五輪の「教訓」

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sports.nhk.or.jp
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 おい、マリオやドラえもんどころか、ポケモンもニンジャもアキラのバイクも出てこんかったじゃないか!――終わったばかりのオリンピックのまずは私的な印象です。

 個々の競技や選手の手柄は全部措いておきます。開催する側の仕切りの悪さ、つまり「祭り」なり「興行」なりを取り仕切る勧進元としての器量のなさだけが強烈に印象づけられ、世間一般その他おおぜいの眼にもあらわになったあの開会式と閉会式。つまり、それら勧進元の意図が直接反映される部分と、興行の本体である各種種目や競技、それらに参加する個々の選手たちの見せてくれた上演・パフォーマンスの質との間の、いやはや、もうまるで別のシロモノ、異空間で行われたとしか思えないほどの絶望的な距離感こそが、今回の五輪のある本質だったとしか思えなかったのであります。

 さすがに棚落ち著しい本邦報道界隈も見過ごせなかったらしく酷評含めて取り沙汰花盛りで、「サブカル」偏重といったもの言いが批判的な意味で擁されていましたが、これは正直、的外れ。というのも、そもそも前回リオ五輪の閉会式の東京への橋渡しの段で、当時の安倍首相がマリオに扮してドラえもんの用意したどこでもドアならぬ土管の仕掛けを使って地球の裏側、リオのスタジアムまでまでやってくる、というたてつけで、世界はもとより口うるさい本邦メディア桟敷のわれらその他おおぜいをいたく興奮させ、かつ、ああ、これなら東京でもこの延長線上に相当いいものこさえてくれるんだろうなぁ、という期待を素直に抱かせてくれていた。それこそそれらマンガやアニメ、ゲームなどこれまで「サブカル」と称され、日陰者扱いされてきたものたちこそが本邦21世紀の世界に向けて発信すべき価値あるコンテンツであることを全力で示してくれるに足る仕上がりだったわけですから、問題なのは「サブカル」ではない。批判されるべきはその「サブカル」をリオの延長線上、きちんと〈いま・ここ〉のわれらニッポンのありかたとして本腰入れて自分ごととして扱う器量を、本邦国家規模での興行を取り仕切る現場がこの4年プラス1年で見事に失っていたらしい、そのことです。*2

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 それら「サブカル」と称されてきたものは、戦後の「豊かさ」まかせにうっかりはびこらせてしまったものでした。それらの価値を、われわれ自身がちゃんと認識しようとしてこなかったことのツケは、そのはびこらせたことの功罪含めて何でもかんでも「サブカル」というレッテルを貼ってわかったつもりになる悪弊としていま、露わになった。それは、その「豊かさ」自体についても同じだったでしょう。なぜわれわれは「豊か」になれたのか、それを自前の身についた言葉にすることを怠ってきたのと同じように、「サブカル」もちゃんと語られてこなかった。そもそも「サブ」に対する「メイン」カルチュアは昨今どうなっているのか、そもそもそんなものあり得るのか、殊に西欧の文明から遠い極東の島国においては……などなど、国民国家として世界に存在証明をし続けるのならばあり得べき問いを全部なかったことにしたまま、それこそノリと勢いだけで突っ走ってきただけだったことを、この令和の世になって改めていまさらながらに思い知らされたというお粗末。

 あのリオの閉会式のアベ&マリオの演出が、戦後の高度成長から平成の「失われた30年」を経てなおかろうじて輪郭を保っていた「戦後の生まれ変わった日本」という自意識による最後の、かろうじてまとめてみせたなけなしの自己表現だったとしたら、今回の開会式・閉会式に見られたようなバラバラの、国として国民として統合する気配を何ひとつ感じさせることもできなくなった索漠とした空しさは、「戦後」そのものがもう本当に過去のものになったことの明確この上ない表現であり、だからこれから先はどのように「日本」の輪郭を世界に向けてもう一度、自分たちの手で描き直してゆかねばならなくなっているのかを期せずして国民同胞の眼前に突きつけてくれました。マスの規模でのイベント、興行ごとというのは昔も今も、その程度には教訓的で、残酷なできごとをうっかりと引き出してくれるもののようです。

*1:紙幅の都合で思いっきり舌足らずで概略だけだけれども、とりあえず。詳細は別の機会にもう少していねいに、と……210810

*2:例の演出だのプロデュースの側の現場のgdgdなどもこのへんと関連して改めて考察しておかにゃならんお題だとは思う、いやほんとにかなりマジメに。