「古本」の記憶


 古本とのつきあいは、それなりにある。致し方ない、それだけ無駄に長い間生きてきちまった、ということだろう、今となっては。とは言え、偉そうに言えるほどのことは何もない。

 初めて古本を買ったのは――ということは古本屋に自覚的に出入りしたということだが、記憶にある限り高校三年生の夏。わけあってにわかに大学受験をしなければならなくなった頃だ。(このへんの事情は略す) 

 とは言え、昭和50年代初め、しかも兵庫県の凡庸な公立高校のこと、予備校だの通信添削だのさえ学校の進路指導にはロクに情報もなかったから、あれはなぜそうなったのか今でも不思議なのだが、まあ、おそらく何かツテがあったのだろう、京都は百万遍の寺の離れを借りて、ラグビー部の仲間のひとり、真面目なプレイぶりで監督の信頼篤かったが、その分、スクラムハーフに必須な狡猾さやあざとさに欠けるところのあった小柄な好漢と共に十日ばかり泊まり込み、京都は駿台予備校の夏期講習なるものにおっかなびっくり参加してみた、その時だった。

 志望校も何も、特に考えてはなかった。けれども、何となく東京に行くものだとは漠然と思っていた。これまた、なぜかわからない。オヤジが東京の大学を出ていたし、また自分自身も生まれは東京の高度成長期は転勤族の息子でもあったから、東京に「帰る」という感覚もあったのだろう。

 ただ、「大学」という場所自体になじみはあった。当時住んでいた家のすぐ裏に、関西ではそれなりの私立大学もあったし、小学校の頃から遊び場にもしていた。小学校二年で神戸からそこに引越してきてから、ざっと半径二㎞程度の範囲に小学校から中学、高校、大学まであるような地域だったので、日々の通学、小中高校と足かけざっと十年間、その大学のキャンパスを家との往き還りに通っていた。

 確かその大学のプレハブ造りの生協に、当時学生向けに出ていた筑摩書房太宰治全集の廉価版を、小遣いためて揃いで注文したのを覚えているし、グランドの脇にあった「トンキン」という学生食堂は、太めの蒸し麺っぽいやきそばが喰い盛りのガキにはいたく感動的な味で、練習帰りなどそれなりに入り浸ってもいた。その程度に日頃からなじんでいたから、そこに行こうと思ってもよかったはずなのだが、なぜか最後まで本気の志望校にはしなかった。まあ、腕試しのつもりで受験はしたのだけれども。

 通っていた高校も県立ではあったものの、特に進学校というほどでもなかったし、普通科の男子のざっと六割くらいは進学していたとは思うが、それも浪人含めてのこと、女子は三割あるなしじゃなかったろうか。もっとも、そんなことも当時はほとんど意識になく、三十年以上たってから同窓会に初めて呼ばれた時に、自分などよりずっと世慣れてごく世間並みのおっさん、おばはんになっているかつての同級生だった連中の顔つきや身のこなし、その卒業以来の来し方の断片などを眼前の事実として見聞きさせられながら、改めて気づいたような迂闊さなのだが。

 で、その京都だ。夏期講習に通った10日ほどの間、寺は泊めてはくれたものの食事は外食だったので、なにせ場所が百万遍京都大学のお膝元ゆえ、メシを喰いに定食屋に出かけたり、喫茶店に入ってみたり、まあ、「大学生」というのはこういう感じの日常も送るものなんだろう、とその頃勝手に思っていた行動様式の一環で、古本屋ものぞいてみたのだと思う。

 どこのどんな古本屋に入ったのか、すでに覚えはない。間口二間ほどのよくある、中の薄暗い店だったな、という程度だ。だが、買った本は覚えている。寺山修司『書を捨てよ、街へ出よう』。角川文庫版の裸本だった。今も発掘すればどこか手もとにあるはずだ。値段は、確か数十円、高くても百円台だったろう。読んで中身に感銘をうけた――というならサマにもなるが、正直そうではなかった。あ、いや、感銘は受けるには受けたけれども、ただ当時はそれ以上に、自分の意志で選んで買った文庫本、ということの方が大きな意味を持っていたらしい。それが証拠にほれ、何かのお守りのようにして、講習に通う間ずっとカバンにしのばせていたはずだ。

 こういうお守り的に本を持ち歩く、という妙な癖は小学生の頃からあったようで、草下英明の『星座の話』とか、自前でビニールのカバーをこさえてかけて、割と肌身離さずといった風に大事にしていた記憶がある。ある種のフェチ、というか単なる「ライナスの毛布」だと思うが、それが活字を印刷した本だった、というあたりの理由については、その後だいぶ甲羅を経るまで、あまり深く考えたことはなかった。

 とは言え、どこかに、「大学生」は文庫本を読むものだ、というイメージもあったのだと思う。岩波文庫星一ついくら、といった、当時すでに実際的な意味のなくなっていた、でもその少し前までの学生作法、戦前昭和初期このかたの「文庫本」に伴っていたささやかな約束ごとなどと共に。

 おそらく、なのだが、母方の実家が敗戦後の一時期、北九州は八幡で書店を開いていたことがあり、また母方の兄弟もみな当時の大学出だったりしたから、そういう「学生」文化の片鱗みたいなものは、何となく耳にしてきていたのだろう。ちなみに、オヤジも大卒だったが、こちらはラグビー馬鹿のなんちゃって組、そういう「学生」文化の家庭内での伝承についてはほとんど寄与してくれなかった。なにしろ、本棚もなく蔵書の類もまるでなかったくらいだ。

 されど、京都の蒸し暑さと会話も聞こえないぐらいのクマゼミの喧噪とに彩られた、もはや遠ざかってしまった記憶の銀幕に、初めてまともに口にしたアイスコーヒーの味や香りと共に、陽に灼けて赤茶けてヨレた裸の角川文庫のたたずまいは、それなりに鮮やかに残っている。おそらくこの先、ボケたとしても、くたばるまでこのやくたいもない脳みそにしみついたまま、共に焼き場の窯で煮えて果てるのだろう。


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……てな、よしなしごとばかりじゃ、さすがに申し訳ないので、少しは古本そのものの話もしておく。一応は縁あって渡世の看板にさせてもらってきた、民俗学と古本の関係、など。

 民俗学というのは「あるく・みる・きく」がモットーなわけで、かつては紙と文字の「文書」資料を使うことすら、民俗学としては外道として忌避されていたくらいだ。そんな馬鹿な、と言うなかれ、それくらい本邦の民俗学の来歴には、「学」としっぽにつけられる看板とは縁遠いあれこれ世間一般その他おおぜい、まさに「常民」通俗インテリ集団ならではの身ぶりや言動、挿話の類が、ちょっと気をつけて振り返るならば、そこここに平然と転がっている。

 なので、本業としてであれ趣味であれ、古本の話を民俗学界隈の人がたと親しくした覚えは、実は相当に少ない。というか、考えてみたら民俗学その他ガクモン界隈どころか、いわゆる古本趣味者、そういう人がたの拠る雑誌や媒体も含めて、それら界隈に知己を得たことからして、ほとんどないのだ。マメに展示会に通ったりもしなかったし、目録を取り寄せてはいたが、特に何か目標を決めて蒐集したこともあまりない。初版趣味は全くないし、雑誌を通しで揃えたいという欲望も正直、薄い。何より先立つものの都合、財布のあんばいによって買えるブツも初手から決まってくるのが常だったから、何か仕事の必要が生じてしらべものの一環として、手に合う範囲でぽつぽつ拾ってきたのが大方。そういう意味では古本趣味者としても相当に片輪者のはずで、あまり表だって言えるようなブツも挿話も持ち合わせていない。

 ただ、これまで書き散らかしてきた古証文と化した反故の中から、これをあげておくのは、少しはお役に立てるかもしれない。いまからもう三十年ほど前、まだご存命だった赤松啓介翁と親しくおつきあいさせていただいていた頃の、ささやかな果実。無理を言って東京にお招きして胡乱なイベントをやったり、当時売り出し中だった上野千鶴子との対談本を仕掛けてみたり、と例によってのあれこれ野放図を臆面なくやっていた時期の、それでも古本とのつきあい方、それも制度のたてつけに守られたいわゆる学者や研究者というのでなく、そんなもの全部とっぱらったところでの独立独歩、「ひとり」の独行者としての知性にとっての、本邦古本市場という無駄に時間を経過してきている分、その堆積の重層した茫漠無辺な書庫――昨今の言い方に従うのなら「アーカイヴ」とのつきあい方について、その果実と共に具体的に教えてもらった、自分にとってはその痕跡ということになる。

 初出は、確か『マージナル』09、現代書館、1993年10月、のはず。「はず」というのも情けないが、手もとの原本が昨年来、某大学との係争からみで大学に拉致されたままになっているので、おいそれと参照して確認できない事情ゆえ、どうかご容赦いただきたい。以下、手もとのデータ原稿を、そのままお示ししておく。


解説・赤松啓介『神戸財界開拓者伝』 - king-biscuit WORKS https://king-biscuit.hatenablog.com/entry/19930712/p1

 民俗学者赤松啓介の最良の仕事は何か、と問われれば、迷わずこの『神戸財界開拓者伝』を推す。


 初版は一九八〇年七月、神戸市長田区の太陽出版から出されている。箱入り六五九ページの布装。色はなんというのだろう、ひとまずダークブルーと言っていいのだろうが、しかし紺や藍といった系統でなく、むしろもう少しバタ臭い印象の微妙な軽さ明るさのある青だ。背表紙だけは金文字押しだが、それ以外は裏表とも何も書かれていない。社史とか業界史といった書物に通じる地味な造本である。奥付には「頒価三五〇〇円」とあるから、一般書店に卸され市販されたというより、むしろ関係者とそのまわりに限定販売のような形で流通したものらしい。今でも古書展でそれほど高い値段がつけられているわけではないが、部数自体が限られていたのだろう、とにかく見かけることはまれである。


 僕は神戸のある古本屋の棚の隅で見つけ、あれは確か土曜日だったと記憶するけれども、とにかく手持ちの千円札一枚を手付けがわりに怪訝な顔する店のオヤジに押しつけ、銀行のキャッシュディスペンサーが閉まる直前に駆け込んでカネを引き出し、ようやくわがものにした。後日、赤松さん自身に実物を見せたら破顔一笑、「あんた、ようこんなもん手に入れたなぁ」とおほめにあずかった。


 もともとは、神戸商工会議所の機関誌『神戸商工会議所報』に、一九六二年から一〇年あまりにわたって連載されたものであるという。

 「本書の執筆に当たっては、過去の人物であるにしても、その評価は公正であるべきが当然であり、ためにそれなりの資料を蒐集することには努力した。既刊の文献、記録のみでなく、故人関係者や産業伝習者の聞書を採取するのに努力したのも、その例である。しかし人物評価は、昔から棺を覆って後に定まるというが、なかなかどうして百年後を待っても難しいだろう。また蒐集した素材が一面に偏傾することもありうるわけで、要するに執筆者の感想というより他あるまい。」

 その資料の厖大さは、巻末に二〇ページにわたり付された「引用、参考図書及び文献目録」からもうかがえる。「これら神戸産業経済関係の資料は約二万冊ほど蒐集したが、それについては古書店、とくに神戸のあかつき書房、ごらん書店、岸百艸書店、白雲堂書店、加藤書店、勉強堂書店、大阪の松本中央堂書店、高尾書店、東京の岩南堂書店、松城堂書店、熊一書店、慶文堂書店、慶応書房、札幌のえぞ文庫の皆さんにいろいろと協力してもらった。なかにはまだ支払の延滞、未払いで迷惑をかけているのもある」と、自身述べているように、一九六〇年代から七〇年代にかけての時期、赤松さんにとっておそらくもっとも精力を傾けた古書蒐集作業の上に成り立った仕事であることがよくわかる。

 「ただ断わっておきたいのは、開拓者伝は人物の戸籍的調査を一切避けている。各種の人物伝記を読むと、同一人物についての出生地、生年月日すら異なるものがあった。これはその著作者の探査不足というよりも、むしろ本人自身が明確にしなかったのであろうと思われるものもある。しかし興信所的な戸籍調査によって解決できる場合もあろうが、開拓者伝としては、それはさして必要ともみられない。したがって出身地や戸籍、生年月日、その他について異説のあるものは、比較的信頼度の高いものを選ぶか、いくつかの異説を並記するにとどめた。あえて調査の繁を厭うたわけでなく、ただその必要を認めなかったまでである。最近の伝記的作家たちの一つの傾向として、その人物の父祖、誕生、成長の秘事、あるいは出身地の環境のまで剔出し、それが後年の人格形成や事業の経営にまで影響を与えるとみて、仮借なく暴露する風が増えてきた。そうした必要のあることもわかるが、しかし単なる好奇心の挑発、あるいは読者への過剰な媚態というべきものも多い。著書を売りたいための一つの手段に化したとすれば、対象となった人物や遺族の迷惑も大きいであろう。したがって是非とも必要としたい読者は、その限界を心得た上で、自身で調査して欲しい。ときどき私にまで、そうした人物の秘事に渉る照会や調査不足の批判があるからだ。」

 とは言え、「家の神話、伝説的な部分まで、そのまま認めることは拒否している。」やれ、家はもともと清和源氏の出であるとか、どこそこの名家の末裔であるといった類の「伝承」は、こういう調べものをやっていると必ず当事者から真顔で聞かされるものだが、赤松さんはその種の「伝承」については慎重に相対化している。その相対化のための補助線として、「書かれたもの」についての作業がある。


 文献資料とひとくくりに呼ばれる「書かれたもの」の集積、相互引用と、それによって作られるある事実の磁場に、未だ「書かれたもの」になっていない経験、広義の伝承、記憶などを引き寄せ、その磁場の筋目に沿った方向に編み直してゆく。しかしそれは、偏狭な事実主義、杓子定規な科学主義に立つものでなく、現在から過去を組み立ててゆくという作業に本質的に内在する限界についての、もっともゆるやかな自覚、ある達観に基づいている。間違いなく鋭利ではあるけれども、眼細めて遠い風景を眺めているような穏やかさをどこかこの赤松さんの視線に感じるのは、おそらくそういう方法的自覚の部分に関わっているのだろう。柳田國男はよく「同情ある視線」といった言い方をしていた。その「同情」の内実とは実はものすごく多様で、まだまだ考えてみなければならない問いを厖大に含んでいるものだと僕は思っているけれども、しかしこの『神戸財界開拓者伝』での赤松啓介の視線は、その「同情ある視線」に現在の我々がもう少し確かな輪郭を与えようとする時に、ひとつの大きな叩き台になり得るものだ。


 今回『マージナル』誌上に紹介できるのは、残念ながらこの厖大な著作の中のわずか二編だが、読者諸兄姉のご参考までに、目次の全体もざっと紹介しておこう。

石鹸業界の草分け・播磨幸七
花ムシロの王者・赤尾善治郎
日加貿易の始祖・田村新吉
貝釦輸出の開祖・青柳正好
列車食堂の創始者・後藤勝造
麦稈真田輸出の先駆・岡 円吉
鉄道経営の先達・村野山人
燐寸輸出の覇者・直木政之介
宅地造成の先駆・小寺泰次郎
初期財界の世話役・鳴滝幸恭
肥料業界の先達・石川茂兵衛
製紙産業の草分け・ウォルシュ兄弟
石綿興行の創始者・野沢幸次郎
デザイナーの元祖・沢野糸子
貿易商権の確立者・湯浅竹之助
近代理容業の先駆・紺谷安太郎
清涼飲料の先学・和田伊輔
羊毛工業の開発・川西清兵衛
国産ベルトの開発・坂東直三郎
瓦せんべいの元祖・松野庄兵衛
豪州貿易の先駆者・兼松房治郎
元町呉服商の草分け・藤井甚七
洋家具製造の元祖・永田良介
社外船の開発者・山下亀三郎
竹材輸出の先覚・永田大介
ミシン産業の開発・網谷弥助
金融業者の先達・乾 新兵衛
兵庫港経済の再建・神田兵右衛門
海運市場の開発・内田信也
機械貿易の鼻祖・E・H・ハンター
製茶輸出の先駆・山本亀太郎
金融業界の草分け・岸本豊三郎
酒造経営の近代化・嘉納治兵衛
ソウダ工業を創始・北風七兵衛
産業の開発に偉業・金子直吉
商業図案の草分け・小林吉右衛門
近代造船業の創始・川崎正蔵
日比貿易の開拓・太田恭三郎
マッチ工業を確立・滝川弁三
神戸食道楽の開発・松尾清之助
樟脳工業の開発・小林楠弥
港湾運送の近代化・関ノ浦清五郎
新しい製油工業を開発・松村善蔵
電気産業の創始・池田貫兵衛
清涼飲料水の開発・A・C・シーム
缶詰製造の草分け・鈴木 清
日中貿易の巨頭・呉 錦堂
ゴム工業の開発・吉田履一郎
自動車工業の開発・横山利蔵
黎明神戸の先覚・専崎弥五平
清酒輸出の元祖・山邑太左衛門
兵庫運河の開発・池本文太郎
町人学者から実業家・藤田積中
神戸肉の名声を高めた先駆者・山中駒次郎
繊維工業の建設者・武藤山治
生糸貿易の再興・森田金蔵
造船工業の建設・松方幸次郎
農産薬剤の開発・長岡佐介
駅弁立売の草分け・加藤謙二郎
図南殖産の先駆・依岡省三
土着産業の開発・小曽根喜一郎
天王温泉の開発・秋田幸平
米穀商の近代化・高徳藤五郎
神戸築港の建設・沖野忠雄
燐寸輸出の先駆・秦 銀兵衛
都市開発の先覚・加納宗七
都市計画の先覚・関戸由義
電気事業の開発・田中 胖
薬剤業界の開祖・横田孝史
新聞業界の先覚・鹿島秀麿
生糸貿易の中興・小田万蔵
緞通輸出の先覚・松井和吉
洋品雑貨の創始・丹波謙蔵
農工金融の開発・伊藤長次郎
電話取引の創始・村上政之助
都市開発の先覚・山本繁造
石灰工業の創始・樫野恒太郎