問題に至るまで、まさにその時代の〈いま・ここ〉まるごとのありようとその転変の来歴に関わってくる、ゆるやかで焦点深度の大きい、しかしある程度まで繊細な解像度も共に求められる知的視野が必要になってきます。

 「うた」は身の丈の身体を離れて、生身の人と人とがつむぎあう「関係」と、それらが重層し複合する「場」の裡に自在に流れ出てゆく。そこで共有されてゆく眼に見えない何ものかはしかし、その流れ出てゆくことで獲得される拡がりのどこかで、「市場」と邂逅する。それは単に「うた」が何らかのかたちでモノになり、商品になってゆくということだけでもなく、流れ出る「うた」そのもののあり方をまたひとつ別の位相、等身大の間尺の限界を越えた異なる次元の「場」になじむように変えてゆくこと、でもあるはずです。


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 話の続きは、そう、ラジオドラマのことでした。

「(「新しき劇」とは)耳ばかりを対象とする劇である。左様なものは世界中探しても四、五年前までは皆無でありました。そしてこの新しい劇は、構成・表現――補助としての音楽・擬音も含めて――既成のアートを拝借したのでは全然効果がないといってよろしい。すべて新しい頭脳から生まれてこなければならないものであります。聞く人の頭にハッキリと印象の残る工夫をいたさねばなりません。」(『無線と実験』大正15年10月)

 NHK――当時はまだ東京放送局JOAKだった仮放送中の黎明期、伊東胡蝶園の宣伝部長から縁あって初代放送部長に起用されたという服部愿夫の談。この御仁、またの名を服部普白という明治から大正期の劇評界隈の大物でもあったようですが、それはまた別の話。ラジオという新しいメディアを実際に運用するにあたり、音声の飛び道具であることから、音声そのものだけを抽出して考えるのではなく、それら音声を介して〈いま・ここ〉の「場」を想定させる「劇」というたてつけをまず構想したということに、ここは注意しておきましょう。

 音声だけが飛び道具として伝わるようになる、それによって聴き手は「あたかもその場にいるように」感じるようになる、つまり「臨場感」というものがラジオという新しいメディアにはあたりまえに附随していたらしいこと。そしてそれはおそらくレコードと蓄音器という当時の同時代の新たなメディアにとっても同じだっただろうこと。音は、音声は、ただ物理的な音波としてでなく、それを耳にして受けとる聴き手にとっては、「臨場感」が具体的な場所や時間に規定されることなく、言わば仮想的な〈いま・ここ〉としてうっかり体感されてしまう仕掛けになっていった面がどうやらあるらしい。

 いまのわれわれの感覚からは、映画やビデオといった映像メディア、昨今のもの言いからすると「ビジュアル」媒体がそのような「臨場感」を仮想的に体感させる装置になったと考えがちですし、もちろんそれは間違いでもないのでしょうが、ただ、少し立ち止まって考えてみると、初期の映画はサイレントで音声は伴っていなかったわけで、当時の人たちの感覚にとっての純粋に動く映像としての衝撃というのは、いまのわれわれの感覚からはすでに異なる体験、それこそ「逝きし世の面影」に繰り込まれつつある部分は否めないように思えます。

 「眼」を介した純粋映像は、しかし生身の感覚器官としては必ず「耳」も伴ってくる以上、音声と併せ技で体感されざるを得ないのですから、それら音声抜きのサイレント映像に、よりその「臨場感」の衝撃を衝撃として増幅しようとすれば音声を同時に加えようとするのもまた、人としての天然の欲望でしょう。サイレント映画に「伴奏」や「効果音」、さらには弁士による「説明」までも伴ってゆく過程で、それら「臨場感」の衝撃がどのように新たな再編制されてゆくようになっていったのか。昨今はもう「声優」という呼び方があたりまえになっていて、若い衆世代にとってはあこがれの職業の上位のひとつであり、また世間からの認知も少し前までとは比べものにならないくらいあがっているあの「音声を介して演じる」仕事にしても、そのような新たな飛び道具としてのメディアの出現によって否応なく現出されるようになった情報環境の変貌の中で、われわれの「臨場感」というやつがどのようにうかうかと再編制されるようになったのか、についての問いを補助線にしながら初めて「歴史」の過程として浮び上がってくる。


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 そして、「歴史」にはまた別の、予期せぬ衝撃も加わってきます。ラジオが「劇」の「臨場感」とあたりまえのように結びつけられ、ラジオドラマという創作形態が出現していった過程は、新たな飛び道具としての近代メディアの技術的普遍性によって、これまたあたりまえのように国境を越えた現象でもあったようです。

 昭和20年8月下旬、トラック島守備隊にいたある陸軍中尉が、敗戦後の武装解除に関する米軍との間の連絡将校の任を受けた。大学の法学部を出ていて多少英語ができそうだという程度の理由だったようですが、ここでひとりの米兵と出会う。名前はボブ・イーガン、アメリ海兵隊第三師団司令部付の伍長。彼がたまたま尻ポケットに突っ込んでいたソフトカバーの本、おそらくはペーパーバックだったのでしょうが、『戦時版ノーマンカウエン――ラジオドラマ集』という一冊に目がとまり、活字に飢えていた時のこと、何気なく借り受けることを申し出てみたら、このイーガン伍長が気軽に応じたことからこの中尉殿、それまでの本邦ラジオ放送で模索されてきたものとはまるで違うラジオドラマのあり方に、まずは紙と文字を介して眼を開かれることになります。

「その頃、日本放送協会が取り上げて名作としていたラジオドラマはといえば、スローテンポの間遠の、ムーディー心理芝居、情緒劇で、描かれた対立といっても、春の朧、でなければ秋の時雨、あわあわ、しっとりがもてはやされていた。だから、ラジオドラマというものはそういうものなのだ、その手のものは、やはり、久保田万太郎とか岡本綺堂とかの名匠の手を経ないと様をなさぬものなのだ、と私なんぞも決め込んでいた。が、それは時に、至極退屈でひねくれてさえいて、まるで難解な俳句をつきつけられでもしたような気分になる――そういうものでもあった。ところが、これはどうだ!このカウエン・ドラマは――どれを採ってみても文句なく解り易い。それに上品で知的でさえある。」

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 ノーマンカウエン、とは何者か。インターネット環境とはありがたいもので、この御仁の素姓や来歴もいまや少し手間暇かければアウトラインくらいはわかってくる次第。これはこの陸軍中尉殿の表記のカウエンならぬコーウィン(Norman Corwin)、ユダヤ系の放送作家であり脚本家であり劇作家でありプロデューサーであり、いずれそういう界隈で一世を風靡する仕事を成した御仁だったようです。スタッズ・ターケルレイ・ブラッドベリロビン・ウィリアムズなども大きな影響を受けたといった挿話もあれこれ散見されたりしますし、本邦のそれよりは信頼度も格式も維持されているらしい英語版wikipediaにもほれ、この通り。

Norman Lewis Corwin (May 3, 1910 – October 18, 2011) was an American writer, screenwriter, producer, essayist and teacher of journalism and writing. His earliest and biggest successes were in the writing and directing of radio drama during the 1930s and 1940s.

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www.nytimes.com

 読み物としてのこのラジオドラマに接したこの中尉殿、英文とは言え、いやだからこそだったのかも知れませんが、とにかくいたく感じ入ったようです。

「こうした質の良いフィクション――文芸ドラマを戦陣の読み物として官給し、またそれを受けて生死の境にポケットしているGI。これは凄いことなのだ。大学出の幹部候補生が戦車の中に飯田蛇笏句集を蔵しているのとは根底から別世界のことなのだ。(…)米海兵第三師団貸与の黒色天幕の中で、つくづくと納得した。敗けた原因は、これだ。」(西澤実『ラジオドラマの黄金時代』 2002年)

 たまたま出征前からラジオ放送の現場に首を突っ込んでいたこともあり、この西澤中尉殿、復員後も勇躍ラジオドラマに人生を賭け、戦後の高度成長期にかけての本邦ラジオドラマの黄金時代を縦横無尽、いわゆる放送作家のさきがけとして駆け抜けることになります。

 「戦争に敗けた原因」として「物量≒工業技術」をあげるようになった戦後の通俗的理解と共に、「文化」もまたもうひとつの敗戦の理由として伏流水のようにわれら日本人の意識の底に流れるようになっていった。その場合、戦前に上海で接収されたという映画『風と共に去りぬ』をたまたま観た、という衝撃が例証としてあげられるなど、アメリカ由来の新たな大衆文化的表現に圧倒的な「違い」を思い知らされた、という「おはなし」になっているわけですが、その流れの中にラジオドラマもまた、大衆文化的表現を介した「違い」の衝撃を表現する足場になっていたようです。
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