ラジオと臨場性、そして「家庭」


 初期のラジオはレコードを使って放送することを避けていたらしい、それはなぜか、という話からもう少し続けてみます。

 ラジオ(当時は「ラヂヲ」という表記だった)という新しいメディア――いや、ここは敢えて「媒体」と漢字にしておきましょう、なんでもかんでも「メディア」ごかしに具体的な相が見えなくなる弊害はここ四半世紀ほど猖獗を極めていて、こういう気の遣い方をしておかないことには昨今、日本語を母語とした環境で何かものを見たり考えたりすることはますます難しくなりつつありますから。

 で、舞台はそのラジオを媒体にした「放送」という、これまた新たな情報伝達のあり方が出現した頃の話、ということになります。

 日常に否応なく入り込んでくる音を、「放送」は見境なくばらまいてしまう。それはとんでもない飛び道具であるから、そこに流す内容については制御しなければならない――どうやら当時、放送を司る人がたはこのように考えていたらしい。

 ラジオから流れる音声は、大きくわけて「ことば」とそれ以外、多くはいわゆる音曲、音楽の類になり、さらにその残余が効果音、後には実況や中継が行われるので各種自然音などにもなるわけですが、「放送」である以上、それらがどのような状況下に流れるのか、ということを、音声を流す側が想定はしても全て制御しきれるものではない。そのような属性からしても「放送」を司る側が神経質になったのは、まあ、当然だったでしょう。

 ラジオが流す音声を受け取る側、つまり聴取者としては「国民」全般を想定していても、その具体的なあり方としては何らかの単位、端末の受信機を中心とした、あるまとまりを考えざるを得ない。この受信機としてのラジオの性能の向上や、それらが安価になり、手に入りやすくなってゆく過程というのもそれはそれでまた興味深いもので、レシーバーを介して個人でしか聴き取れない初期の鉱石ラジオが真空管になり、また電源も電池から家庭用交流電源になり、スピーカーから音が聞こえる範囲で複数が聴取できるようになってゆく。昭和初年、ちょうど映画もサイレントからトーキーに移行してゆく過程とほぼ同時代、今となってはあまり振り返って意識されることもなくなった、しかし間違いなく日常を規定する情報環境の大きな変化だったはずです。

 聴取契約者数で言えば、放送開始当初、大正13年には5,000人程度しかなかったものが、翌年いきなり26万人に。昭和6年には100万人突破で、それを記念して公共聴取を目的とした石灯籠のような「ラジオ塔」が全国の公園や駅などに建てられたりもしています。結局、敗戦までに最大700万人にまで増えていますが、敗戦後、放送関係を担当するGHQ高官に対して「日本国内にラジオの数が一千万台近くある、というと、「君、一ケタちがうんじゃないか」「百万台でも多すぎる」と口々にいった」いう挿話も残っているくらいでから、世界的にも高い普及率だったということでしょう。

 もちろん当時のこと、まだ「民放」ではない。いまのNHK、いや、当初は東京、大阪、名古屋のそれぞれ独立した法人だったものが、大正末に社団法人日本放送協会になるのですが、いずれにせよ民間の商業放送は戦前存在しなかった。ということは、「広告」は「放送」に乗っていなかったということになります。ラジオから「放送」される音声に「広告」はなかった、いわゆる宣伝そのものとしても、またそのような属性を伴う情報としても。このあたり、この場をお借りしてあれこれ千鳥足で考えてきた「うた」の来歴というお題の上でも、無視できない部分のように思っています。

 広報宣伝の情報、いわゆる「広告」が日常空間に、「家庭」「お茶の間」にまで四六時中遠慮会釈無く入り込んでくるようになったのは、戦後の民放ラジオの放送開始から、そして言うまでもなくテレビのそれが引き続きの契機になります。

 それまでの広告、不特定多数のその他おおぜいに大量に効率的に伝達されるような形態においては主に紙媒体、特に新聞主体であり、それらが「家庭」に入り込んでくることは起こってはいました。概ね明治の半ば頃から発現し、その後大正期にかけて新聞の販売部数の伸びと共に露わになっていった現象でしたが、とは言え、当時はまだ新聞を「読む」ことのできる層は限られていて、それは経済的な理由などだけでなく、何よりそれら文字を紙媒体で「読む」ための能力、いわゆるリテラシーの普及が追いつかないことには、社会的な規模での影響というのはまだそれほど大きなものにはならなかった。それがラジオという電波媒体、話し言葉で「耳」から「聞く」ことが可能なメディアが普及してゆくことで、「読む」能力よりもずっと広汎に、それら不特定多数のその他おおぜいへ向けて「放送」される何らかの情報を受けとる能力が問われるようになってゆく。そのような国民的リテラシーの変貌が起こっていった果てに、「広告」的なるものの受容にもまた「歴史」が介在してくるのですが、それはまだ先のこと。今はまだラジオが登場した頃の話です。


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 媒体としてのラジオと「放送」の関係以上に、それまで存在しなかった目新しい器具、機械としてはもとより、それが何より家の中、日常座臥の間尺に平然と入り込んでくるようになったことも、日々の暮らしの中のラジオという文脈での大きな効果でありました。と同時に、その日常というのが当時、「家庭」というくくりで理解されるようになり始めていたこととも併せて、また。

「従来の家庭なるものは、往々にして単に寝る処か単に食事する場所なるかの如く考えられているのであります。かかるが故に慰安娯楽の途は、之を家庭の外に求むるのが常でありました。今や家庭の放送に依りて家庭を無上の楽園となし、ラジオの機械を囲んで所謂一家団欒家庭生活の真趣味を味わうことが出来るではありませんか。」(大正14年3月22日、東京放送局仮放送開始時の後藤新平の演説より)

 大風呂敷で鳴らした後藤新平を敢えて東京放送局初代総裁という神輿に据えたのは当時の理事たち、主に朝日新聞出身の石井光次郎と報知新聞から来た煙山二郎だったようですが、この演説で後藤はこのような「家庭」の意義を強調し、ラジオがその形成に寄与することを期待しています。その他、「文化の機会均等」「教育の社会化」「経済機能の敏活」なども放送の今後の役割として述べているあたり、さすがなかなかの見識です。

 放送を聞く多くの場合は、家庭に於て打寛いで家族一同と平和な気持で聴く事が多いのであるから、放送者も亦其気分に合はせる必要があるかと思ふ。(永田秀治郎「放送懺悔」昭和12年 實業之日本社)

 放送を司る側がこのように考えていたことによって、何でもない日常に対して「家庭」という新たな枠組みが与えられるようになってゆきます。もちろん、その枠組みは放送によってだけ編制されていたものではなく、それ以外のさまざまな要因がからみあって成り立っていたものであることは言うまでもないですが、ただそれでもなお、ここで合焦しておきたいのは、そのような「家庭」という意識が日常そのものの裡から勝手に自生し、宿るようになったのではなく、それら「家庭」という枠組みを「発見」し、それを前提に放送という新たな仕組みを司ることになった動きの側から、そこにある眼前の日常が新たに「家庭」として意識されるようになっていったらしい、そのことです。放送が「家庭」を作った、というのが雑な言い方だとすれば、放送が「家庭」という枠組みを「そういうもの」として、あたりまえのものにしていった、少なくともそのような動きを駆動してゆく大きなエンジンになっていた、と言い換えてもいいでしょう。

 そのような「家庭」に配信する音声として、レコードから再生したものはふさわしくない、と判断されていた。それは逆に言えば、ナマ放送であること、つまりその日その時その場所で音声として発されたものをそのまま電波に乗って「放送」するというのが、ラジオ本来のあるべき姿であり、また制御もしやすいものである、という認識が当時あたりまえだったということになります。実際、現場の回想としてもこう言われている。

「放送をカン詰めにする――手法としてでなく、同時性・迅速性といったラジオの機能をすてる――ことなど考えてもみませんでした。」(春日由三『体験的放送論』1967年)

 同時性や速報性、つまり〈いま・ここ〉であることを武器にして「放送」する、という認識。これがラジオドラマや実況放送など、広義の臨場性を売りにしてゆく媒体としての方向づけをしてゆくことになります、少なくとも本邦のラジオと「放送」の関係においては。ことばも、またそれ以外の音声も、そのように〈いま・ここ〉の臨場性をまつわらせながら、ラジオという小さな機械を介して、不特定多数の世間に向けて「放送」されてゆく。

 ならば、「うた」もまたそのような〈いま・ここ〉、臨場性と切っても切れない生身の身体表現である以上、ラジオ放送において優遇されていたのかというと、そうではない。そこには先の「家庭」という枠組みが、防波堤として介在していました。さらに言えば、ラジオがそのように臨場性を売りにする媒体である限り、「うた」に限らず、ことばもそれ以外の音声も、ラジオを介して流される音声一般が「家庭」という枠組みをフィルターにして、放送を司る仕組みの内であらかじめ濾過されるのは必然でした。まして、何らかの感情が動かされ、心が揺らがされ、それが何らかの表現を求めて外側に出てゆく生身の表現が「うた」である限りはなおのこと。「家庭」に持ち込んでよい臨場性、制御された〈いま・ここ〉に収まる限りの「うた」でないと許されない、というのがある時期までの「放送」の習い性になっていたようです。それは本邦におけるラジオが、本質的に相反するふたつの属性、〈いま・ここ〉の臨場性と「家庭」という枠組みの双方の間で引き裂かれながら、商業的な民間事業として市場と素直に対峙することのできない縛りの中で生まれ育ってゆかねばならない時期を過ごさざるを得なかった宿命でもありました。

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 実際、そのように想定された「家庭」というのは、それ自体が理想でありイデオロギーでもあるようなものでした。だから、それを尊重しようとすればするほど、ラジオを媒体とする放送から距離を置かねばならぬようにもなってくる。たとえば、このように。

「私が欧洲の精神病院をみて歩いた頃は、日本のラジオの創始間もない頃で、家庭に据ゑつけるのも問題になつていた。機械が高價であるとか、不完全であるとかいふことも理由の一つであつたらうが、家庭の静かな空氣を亂すことを恐れる気持もあつた。だから病院殊に精神病院などでは、ラジオを患者にきかせようなどとは誰も考へなかつた。」(式場隆三郎「音楽と神経」『こころの聲』所収、昭和刊行会、1943年)

 「静かな空気」があたりまえにあるからこその「家庭」、という前提。それは、大正リベラリズムが下支えした「田園生活」的な志向にもつながり、「郊外」の沿線文化の発展を支えたものでもありますが、そのようなそれまで少しずつ育まれてきていた既存の「家庭」のイメージにさえも、ラジオという新しい媒体は出現当初、そぐわないものとして受け取られていたところがあるようです。こころの平安とそれを阻害する外の喧噪という対比は、まさに「都市生活」の特徴に規定された図式なわけですが、ラジオという「放送」媒体はその図式でいう「都市生活」的な喧噪を「家庭」に持ち込むもの、と考えられてもいた。当然、それら「都市生活」的喧噪とは卑俗であり、猥雑なものでもあるから「家庭」からは遮断されるべきであって、ナマの臨場性を売りにするラジオもまた、「家庭」に入り込む以上は、卑俗で猥雑な「都市生活」的喧噪を最低限制御できていなければならない。臨場性を保ちつつ、しかしナマの〈いま・ここ〉ではない、という背反する条件に、敗戦までのラジオは縛られて過ごすのが定めでした。

 けれども、とは言うものの世間に「うた」は流れている。従来のような生身の声と耳とを介した「はやり唄」の回路を介してだけでなく、すでにレコードと蓄音器の組み合わせによる新たな「流行」のあり方においても容赦なく。そのような情報環境の変貌が当時の〈いま・ここ〉なのだとしたら、臨場性を売りにするナマ放送が身上だというラジオはさて、どのように眼前の「うた」とつきあわねばならなくなっていったのか。

 というわけで、このへんの話はおそらくもう少し続きます。