大学という場所の現在

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 大学への信頼が、地に堕ちています。

 大学だけではない、そこで行われている講義や演習、いずれ高等教育として行われているはずの「教育」の内実から、まず胡散臭げな眼で見られるようになっている。と同時に、大学という場のもう一方の重要な使命とされてきた「研究」もまた同じく、それってほんとうに何か役に立つものなの? といった古くて新しい疑問を、いまさらながらにこの令和の世間から、あらためて抱かれるようになっています。

 それはどうやら多くの場合、いわゆる文科系、人文(社会)系の「学問」に対する不信感、違和感としてあらわれている。

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 少し別の言い方をすれば、「教養」としての学問、戦後このかた誰もが自由で自立した個人になってゆくために必要とされてきた知識一般、免許や資格といった具体的な目的のためにする勉強ではなく、よくわからないけれども少しはましな人になってゆくためにしておいた方がいいとされていた勉強――それらは概ね「読書」を介して身につくものと考えられていましたが、いずれそのような意味での学問が、自明な「そういうもの」として世間から称揚され、敬意を示されるようなものではなくなっているということです。だから、それら学問や教養の宿る場としてあってきたはずの大学への「そういうもの」としての信頼も、その中に棲息している人がた、「大学教員」という肩書きで世渡りしている者たちに対する視線も含めて、これまでになく大きく、かつ急速に失われてきています。

 これが大学にとって、学問にとって、果してどれだけ致命的な危機なのか。敢えて言えば近代このかた、社会や文化、人間などについての認識と解釈の枠組みを、にわかに借りものの西欧準拠とは言え、なけなしの日本語を母語とする間尺で七転八倒しながらまがりなりにもつくりあげてきた、本邦のこれまでの〈知〉の経緯来歴にとって、この先どれだけ深刻な事態を招来することになるのか。不思議なことに、それらに依拠して生きる当事者であるはずの大学の中の人がたほど、この眼前の問いに対してなぜか異様なまでに鈍感で無神経で、相も変わらずこれまでと同じもの言い、変わらぬ身ぶりを繰り返しながら日々過ごしているように見えるのは、さて、果していったいどういう自信や確信あってのことなのか。

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 何も世間の大人たちだけでもない。いや、それ以上に、自分が現に大学生である、あるいはそうであって不思議ない年代の若い衆や、これから社会に出て生きてゆかねばならない年回り、そういう立ち位置にある者たちの間にある大学や学問に対する感覚までもが、ここにきてこれまでにないほど大きく、これまでと違った内実を伴いながら、静かに別のものへと遷移し始めています。

 あるいはまた、コロナ禍このかた、遠隔授業が当たり前になって、具体的な「場」としての大学自体も否応なしに形骸化させられてきたことが、それら学問や大学についてこれまで「そういうもの」として抱かれてきた世間のルーティンなイメージにまでも大きな影響を与えていて、そしてそれは今後そう簡単に修復できなくなってもいるらしい。

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 さらに、それら大学の中に棲む人がた、「大学教員」であり「学者」「研究者」であり、世間からは「知識人」「文化人」「インテリ」などと呼ばれ、それなりの仰角の視線と共に見られてきたような立場自体までもが信頼されないものになっていて、以前ある時期までのように、自分たちその他おおぜいの日々の感覚や生活意識、それなりに抱いている素朴な問いや疑念といったものをうまく整理し、解釈しなおして「わかる」に導いてくれる優れた知性、といった敬意を抱けるような存在でなくなってきています。

 殊に、webを介した情報環境の変貌と浸透によって、日々の日常生活を生きる世間一般の意識や感覚から大きく変わってきている。特にここ10年ほどの間、スマートフォンなどのモバイル端末が年配者から子どもにいたるまで世代の上下の幅を一気に大きく超えて普及し、さらにSNS系の仕掛けを介して縦横に不用意につながり始めてきたことで、個人と社会、身の丈の暮しと世間の関係から根こそぎそれまでの「そういうもの」とはうっかり別のものになりつつあります。そして、それらの下地の上に四六時中何らかの形でコンテンツとしての「知識人」「文化人」らが臆面なく流通するようになり、その多くにまた「大学教員」「学者」といった意匠がくっついてきていることで、彼ら彼女らの見てくれや身ぶり、声の調子や話の巧拙、服のセンスや化粧の良し悪し、ちょっとした表情の動揺や神経質なまばたきその他、断片化された情報としての生身の気配などが、仮想的に統合された〈リアル〉として不用意に身近なものになってきています。

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 かつては紙の上の活字を介してしか関係づけられようのなかった、それら「大学教員」的な生身の実存が、仮構的な〈リアル〉として〈いま・ここ〉になめらかに組み込まれるようになっている日常。その中で、大学も学問も、そして大学教員という存在も、ひとしなみに少し前までの「そういうもの」からはすでに引き剥がされて、くらげなす漂える虚構として世間からはあきらめられ、静かに見放されつつあります。

 これらは、いわゆる大学問題でも、教育問題でもない、そんな既存の語彙や話法でうまく切り出せるものでもなく、もう少し画角と焦点距離を広く長くとったところで初めて合焦されてくる、われわれのこの社会における大学、そしてそこに宿っているべき学問や教養のありかた自体の、大きな転形期にさしかかりつつあることの現われなのだろう、少なくとも自分はそう感じています。

 そもそも大学という場所は、世の中から隔離されていて、まただからこそ、「自由」にものを考え、ものを言い、自らの信じるところに従って何らかの真理を求めてゆくことのできる場所であり、そのための志同じくする者たちがそこにいる――わざわざそう言葉にすることはなくとも、そういう場所であることは自分の裡で勝手に、まさに「そういうもの」として、どうやらずっと信じてきたようです。

 いつ頃からそんな「大学」イメージをこの自分が抱くようになったのか、あらためて振り返ってもよくわからないところがあるのですが、ただ、よくわからない程度に「そういうもの」として自明だったらしい、自分などが社会化してゆく過程での、少し前までのこの日本の世間においては。 

 とは言うものの、です。その大学という場所は、自分にとってはいつも「遠い」ものでした。

 思い起こせば今は昔、センター試験どころか共通一次試験導入よりもさらに前、全ては筆記試験一発勝負の、しかも私大文系3教科での熾烈なしのぎあいをくぐり抜けてたどりついた先の大学は、昨今のように厳しく「学ぶ」ことを杓子定規に強要してくるものでもなく、文字通り4年間の執行猶予、当時は概ね約束されていた勤め人としての就職を自明の前提にした、良くも悪くもまさに「モラトリアム」として眼前にありました。

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 その執行猶予が切れる頃、身の程知らずにも大学院へ行こうなどと思い立ったのも、日々勉学に励んでゼミの先生の覚えめでたく「大学へ残る」ことをすすめられて、といったよくある経緯からでは全くなく、単に漠然と興味関心のあった歴史系の勉強を少しはちゃんとやっておきたい、その程度の他愛のない思い込みからでした。いま思えば、受験してそこしか合格できなかったので致し方なく籍を置いた法学部では卒業証書をもらえる最低限しか手を動かしようもなく、その頃の私大文系3教科受験学生のご多分にもれず教室にもほとんど顔を出さなかった、そのうしろめたさと不完全燃焼の自覚を裏返しに正当化する意味もおそらくあったのでしょう。たまたま民俗学などという人文系のさらに辺境にうっかり興味関心を抱き始めていたのをいいことに、学部とは別の大学院へと深く考えもせぬまま身を置くことに。

 そんな得体の知れないよそものを受け入れてくれた大学院の指導教官は、しかし不幸にも癌と糖尿病とで早逝され、博士課程は単位取得でとっとと修了。博士論文など人文系では意識すらされていなかった時代のこと、予備校の講師や売文の真似事など、その頃ならではの都会の手間仕事をついばんで食いつなぎながら、たまたま30歳で当時の国立大の隅っこに助手として職を得て、その後、何の間違いか国立の共同利用機関に助教授として引っ張られたものの、思うところあって数年で辞めて肩書きのない全くの野良暮し再び、徒手空拳の売文稼業で10年ばかり自堕落な世渡りをしたのち、縁あって再度北辺の小さな私大に流れついたという、まあ、いわゆる大学教員としてはおよそまともでない規格外な経歴ですから、偉そうに大学だの学問だのをどうこう言える分際でもないのは、人に言われずとも十分に自覚しています。

 つまり、自分は大学というものに、実際的な恩恵はあまり受けてきていなかったらしい。ということは当然、そこにあったはずの学問についても、同じこと。これは韜晦でも何でもなく、まさに捨て育ちで今に至っているとしか言いようがない身の上ゆえの前向きなあきらめと共にある自己認識なのですが、それでも、あるいはだからこそ、なのでしょうか、学問がそういう「場」としての大学と不即不離の関係で成り立っていたことに対する勝手な信心みたいなものは、人よりいくらか強く、そしてまたしぶとく抱いてしまっているところもあるらしいのも、また確かなようです。

 ですから、それなりに機嫌良く日々過ごしていた、北海道のその小さな私立大学で、3年前の初夏、いきなり申し渡された「懲戒解雇」については、そこに至る経緯の理不尽さや不当さ、背後の問題の根深さなどといった、裁判に訴え法廷で明らかにし得る水準とはまた別のところで、おそらく初手から大学に、そして学問に制度ぐるみ組み込まれてきた普通の大学教員とは違う意味での、震源地のごく深いところから起こってくる地震のような長く尾を曳く衝撃がありました。

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 その「懲戒解雇」の顛末については、これまでも機会あるごとに説明してきましたし、その不当さについても、できる限り言葉にして伝えるようにしてきたつもりです。なので、すでに概略ご存知の向きも少なくないかも知れませんが、あらためて概略だけなぞっておきます。

「2020年6月29日付けで、2007年以来足かけ13年間、籍を置いていた北海道の札幌国際大学という大学から「懲戒解雇」という処分を受けました。その理由は、その大学で2018年度から新たに導入した外国人留学生をめぐる入試のあり方や在籍管理等、制度の運用にさまざまなコンプライアンス違反、ガバナンスの不適切な状況が学内で生じていて、それを当時の城後豊学長以下、学内の教員有志らと共に何とか是正しようと努力していたのですが、それが大学法人側の経営陣によってことごとく阻害され、学長は手続きも不透明なまま事実上の解任に等しい仕打ちをされるまでになっていた。なので、致し方なく外部の関係諸機関、文部科学省出入国在留管理庁、労働基準監督局から札幌弁護士会などにそれら内情を訴え、各報道機関にも協力を求めて世間の眼から公正に判断してもらおうとした――まあ、単にそれだけのことだったはずなのですが、なぜか、それら一連の行動が「懲戒解雇」にあたる、という判断を、法人側お手盛りで立ち上げた賞罰委員会による強引で一方的な答申に従うという形で、弁護士でもある上野八郎理事長自らこちらに申し渡してきた、とまあ、ざっとこういう顛末でありました。」
(拙稿「「外国人留学生ビジネス」利権の背後にある文科省」『史』145、新しい歴史教科書をつくる会、2021年)
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 これに対して、地位確認と損害賠償を求めて札幌地裁に提起した民事訴訟は、2年9ヶ月ほどかけた審理ののち、この2月16日に判決が出されました。内容はこちらの主張がほぼ全部認められた「全面勝訴」と言っていいもので、ありがたい、これで4月から大学に戻って学生たちにも会える、と喜んでいたところが、大学側は控訴すると表明。舞台は札幌高等裁判所に持ち込まれ、この先、まだ裁判は続くことに。もともと大学側は最高裁まで行く構えを見せていたので、おそらく二審高裁の結果がどうであれ、さらに最高裁に上告されることになるでしょう。そうなるとさらに決着は先延ばしになります。大学の規定では、正規雇用での定年が63歳、その後2年間は特任教員として雇用するのが不文律になっていたので、最終的に正式な定年は65歳になる来年の3月末。なので、いずれにせよ大学に戻って講義ができる機会が遠のくばかりか、決着がついても期限切れでそのまま定年退職ということになる可能性も少なくありません。また、大学側もそれを狙っての控訴でしょうから、とにかく裁判を長引かせて、あの大月だけは絶対に大学に戻さないという目的だけで、控訴審でもあれこれ主張してくることが予想され、まあ、これまで野放図な生き方をしてきた外道の身の上に、還暦を過ぎてふりかかったこの予期せぬ試練、これも人生とひとりごちつつ、突如迎える羽目になった思いがけない早めの無職隠居の日々を何とかやりすごしています。

 どこか別の大学に職を求める気持ちはないのですか、と言われる機会もたまにありました。けれども、「懲戒解雇」で裁判係争中の凶状持ちが、公募であれ何であれ手を挙げたところで門前払いが通例ですし、加えてそれ以前の経歴からして「なかったことにされる」こと必定の身の上。非常勤の講師とかは? と、おそらく善意でおっしゃる向きもありましたが、ご当地に本格的に腰落ち着けるようになってすでに十数年、そのようなお声がかりひとつないままだった“ヨゴレ”が何をいまさら、といった説明を、まあ、そこはあたりさわりなくしておくしかありません。

 研究室その他、学内に「拉致」されたままの資料――と言っても、ほとんどはやくたいもない古本の類ばかりですが、どうやら人文系不毛のご当地では図書館その他でまず手に取れないようなわけのわからない雑本が大方ではある分、それらを手にできないままでいることもまた、日々蝸牛の歩みのあれこれ考察沙汰にも不自由が常態化。さらに、教員として担当する学生たちに何ら予告なく、十分な説明もできないまま教室を離れることを余儀なくされたことも、実は思っていた以上にダメージになりました。

 大学教員というのは、学生若い衆との講義や演習などを介した対話や議論はもとより、それ以外の機会でのつきあいややりとり、なにげないおしゃべりなども含めて、自分の考えていることを対象化し、新たに磨き上げる機会に恵まれているものであり、またそのことはこれまでも人一倍自覚してきたつもりだったのですが、それらの契機がいきなり失われることがこれほどまでに自分自身の日々の営みをこわばらせてしまうものか、いまさらながらに思い知ることにもなりました。

 当時、受け持っていたゼミ生たちは、すでに卒業してしまいました。必ず戻ってくるから、と言っていた約束が果たせず申し訳ない、ということを伝え、卒業してからもなにか困ったり悩んだりしたことがあったら、いつでも大学にやってくるように、とも言いました。また、OB・OGらこれまでの卒業生たちも、大学に対して質問状を送付して、この懲戒解雇の件についての見解を求めていましたが、何の返答も得られないまま、母校に対する不信感をずっと募らせています。学内の教職員に対しても、自分のこの件も含めて進行中の大学を被告とした複数の裁判についての進行状況は何ひとつ説明されないままですし、何より自分の所属していた人文学部現代文化学科は、その後募集停止となり、学科はカリキュラムごと見る影もなく改編され、すでに新たな学科が別に立ち上げられています。自分の戻る場所をなくす目的からの措置であることは、当時の同僚だった学科教員たちのほとんどが新しい学科に配置されず、旧学科の言わば「残務整理」的な仕事に押し込められていることなどからも明らかですし、また、教員たちもそのように大学側から申し伝えられていると聞きます。自分の懲戒解雇以降も、解雇や辞職、雇い止めなどになって大学を去る教員たちの中には、「城後前学長と親しかった」という理由を口頭で申し渡された者もいますし、学内での異動も、当人への打診や所属部署の長などへの相談を抜きにいきなり、しかも高等教育機関である大学のカリキュラム上の専門性や、それに必要な業績等の要件も無視した配置転換が恣意的に行われています。もともと労働組合は存在しない大学だったのですが、形だけ立ち上げられた労働者代表の教員が教職員の希望や意見を集約して大学側に通知しようとしたことに対して、上野理事長自ら労働者代表と教職員全員に対してそれぞれ恫喝に等しい内容のメールを送付してもいます。いずれにせよ、大学組織の基本である教学部門の独立性を全く無視し、教育と研究の両立、そして在籍学生へのよりよい教育のおこなえる体制の整備などを等閑視した経営がさらに進んでいます。

 裁判の過程で、できるだけ早く復職したいということを自分が陳述した時、傍聴席で「冗談じゃないよ」「戻る場所なんかあるかよ」などとぶつぶつ言っていた大学側の幹部職員が、いつの間にかしれっと教員になりすまし、教授会で「長年の夢である大学教員になれました」と嬉々として挨拶している、あるいは、創業理事長のお手つきだったと公然と噂される御仁が、論文を人に書いてもらって体裁整え、あっぱれ教授になっている、そんな大学。「研究などいらない、研究がしたいのなら他へ行け」と理事長自ら公言し、学内紀要にすら原稿が集まらず、査読制導入を提案したら全力で反対される。当然、よそで通用するだけの実績や実力ある教員からどんどん流出、さすがに欠員補充しなければまわらなくなったところであわてて公募をかけても、すでに悪評は鳴り響いていてろくな応募もなく、致し方なく手近な伝手を安易に頼って、高校教員や「実務家」系などもの欲しげな人材を能力不問で見境なくかき集めるしかなくなる。当然、講義の水準は低下し、学生の意欲も減退して休退学者も増加、そのような評判は学生経由で友だちや出身高校などに広まるから募集状況も悪化し、留学生や特待生、スポーツ推薦などの実質「全入」枠を乱発して、見かけの定員充足率だけでも恰好つけることに奔走する始末。結果、理事長や大学側に阿って唯々諾々と従う者たちばかりが重用され、理事会なども全く同様、すでに数十億円は溶かしているはずの赤字続きの経営状態に対する疑問さえ出てこない状態で、「懲戒解雇」の原因となった留学生の問題にしても、その責任を内側から問う声など皆無。このようにガバナンスもコンプライアンスも不適切なまま、そもそも大学という場がどのようなものであるべきなのか、その最低限の基準さえ弁えることのできない人がたが都合の悪い過去を「なかったこと」にする動きが、自分の「懲戒解雇」以降、大学内では加速されています。

 自分自身の身分の回復が裁判の目的であることは、言うまでもありません。ですが、と同時に、残された学生たちや学費を支出している保護者などへの責任を果すために、大学として自浄と改善に努力することもまた、奇しくもこのような境遇に置かれるようになった自分に課せられた使命だと思っています。そのために、問題の留学生入学に関して、理事長以下、大学側の幹部関係者などが行ってきた、大学として不適切な各種行為や取ったやり方について法廷の場で事実を明らかにし、それによって前学長以下、当時この問題に関連して悩み、苦しみ、どんな状態であっても大学であることを信じ、事態の改善を信じて動いていた教職員たちの名誉もまた、回復されることを強く望んでいます。

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……と、柄にもなくこう言挙げしてはみたものの、現実にはほとんど誰も共に腰を上げない、動かない。同じ教員という立場においてさえも、明らかに利害を共にする関係においてすらも、ある目的のために一緒に行動するということをしないし、できない。労働組合の組織率が低下して、実質役に立たないものになっていることももちろんありますが、それ以前に、そもそも同じ大学教員であり研究者である、という意識の持てる関係が、少なくとも日々の仕事、労働の局面においては、いまどきの大学という場所では成り立たなくなっています。

 「正しいことをする」「するべきことをする」――アメリカ映画やドラマなんかで割と見かけるもの言いdo the right thing というのが雛型なのかもしれませんが、何かことに際して敢えてそう自分に言い聞かせてみることで、顔もあげ、重い腰もあげ、えい、しゃあねえじゃねぇか、と萎えそうな足を一歩、前へ踏み出してみせる、あの気分というのが実は大事なんだろう、そういうことをこの間、何度も思いました。けれども、それはもう現実的な処世訓として成り立たなくなっていることをいまさらながらに思い知ったのもまた、この「懲戒解雇」を機縁に学んだことのひとつではありました。

 孤立無援の思想、ということを標榜してみせたのは、あれは確か高橋和巳だったでしょうか。今となってははるか昔、半世紀もその上も前の、すでに忘れられた古証文のもの言いですが、けれども、いまのこの令和の御代の本邦の〈いま・ここ〉においてなお、その「孤立無援」ということの内実、いまどきの情報環境における「主体」の再構築へのささやかな希望も含めた意志のありかを探る試みもまた、前向きなあきらめと共に再発見されねばならない。冒頭、後ろ向きに響いたかもしれないいまどきの大学や学問、教養の現在への悲観的な見方もまた、そのような〈いま・ここ〉だからこそ、自立した個のための触媒として必須の「孤立」と「無縁」をあらためてこの先、希望の種にしてゆくことができる――少なくともいま、自分はそのように考えようとしています。

 札幌高裁での控訴審は、7月5日に決まりました。即日結審を期待しますが、仮にそうなっても、判決期日までにはそれからまたふた月ほどかかるのでは、というのが、代理人弁護士の話でした。その後の進展は、もしも機会があれば、またその時に。

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*1:『情況』依頼原稿。依頼が飛来した時、何かの間違いじゃないですか、と、さすがに確認入れたのだけれども、「弊誌は今年新たに第六期を迎えまして、新左翼にルーツのある媒体ではありますが、第五期以降は論壇誌総合誌として、議論に値する論考は論者の左右や性格を問わず積極的に取り上げて参りました。そのために昨年は不買運動なども行われていたようですが、編集方針に変わりはありません。ネットでの炎上等はいくらかあるかもしれませんが、編集部都合でご迷惑をお掛けすることのないようにいたします。」と、スジの通った説明で返答してくれたので快諾。まだ若い編集者のようだったけれども、最近、こういう「まっとうな」仕事をする若い人たちに行き会うことが、偏狭底辺無職全裸老害の身の上でも、ちらほらあったりするのは、ちょっとうれしい。……230424

*2:原稿料というか、昨今はギャラと呼ぶのか、「弊誌の規程により誌面1ページあたり500円」というオファーだった。400字詰め原稿用紙換算などは、こういう活字雑誌でさえ、もう昔話になっているのは承知していたが、「誌面1ページ」換算というのは初体験で、「500円」の方の衝撃はその場ではうっかり忘れてしまった。ゲラのやりとりで誌面1ページの文字分量をざっと計算したら、27字×23行×2段組み、で1,242字で、400字換算3枚ほど。400字詰め原稿用紙1枚あたりだと約166円であった。誌面に組んだら9ページほどだったから……(以下自粛)