阿久悠と都倉俊一――〈おんな・こども〉への合焦



 前回、最後に阿久悠の名前が出たので、彼の仕事を足場にもう少し、〈おんな・こども〉の領域が「うた」とそれに伴う日常の身体性とでも言うべき領域にどのように関わってきていたのかについて、続けてみます。

 阿久悠という名前は、「作詞家」という肩書きが、それまでの歴史の過程における有為転変も含めて輝いていた、その最後の時期の最も大きなひとつだったと言っていいでしょう。いまさら言うまでもない。70年代から80年代にかけての商品音楽、いわゆる「歌謡曲」「流行歌」と呼ばれる領域で、メガヒットを連発して質量共に縦横無尽の創作活動を展開した。彼自身、後年手がけるようになった小説やそれに類する読みものも含めて、その間の経緯を多様に書き残しています。ある時期から詳細につけていたという日記まで、確か母校の明治大学に寄贈されて残っていますし、2007年に亡くなって以降、さまざまな評伝や批評、論評などが出るようにもなっている。もちろん、そのような取り上げられ方をされ、各方面から素材にされるようになることにつきものの玉石混淆、いらぬノイズも乗ってくるしバグも生じるという致し方ない面もありますが、ただ、「歌謡曲」自体が、すでにその国民的記憶と共に「歴史」の相に繰り込まれつつあり、かつまた、かつてそれらを生産現場で支えていた人たちも鬼籍に入りつつある時期にさしかかるめぐりあわせともあいまって、近年なかなか賑やかな領域になっているそれら大衆文化、いまどきのもの言いでのサブカルチュア界隈において、改めて焦点化されるようになっているのも確かなようです。

 その彼は、山本リンダからフィンガー5にかけて、「絵空事」の世界を商品としての「歌謡曲」に意図的に持ち込んだことを語っています。いまから半世紀ほど前、1970年代始めのことです。

 もともと広告代理店の社員で、その立場から民放テレビの制作現場に、特に歌謡番組に関わり、『スター誕生』の立ち上げ当初からのスタッフでもあった彼は、高度成長期におけるテレビというメディアの上げ潮の〈リアル〉を肌身で感じ、日々呼吸して生きていたようです。

 それまで時間と空間とが交錯した〈いま・ここ〉と結びついて初めてなりたっていたさまざまな表現、創作のありようが、複製技術時代を迎えて以降、大きく変質してきた、そのことが本来「非日常の迫力と特異性が要求され、圧倒的なプロの意識と芸を持つ必要があり、その繰り返しと増幅で(…)ますます非日常的になっていった」はずの表現や創作に携わる者たちのありようにも影響するようになった。その上で、自らが関わっていた新興マス・メディアとしてのテレビについても、黎明期の混乱を経てそれなりの存在感を示し始めていた当時の状況を「テレビの時代といわれて久しくなっていたが、テレビの時代を自然な空気として呼吸しているタレントを、産み出す感覚もメカニズムも作られていなかった」と、素朴な言葉ながらも大枠として的確に指摘しています。

「テレビは日常であった。決心して出かける必要も、買いに走る情熱も無用に、歌や歌手やタレントを送り込んでいた。そのような状態では、非日常で成立しているエンターテインメントは、どこか不自然であった。めったに逢えないことを前提にした歌や芸は、それに応えるために強力で強烈な個性と方法論を身につけていたから、そのままの姿で、いつでも見られる日常のテレビの中に登場すると、異和感を覚えた。」

 これに、たとえば次のような認識を重ね合わせてみるのは、さて、どうでしょう。

「テレビに芸は必要ありませんから、上手下手はないのです。あるのは「テレビ映りが良いか悪いか」という観る側観られる側の「主観――即ち思い込み」だけです。テレビ以外のメディアには上手下手という「芸の基準」があるからこそ「芸能」ですが、観る側はテレビにもそれがあると思ってしまった。」

 橋本治です。共に同時代にありながら、全く違う世間で生きていた、もちろん実際に互いに顔合わせたこともなかったはずのふたりが、たまたまほぼ同じような、透徹した認識をメディアとしてのテレビに抱いている。少なくとも、これまでそれなりに蓄積されてきているテレビやメディアに関する折り目正しげな論考や言説の類が自明に依拠していたたてつけに沿ったものとは異なる、「うた」に関わってくるような生身を介した表現や創作の、いわば「芸能」としての位相にうっかりともたらしていたらしいのっぴきならない変貌のある本質について、ぐい、といきなりわしづかみするように。


「テレビは基本的に「報道」で「ニュース」でしかないようなものですが、これはテレビ放送の初期にはあまりよく分かられてなかった。何故かというと初期のテレビカメラには機動性と記録性がなかったからです。(…)そこにカメラを持って行きさえすれば遠くの受像機にそれが映る。テレビ局は何も作らなくていい。だからテレビは芸能でなく「報道」です。報道されたものを受け手が芸能としてとらえるから「芸能」になる、というようなものです。(…)でも、ニュースを報道できなかったテレビはちゃんと「娯楽」を報道していた。それが「プロレス中継」であり「野球中継」であり「舞台中継」だったりする「実況中継」でした。テレビは世間的には「娯楽」と位置づけられるものを報道していたがために、報道のメディアだとは思われなかったのです。」

 阿久悠が現場で肌身で感じていたらしい、マス≒大衆をいきなり相手にする、できる新興媒体としてのテレビが当時、高度経済成長をくぐった本邦の社会の〈いま・ここ〉に対して獲得し始めていた、それまで可視化されていなかったような、ある可能性の気配について、橋本治はこう語ります。

「テレビは「特殊な娯楽」なんです。観る側の態度如何によってそれが報道か娯楽か教養かを決定されてしまうような「特殊な娯楽」であるようなメディア、どんなものでも娯楽になり得るという、娯楽についての新しい考え方を作り出してしまった、それまでとは全く異質なメディアなんです。」

 テレビというメディアの出現は、単に新たなマス・メディアの登場という以上に、その「マス」との関係において等身大の〈リアル〉の成り立ちそのものから変えてゆくような、言葉本来の意味での文化史、文明史的な間尺でのできごとに関わっていたらしい。それは音声に特化したマス・メディアであったラジオともまた違う、映像を伴う音声が同時性を伴いながら、ラジオと同じく広汎に「放送」されるようになってゆくことで、それらが生身にどのように受け取られてゆくか、そしてどのように官能を介した〈リアル〉の編制にまで影響してゆくのか、といった過程の問題、〈いま・ここ〉と「芸能」の関係、生身を介した表現、創作のありようの否応ない変質に合焦されてゆくべきことにまで、阿久悠橋本治は共にうっかり反応していました。しかし、そのことの意味は、どうやら未だにうまくほどかれないままらしい。

     

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 60年代、おりからの高度経済成長によってもたらされ始めた「豊かさ」は、「うた」のありようも変え始めていました。商品音楽の市場でも、いわゆる「洋楽」の存在感がそれまでと比べものにならないほど大きくなってきます。「この時代、三つの大きな流れが世界に生まれ、日本に上陸しようとしていた。一つは、ザ・ビートルズが代表するリバプールサウンド、一つは、ベンチャーズアストロノウツのエレキ・インスツルメンタル・サウンド、もう一つは、PPM等のモダン・フォークであった」という阿久悠の認識は、ここでもまた素朴ながらも大枠で的確です。


「当時ブームであったフォーク・ソングは、テレビと対極の位置にあった。テレビに出演しないことが、一つの自己主張ともされていた。マスを拒んだ。肉声の届く範囲というのが本来であろうが、彼らはマイクも使い、アンプも使っていた。ただ、ナマの客に語りかけ、歌いかけるのを絶対の条件としているようなところがあった。」

 ここでの「フォーク・ソング」とは、それら「洋楽」の普及拡大に伴い草の根的に現われた、それこそ吉田拓郎などに代表されるような、当時の「流行歌」市場に新たに姿を見せ始めた若い世代を担い手とする商品音楽の形態をさしています。その意味で、先の「モダン・フォーク」の本邦における受容形態が、当時の商品音楽の市場にまでローカライズされて現われ始めたものと言っていいでしょう。彼らは当初、その出自から、そして当時のカウンター・カルチュア的な同時代的空気から、商業主義自体を敵視し、テレビやマス・メディアで紹介されることをことさらに拒む姿勢を見せていました。商品音楽に関わり、それを仕事としていながら、マスやマスにまつわるイメージを否定的にだけとらえる習い性は、その後も音楽業界、殊にミュージシャンやその周辺の人がたには根強くある種モードとして伝承され、近くは東北の震災後、反原発運動に加担して原発再稼働に反対する中、「たかが電気のことで……」と迂闊にも言い放った坂本龍一などにまで、未だしぶとく揺曳しているようですが、それはともかく。

「テレビ出演を拒むフォーク歌手に、「視聴率20%、全国ネット、およそ二千万人の人が見て聴いている。この同じ数の人たちに、つまり二千万人に、きみたちがコンサートで接していこうと思うと、毎日二千人の満員の状態を365日続けて73万人。二千万人に達するためには、それを27年間つづけなければならない」と言ったら、一瞬だが、え、そんなに、と心が揺らいだ顔をしたことがある。」

 見ようによってはマス・メディア的な商業主義の権化とだけとられかねない挿話ですが、当時のテレビというメディアの飛び道具性、少なくともその現場に関わっていた者の視野とそこに伴っていた感覚ぐるみに見通す大衆社会の新たな手ざわりが、このような表現になっていた、そのことにひとまず注目しましょう。この「量」と「速度」を可能にするメディアを介して拡がり始めていただろう、ある種の見晴らしの良さは、当然そのような新たに〈リアル〉に最前線で対峙し、同時にビジネスに繋げてゆくことが仕事になるような立場において、それまではあまり明確になっていなかった新たな消費者という客体を、いよいよ輪郭確かにくっきりと、見出してゆくことになったようです。〈おんな・こども〉がゆっくりと、その禍々しい様相も含めて立ち上がり始めていた。


「タレント・グッズが商売になったのは、本格的には、フィンガー5からではないかと思う。学用品から、子どもの日常の用品、ファッションに至るまで、フィンガー5の名前の入ったものが売れに売れた。」

 タレント・グッズと彼は言っていますが、要は子ども相手のおもちゃの類。「歌謡曲」「流行歌」がそれら「子どものおもちゃ」を売るための宣伝媒体のようになっていった時期、言い換えれば、歌手と共にパッケージ化され、市場に流通する大量生産商品となった「うた」が、〈おんな・こども〉を対象に狙い定めた「グッズ」≒「おもちゃ」の販促媒体化していったのが、概ねこの1970年代初頭でした。このフィンガー5や、もっと大きくはあの天地真理などを介して。おもちゃや文房具、日用品の類から、子ども向けの自転車などにまで、彼らの意匠が付与されたものが商品となり、また人気を博すようになっていました。

  

 それは、都倉俊一と組んで、初めて成り立ったことだったらしい。都倉俊一、現在は文化庁長官。

「決して日常的ではないものの、テレビという日常性を最大限に利用して作り出す非日常性、という方向にぼくの考えは絞られていた。(…)都倉俊一と組んでの、非日常性のエンターテインメント路線というのは、過去に相当な実績があった。ぼくらはそれを、テレビ時代の歌とも言い、歌のアニメーション化とも呼び、ふたりが開拓して、発見した路線だと、自信も誇りも持っていた。」

 この「相当な実績」と自負しているのは、山本リンダのカムバック曲「どうにもとまらない」以来、フィンガー5を立て続けに仕掛けた成功体験のことなのですが、この蓄積がその後、あのピンクレディーという、さらにケタはずれの社会現象にまで繋がってゆくことになる。


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山本リンダや、フィンガー5に書いた歌の路線を、絵空事ですよ、漫画、アニメーションですよと、ぼくは言っていたが、必ずしも本心からそう思っていたわけではなかった。絵空事のふりはしていたが、それは、世の中に対するいささかの遠慮であって、ある種の見通しとしては、やがてこうなるであろうと、確信していたのである。(…)だから、ぼく自身も、いや漫画ですよ、漫画、とニヤニヤしながら逃げていた。」

 なにげない言い方ですが、この「絵空事」の内実を説明するのに「漫画」「アニメーション」を比喩的に使っていることにも注意しておきましょう。阿久悠も含めた当時のおとなたち、商品音楽生産の最前線で仕事をし、新たな市場の気配に勇躍していた彼らの感覚として、相手にすべき新たな消費者を狙った表現をあらわすのに「漫画」「アニメーション」という言い方をしているのは、それが彼らにとって決して自分事ではない客体であり、いわば異物としての〈おんな・こども〉のものであることを示しています。

 阿久悠と都倉俊一、昭和12年生まれと昭和23年生まれ。戦前と戦後、明らかに違う世代体験を持ち、何より生まれ育ちからして全くと言っていいほど違っていたのにも拘わらず、なぜか彼、阿久悠はその初対面での印象を「男と女の関係でもあるまいに、まさに、一目惚れといった感覚で、ぼくに心地いい衝撃を与えた」と言い、「紹介されて一言挨拶を交わしたかどうか、その記憶さえ曖昧なのに、何やら視界をかすめた大きな鳥のように、いつまでも残像の消えない鮮やかさで、ぼくの気持ちを捉えた」と、どこか初恋めいた思い出のワンシーンとして語っています。

 「路上駐車の真っ赤なフェアレディZに、長身を折りたたむようにして乗り込み、急激な排気音を立てて去って行く姿を、まさに口を開けた感じで見送って(…)ぼくが半ば陶然としていたのは、その屈託のなさと、風のように淀みのない動きてあった。ぼくの世代が渇望し、努力しても、到底手に入れることのできない種類の能力を、全く普通のこととして身に備えている世代で、本来ならば嫉妬の対象になるはずが、彼の場合、何故か嬉しく思えたのが不思議だった。」

 中山千夏の「あなたの心に」の作曲者として名前は知っていた、さわやかな、きれいなメロディだった、初めて姿を見たのは、「学生だけど、なかなかいい曲を書くのよ」「ちょっと生意気な小僧がいるんだけど会ってやってよ、まあ、生意気とはいっても外国人だと思っていれば腹も立たないし、魅力があるといえばそういう魅力だからさ、作曲はなかなかいいよ」と、音楽制作のディレクターやプロデューサーたちに紹介された時。


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 この、本来なら出逢うはずのないような異質なもの同士の邂逅が、〈おんな・こども〉を市場の銀幕にくっきりと映し出してゆく大きな駆動力になったらしいこと。それを手がかりにこのあたりのこと、もう少ししぶとく続けてみたいと思います。