「娯楽」と「ジャーナリズム」の関係、その他

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 かつて――と、もう言ってしまっていいのでしょう、「アカデミズムとジャーナリズム」という対比で語られるのがあたりまえに「そういうもの」だった、そんな言語空間と情報環境が本邦の〈いま・ここ〉にありました。

 それがもう「かつて」と呼んで構わない程度の過去、only yesterday な「ほんのちょっと前」の地続きのむかし、になりつつあることが、いまなお〈いま・ここ〉に生きているわれらのものの見方や感じ方をどれくらい規定しているのか、そのあたりまで立ち止まって考えてみることは、普通の人がたにはまず、ないようです。

 その「アカデミズム」というもの言い自体は昨今、特に40代くらいから下、すでに氷河期世代団塊ジュニア以下になっている現役の若い衆世代の間では、何やら権威を伴って臆面なく新たに使い回されるようになっている気配ですが、それはまた別の大きな問いに関わってくるので、この場はひとまず措いておきましょう。そのもう一方の「ジャーナリズム」の側について言うならば、そこに宿る〈知〉のありようは、少なくとも日本語を母語とする本邦の情報環境においては、いわゆる学術研究的な微視的で厳格な精緻とはまた別に、やや俯瞰的な視野を持ち、かつ〈いま・ここ〉の現在、誰もが日々生きて呼吸する眼前の現実と密接に関わる領分として別途、想定されるようなものでした。

 それは、何も職業としての新聞雑誌の記者や編集者などに限ったことでもなく、最も大きなところで言うなら、戦後の情報環境における書籍出版の「人文書」市場とそれを支えた「読書人」のありように規定されるものであり、かつ同時にそれは、「報道」を焦点とする稗史、生活史/誌的脈絡での〈いま・ここ〉との積極的交錯を、可能性としても内包しているものでもありました。

 そのような「ジャーナリズム」との関係で輪郭を定められるところもあった最もリゴリスティックで偏狭な意味での「アカデミズム」は、理系はもとより文系においても、本邦近代の学術研究の習い性にもなっていました。しかし、それは戦後の情報環境の変貌の過程で、良くも悪くもそれまでとは位相の異なるものになっていったところもあった。このへん例によって継続審議なお題になるのですが、とりあえずわが身に骨がらみにまつわってくる民俗学とその周辺の脈絡だけに限って言えば、戦後、どうして柳田國男がそれまで割と慎重にそう呼ばれることを避けていた「民俗学」の語を解禁し、自邸を開放して財団法人にまでして公的な組織としてのたてつけを整備しようと急ぎ、「学問」「科学」としての態を戦前までのそれとまた少し違う意味あいであそこまで強調せねばならなかったのか、というあたりの問いとも関わってくるはずです。

 「報道」が「ジャーナリズム」へと、もの言いごと転変していった経緯には、新聞雑誌などの活字ベースのマスメディアを軸とした不特定多数への情報流通に、新たな「放送」という媒体が加わったこと、そこに「広告・宣伝」という属性を否応なく伴わざるを得なくなった情報の質の変貌の過程が同伴していたこと、などは、これまでもこの場で、視点を変えながらもできるだけ個別具体な事案や挿話に即しながら考えてきました。そのような流れの上に、このところ合焦しているような、戦後になっての「視聴覚文化」という認識枠組みの前景化もあったわけですが、と同時に、その「視聴覚文化」というたてつけを足場に再度、うしろを振り返ってみるならば、それらの流れの裾野というかフリンジの領域として、映画や映像、音声や音響など、さまざまな回路を介して複合している「上演」の現場、それを複合的に現前させている「場」と、そこに関わっている不特定多数の生身の「関係」のありようなどがあらためて問いの机上に浮び上がってくるところもあります。そして、それらをとりまとめるもの言いとして「娯楽」という語彙が、一見関係なさげに見えながら、実はそのような「視聴覚文化」というくくり方と重なりあうように存在してきていた経緯もまた、あったらしい。

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 「娯楽」というのは、recreation の訳語として戦前、概ね大正末頃から昭和にかけての時期あたりに、一般的な語彙にまで定着するようになってきた言葉のようです。

 それが政策的な文脈で使い回されるようになるのは、社会問題としての貧困や生活難などに対処して制度的な解決をめざそうとした社会政策的な視線が整っていった際、まずは現状を把握する必要から社会調査という、当時まだ目新しかった道具が導入され、行政の現場にも適用されるようになったのがひとつの契機でした。

 社会調査とは言うものの、当時は定量的な調査による把握が主流で、戦後のような定性的な調査手法が自覚的に織り込まれなかった段階でしたが、それでもナマの動態的な現実、まさに〈いま・ここ〉との接点にある現場の体験や見聞を介した無意識含めたフィードバックによって、個々の生身を伴う対象としての人間の生きる現実、「日常」というそれまで明確に対象化され、把握されなかった属性を伴う新たな対象としての「生活」という領分が、その輪郭をあらわにさせられてゆくこと事態にもなってゆきました。

 「もともと「生活」をそのものとしてとらえる、個々の事物に即して言葉にし、それらに知的な処理を施す前提として一定の方法的意志の下に制御しようとしてゆく、そのような発想は、少なくとも日本語環境下の「学問」の明治このかたの来歴にはかなり希薄なものだったようです。(…)それらは文字資料中心の、編年的な時間意識を前提として政治や経済などの水準に第一義的に合焦してきたそれまでの歴史学の視線からははずれるような領域を表現する文脈で主に使われるようになってきていました。文字以外の資料もまた歴史を構成し得ると考えることによってそれら「生活」の領域も含めて「歴史」の拡大を考えたのが民俗学の初志だったわけですが、そういう意味では、広義の歴史を取り扱う学問領域の拡大に伴い、それまで積極的に合焦されることのなかった新たな領域を指し示すもの言いとして「生活」はその姿を現わしていたと言えます。」

 そこから、ならばその「日常」としての生活時間がどのように配分されているのか、という問題意識も出てくる。それを介して、のちに戦後の本格的な生活時間調査に結果的につながるような試みも行なわれるようになりますし、生産に関わる社会的な時間とそれ以外、漠然と休息とだけくくられていた領分について、その内実をより具体的に認識してゆくようになった。その結果、「生産」に直接関わる「労働」に従事している時間以外で、人はどのように過ごしているものか、それこそ、あの「今日の仕事は辛かった/あとは焼酎をあおるだけ」(岡林信康「山谷ブルース」) *1 的に、綿のように疲れた身体に単に酒でも喰らって寝てしまう、あとはせいぜい博奕か喧嘩、たまに商売女をからかいに行く、といった程度のざっくりした大きなくくりの理解ですまされてきた〈それ以外〉の時間の内実が、すでに相当に多様化してきていることがあらためて問題意識の射程に入ってくるようになります。

 もちろん、それらは工場労働に従事する都市型の労働者など新たな常民のありようを同時代、横目で眺める中で、ごく普通の多くの人たちに素朴に察知されてはきていたことではあるでしょうが、それを単なる個々の印象や感想といった生活実感的な水準にとどまらず、そこから先、新たに言語化し、具体的な記述から分析の過程につなげてゆくことにまで、眼を開けるようになってきたということです。

 「同時にその頃、また別の方向からも「生活」は注視されるようになっていました。それは民俗学が合焦したようなムラでなく都市の、言わば近代化の最先端の現実に対してであり、しかも主として政策的な必要からそれまでの視線からは見えにくかった「生活」という枠組みで新たな現実が認識されるようになってゆきつつあったことに伴うものでした。(…)そのような流れとしては「1920年代における近代的な都市生活様式の形成を、それぞれ独自の視点から解明していこうとする」「権田保之助の民衆娯楽論、森本厚吉の文化生活論、今和次郎考現学」など大正期の生活研究があり、その後続いて「大河内一男、永野順造、安藤政吉、篭山京などによる国民生活論」が1940年代に起こってきました。 「そこに共通していたのは、労働力の再生産すら危機に瀕するような国民生活の現状に対して、国民生活が理性的に再生産されていくための最低条件を解明しようとする問題関心であった。」」(拙稿「生活・暮し・日常――開かれた民俗学へ向けての理論的考察③」、2014年)
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 それに伴い、「娯楽」というもの言いも、そのような局面において初めて、それまでの「慰安」とも「趣味」「道楽」とも違う、まさに新たなその他おおぜいとして前景化してきたマスとしての「大衆」を主体とした消費行動としてあらわれる眼前の世相風俗に対する分析的な作業に寄与する記述の枠組みという脈絡で、あらためて意識されるようになったようです。「余暇」などというもの言いも同じ頃、同様の経緯で新たに使われるようになっていますし、また、「盛り場」という問いも、それまでのような世相風俗的な興味関心、あるいは都市計画や建築といった俯瞰的で大文字の水準の視線からの把握とは少し異なる、いわば個別具体の生身の人間の「日常」「生活」の側の微視的な文脈から、新たな視線を向けられるようになってゆきます。

 日々感知しているうつろいゆく眼前の個別具体の事実と、その上に成り立っているらしい「現実」という概念上のたてつけ。それが、生きてある個々の生身の意識や感覚を介して時々刻々感知され、書き換えられ続けてゆく過程の上の漠然とした、しかし等身大を超えてゆく大きな形象として確かに「ある」らしい。そのような実感や手ざわりの総体としての、まるごと身体ごとの切実な〈リアル〉と共に再び編制されなおしてゆくことで、あらためて「現実」はそれまでと違う様相、異なる内実を伴って意識されるようになる。

 このあたりの動きは同じ頃、たとえば「社会主義リアリズム」や「政治と文学」といった問いの設定で、文学や思想の界隈で一連の論争として取り沙汰されていたことなども、同時代的な問題意識として通底するところが間違いなくあったはずです。しかし、残念ながらそれらも共に同じ土俵、共通の問いの場において考えようとする闊達でしなやかな視野も視点も、本邦日本語を母語とする環境における活字/文字を自明に第一義の前提とした情報環境に「そういうもの」として安住する世間の内側からは、敗戦はもとより、高度経済成長もその後の失われた30年も経由したのちの現在においてさえ、未だうまく根づくことができないままのようです。

 「虚構」「創作」は常に「現実」の一部であり、それらも含めて〈リアル〉は編制され、日々更新され続けている。逆に言えば、「現実」も「虚構」「創作」の一部でもあり得るし、そういう〈リアル〉もすでに編制され始めているらしい。つまりは、事実と創作、現実と虚構、「リアリズム」と〈リアル〉といった問いの系に関わる陳腐で古くて、でもだからこそ昨今は立ち止まってもらえることもなくなっているお題について、もういい加減、既存の「そういうもの」から「おりる」を自らに仕掛けながら、あらためて考える必要が切実にあるのではないか、ということなのですが、それはまあ、いい。問題は当時、戦前昭和初年頃の同時代状況において、「報道」ではない「ジャーナリズム」が「娯楽」や「余暇」「盛り場」などと手を携えながら、のちの「視聴覚文化」というたてつけに至る流れの裾野の部分をうっかりと編み上げ始めていたらしいこと、そしてそれはその裡に宿り始めてもいた新たな〈リアル〉の気配と共に確実に察知されていたらしいこと、まずはこれらです。

 そのような〈リアル〉も含めたこの眼前の現実を、どのように手もとに引き寄せ、「わかる」に繋げてゆくことができるのか。政策的な対処が必要な現実というのがあるのなら、それら未だうまく意識もされず、認識もされてこなかったような新たな〈リアル〉を伴うこの眼前の現実をこそ、どのように料理できるよう整えてゆくのか――ざっとこのような経緯で、「報道」ではない「ジャーナリズム」という新しいもの言いにふさわしいと感じられるような〈いま・ここ〉への対峙の仕方は当時少しずつではあれど、くっきりと意識されるようになっていったようです。それは、「報道」に携わっていた界隈のみならず、政策的な目的意識によって眼前の現実と向き合おうとしていた人がたにとっても他人事ではないものになり、いま現在そこにある眼前の世相風俗から何をどう発見し、言語化してゆくのかというこの問いが、行政の現場であれ、当時の新聞など「報道」の中核にあった組織の生産点であれ、ある共通の同時代的な興味関心として、期せずして発熱を始めていたということでもありました。

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 「娯楽」というもの言いの裡には、のちの「視聴覚文化」の範疇にある要素や属性、それこそ生身の身体の現前する「場」における「上演」、文字/活字を自明の前提とするたてつけではない映像や画像、声や音響など、視覚も聴覚もその他生身の感覚やそこから派生する官能、身体的な昂揚や興奮などなど、いずれ「言葉にならない」「絵にも描けない」ような領域までも全部ひっくるめてうっかりと現前する/させてしまう、そんな複合的で総合的な創作表現への新たな視野が含まれていました。まさに、ゆるくは「うた」と呼ばれてもきたような、うっかりと生身に宿り、腰を上げ身を躍らせてしまいかねないような、あのあやしくも避けようのない瞬間をバネにした、〈いま・ここ〉の刹那の表現の領分。

 と同時に、それは概ね商品として提供されるものでした。まして、新たに登場してきた映画や、レコードを介した流行歌に至っては、近代的な工業生産の論理によって量産され、市場に供給される「複製文化」として存在し、個々の末端においても常に厳然たる商品として提供されるものにもなっていました。その他おおぜいとしての「大衆」は、いずれそれらの生産物に商品として接し、そして「娯楽」として「消費」するために「盛り場」に吸い寄せられてゆく。

 その「盛り場」の世相風俗としてとらえられるものの中には、飲食関連のさまざまな業態などと共に、いわゆる興行ものが大きな位置を占めていました。近世このかたの芝居や見世物、落語や講談などの芸能といった「上演」を前提したそれら興行ものは、すでに当時、映画という新たな技術に裏打ちされた新時代のコンテンツに席巻されていたわけですが、いずれにせよそれらは、その日その時その場所に生身の人間たちが臨場することによって成り立つ「場」と、それを支える具体的な「関係」という〈いま・ここ〉に規定される点において基本的に変わりなかった。

 そのように考えてくれば、以前紹介しながら言及した、敗戦後間もなく、立ち上がったばかりの思想の科学研究会が編んだ「ひとびとの哲学叢書」の一冊、『夢とおもかげ』の副題が「大衆娯楽の研究」であり、章立てが大衆小説から始まり、流行歌、映画、演劇、寄席娯楽、という並びになっていたことに、あらためて思いいたります。読みものとしての活字の大衆小説から、広く巷に流れていることでどこにいようが耳から入る流行歌、そして実際に「上演」される「場」に、つまり多くは「盛り場」に足を運んで臨場することで初めて〈いま・ここ〉として受容できる興行もの、というこの配列。それは、「娯楽」という語彙、それも「大衆娯楽」と、戦前の権田保之助以来の脈絡において使われている場合における当時の感覚とは、そのように「盛り場」と結びついた「視聴覚文化」としての複合的で総合的な創作表現をあたりまえに想起するものであり、同時に、それらのある部分はすでに工業生産に下支えされているような新たな属性を持っていることも含めてのことでした。

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 「娯楽」は、その本質において、「場」と「関係」に規定される〈いま・ここ〉の創作表現と密接な関係を持つものであり、それゆえに「盛り場」という空間と不即不離でもある。そして、そのような属性から、その他おおぜいとしての匿名性を伴う「大衆」という形象と、それに伴うそれまでの社会状況では宿りにくかったような新たな〈リアル〉もまた、受容の過程において必然的に巻き込んでゆくものらしい――「視聴覚文化」というくくり方で、それこそ花田清輝などが前のめりに何ものかを見るようになったのも、思えばそれとほぼ同じ頃ではありました。